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武士の一分

ようやくのことで「武士の一分」を見に行った。これで山田洋次監督、藤沢周平3部作が完結したことになる。主演が木村拓哉くんであることから、前評判で煽られた若い女性が多いのかと思いきや、結構落ち着いた年齢の夫婦連れが目立った。もちろん若いカップルもいたのだが。

期待以上に木村拓哉くんが良かった。盲目になってからの表情には「凄味」がにじみ出て、迫力があった。役にあわせて体重も落としたんではなかろうか。もちろんのことだが、「ぶっちゃけ」も「ちょ、まてよ」もなければ、唇をなめて喋る、下唇をゆがめて喋る仕草もなかった。「じゃ、あれは、素に思わせておいて、じつは役作りだったのか」と思わせるほどに、誇りに満ちた武士を好演していた。

また、脇を固める役者もすごかった。緒形拳、小林稔侍、桃井かおりなどそうそうたるメンバーで、なかでも、中間役の笹野高史は良い味を出していた。板東三津五郎の所作はさすがに美しかったが、主人公の妻を手込めにする「卑劣なエロじじい」そのもので、監督がねらった「悪魔的な魅力」は残念ながら感じられなかった。

映像的には、「足」「足裏」が非常に印象に残っている。盲目になってから、剣の師匠(緒形拳)との立ち会いのときに見せる足のさばき、壇れいの素足や足袋をはいた足の動きなどが鮮やかに思い出される。
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ピアスさん

『トムは真夜中の庭で』などの著作があるフィリッパ・ピアスさんが亡くなったことを知る。胸に穴が開いたみたいだ。ショック。

基礎演習Ⅱの授業で、'At the River Gate'を読みはじめたばかりだった。また、休み中にこの作品集をもう一度読みなおそうと思っていたところだったのに。

NECLのセミナーがケンブリッジ大学であったとき、パーティでお目にかかり、写真も一緒に入っていただいた。清水眞砂子さんのことが話題になったとき、masakoの発音はこれでいいのかと私に確かめ、何度も「まさこぅ」とつぶやくようにおっしゃっていたのが印象に残っている。自分の大事な友人の名前を、きちんと発音しようという気持ちにあふれていた。リバティの赤いバラ模様のブラウスをお召しになっていた。合掌。

「ベトベン」

23日の年末恒例の日フィル&コバケンの「第9」と「のだめカンタービレ」最終回に触発されて(漫画もさらっと読みなおした)、昨日は、仕事(いつ終わるとも知らぬレポート添削)のときも、昼寝のときもずっと「ベトベン」(のだめ語)を聴いていた。交響曲は、3番、7番、9番が好き。7番は、「のだめ」効果で、しつこいぐらいインプットされてしまった。

ところで、9番の「第3楽章」と「第4楽章」は、生で聴くとすぐ4楽章に入り、ポーズはないのであるが、CDではどれを聴いても(ハイティンク/ロイヤルコンセルトヘボウ、ラトル/ウィーンフィル、アシュケナージ/N響)、少し「間」がある。何とかならないものかと思う。「生」の緊張感、迫力はすごいのに。

合唱隊とソリストは、2楽章終了後から舞台上で待機となる。舞台上で観客の注目を浴びながらかなりの時間待ったあと、ろうろうと「フロインデ」に入るバリトンの緊張感は想像するだに恐ろしい。

佐藤多佳子『一瞬の風になれ』(全3巻)を読む

佐藤多佳子はわりと好きな作家で、この作品も新刊平積み状態のときチェック済みだったが、「陸上競技」が絡んでいたので、「運動音痴」な私は敬遠していた。で、これも夫からまわってきた。結果は、一気読み。しかし、途中、競技の説明やタイムについての記述などのところは斜め読みにしてすっ飛ばしたので、きちんと評価する資格はないと思う。

新二と連の二人の少年が、陸上競技(短距離)を通じて切磋琢磨し成長してゆく話、と書いてしまうと、この作品の面白さがまったく伝えられないことに、忸怩たるものがある。つまり、作品に描かれている「陸上競技」や「部活」や「人間関係」にどっぷりつからないと、作品が楽しめないということである。その意味で、陸上競技の部分を「すっ飛ばした」私は、残念ながら半分も楽しめていないということかもしれない。

でも、新二も連も好きだし、新二が心をよせる「谷口」もいい。運動部の監督らしからぬ三輪先生も好感が持てる。佐藤多佳子は、それぞれの人間のかき分けがうまいのである。高校の部活動の上質な上澄みをすくい取った作品といえるかも知れないが、「うそ」臭さはない。

青春まっただ中の高校生も読むだろうが、「高校時代」を懐かしむ世代により受け容れられる作品のような気がする。その意味で、児童文学ではなさそうだし、あさのあつこの二人の少年を描いた『バッテリー』とも違うような気がする。

篠原まり『マリオネットデイズ』を読む(ネタバレ!)

夫からまわってきた『マリオネットデイズ』(ポプラ社)を読んだ。登校拒否をきっかけに母親から自立する少女を描いたYA作品である。

一人っ子の秋音にはどういうわけか小学校入学以前の記憶も写真もない。家庭では過去のことを話題にするのは憚られる雰囲気がある。中学3年に進級する年の春休み、秋音は父親所有の本から5歳の自分が写っている写真を見つける。写真には「鏡子様/秋音 五歳、悠司 六歳/美里」とあった。それ以来、彼女の夢には「弟」が出てくるようになる。

新学年が始まったとたん秋音は教室に行けなくなり、ほとんどの時間を保健室で過ごすようになる。ところが、保健室登校が母親の知るところとなり、今度は母親の方が心痛で入院してしまう。責任を感じた秋音は、5月の連休明けに何とか教室で授業を受けようと決意する。同じように保健室登校している美由紀に母の病気のことを話すと、彼女は秋音の母親のことを「自分以外の人が病気になるのが許せないタイプ。娘を学校に行かせるためには、胃に穴だってあけちゃう」(p18)と言ってのける。ムッとする秋音だが、「(ママは悪くない。私のせいだ。わたしがしっかりしなくちゃ)」(p18)と考えると息苦しい。不登校の先輩でもある美由紀は、「どうせがんばるなら、お母さんのためじゃなくて、じぶんのためにしなよ」(p22)と励まし、二人で教室に戻ることにする。

ある日、秋音が成長した「悠司」を見かけたことから、「写真の謎」が次第に明らかになってゆく。秋音には広海という弟がいたが、幼いころ突然病気で亡くなってしまったこと、5歳の秋音は弟の死に責任を感じ(じつは、母親から責任を感じさせられ)、記憶を封印していたことがわかる。タイトル「マリオネットデイズ」が表すように、この作品は、母に操られる娘であった「マリオネット」秋音が、友人や知人に支えられながら、「親もタダノヒト」(p137)であり、母親を嫌悪する自分を認めることができるようになるまでを丁寧に描いている。

秋音の自立というテーマを支えているのは、成熟できず、ほんとうの意味で自分を見つめることのできない未熟な母の描き方である。「あんな母親、いるよね」「あんな母親だったら、まいるよね」と思わせるまでに秋音の母親は、不快なほどリアリティがある。「あとがき」を読むと、作者は、不登校の子どもの母親だったらしい。その体験が作品に大いに活きていると実感するのは、秋音の母親をはじめとする「母たち」の描写が、鋭く、悲しいまでに説得力があるからだ。物語の最後に、さわやかに成長を見せる秋音と比べると、秋音の母の非可塑性には、現実と肉薄していて、とても悲しい。

物語としては、嫌でも現実を意識させられるわけだから「楽しんだ」とはいえないが、面白い作品ではあった。デビュー作とは思えないほど達者な物語作りであるが、反面、その作りや物語のディヴァイスに図式的なものを感じてしまった。つまり、うまくできすぎているのである。

この作品を読んで、「救われた」という思いを持つ子どもがいたら嬉しいし、「あとがき」にあるように、とくに思春期の子どもを持つ、父親、母親にも読んで欲しい。しかし、つくづく思うが、どうしてこんなに生きにくくなってしまったのだろう。

西原理恵子『ああ娘』

本屋さんで西原理恵子の『ああ娘』を見つけてさっそく購入した。『ああ息子』の続編である。息子編の方は、その「豪快さ」において面白かったのに比べると、娘編の方は、その「したたかさ」に軍配が上がる。

授業前に教員ラウンジで読んでいたのだが、思わず笑ってしまい、ちょっと恥ずかしかった。

新築の家の廊下にサラダ油をまいて、トドのように滑って遊んでいた1歳と3歳の男の子の話や、3歳にして男(父)をたぶらかす(?)女の子の話を読んだりすると、「やっぱり、男と女ってちがうよねぇー」としみじみ思ってしまう。

「色白でまつげが2センチ」もあるバレエを踊る芦屋のお嬢様の家庭内「おっさん度」には抱腹絶倒した。落ちこんでいるとき読むと、とくに元気が出ます。

『ああ息子』(西原理恵子+母さんズ/毎日新聞社)
『ああ娘』(西原理恵子+父さん母さんズ/毎日新聞社)

荻原規子を読む

レポート添削の合間に、荻原規子の『これは王国のかぎ』『樹上のゆりかご』(ともに中央公論社)を読んだ。『これは王国のかぎ』は、物語の波に乗るまでに時間がかかってしまった。第1楽章「海とシンドバットの船」の4になってようやくスピードが出て、後は一気呵成に読み進んだ。彼女の物語作りのうまさには脱帽するが、ファンタジーでの会話にときどきひっかかる。あまりにも軽いというか、現代的といおうか。

『これは王国のかぎ』は中学3年生の少女(上田ひろみ)が突然「アラビアンナイト」の世界に入ってしまう物語である。だから、彼女が現代的な言葉を使おうとあまり違和は感じないし、ファンタジー世界の住人たち(ほとんど男)の会話との対照もあってメリハリがついていると思われるのであるが、女の子の口調となると、突然「いまどき」を意識させられてしまうのだ。

「あたしは、しがない奴隷娘のミリアムよ。たまたま、アズハル王子に顔立ちがそっくりだったので、めずらしがって買われたの。あたしの値段は高かったのよ。教育を受けているし、歌もうまいでしょう。(p156)

「西の善き魔女」シリーズを読んだときにも、女の子の口調にひっかかりを感じたものだ。うーん。

続編(といってもこちらは高校を舞台にしたリアリスティックな作品)とされる『樹上のゆりかご』では、事件の真相を握っているであろうと思われる近衛有理と『サロメ』の組み合わせが何ともうまい。

ところで、中央公論版の少女漫画的な挿絵と表紙は何とかして欲しい。まぁ、こんなふうに思うのは、XXさん読者だけかもね。

う・う・うれし

昨日、ライティングの授業中、急におなかが痛くなった。我慢していたのだけれど、つい口にでてしまった。「おなかが痛い!」

学生たちは、なんだか「うれしそうに」、「大丈夫ですか?」などと口々に心配(?)してくれた。「トイレに行ったら」「授業もうやめていいよ」(こらー!)などなど。そうか、こういうことってあるのね、と私のほうは「急にトイレ」という学生の気持ちが、ちょっと理解できた。

学生たちのお言葉にあまえて、少し早めに終わって、トイレに駆けこみました。「冷えたのかしら?」

教員室に戻る途中、K子が「先生!」と声をかけてきて、「はいこれ」といって、あたたかいお茶を渡してくれたのです。う・れ・し!

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