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3年生ゼミ

リアル大学での来年度の授業が急遽変更になり、「英米児童文学」2コマのうち1コマを「3年生ゼミ」に振りかえることになった。すでに学生に告知したあとの変更だったので、学生が集まるかどうか心配だったが、昨日連絡があって、27名(定員は25名)の申し込みがあったそうだ。一安心。

まあ、いまも7限の授業はゼミみたいなものだが、「ゼミ」と名前がつくと、課目に「専門性」が付与される気がするのだろうか、学生からなぜ英米児童文学に「ゼミ」がないのかという疑問をよくもらったものだ。

そういうわけで、シラバスも急いで書かなくてはいけなかった。「伝承文学からファンタジー」を大きなテーマにして、メインで「アーサー王伝説」の再話(サトクリフ)を読みつつ、ときどきに、北欧神話、昔話などを読んでいこうと思っている。サトクリフの英語は、大変だけれど挑戦する価値のあるものだ。

しかし、基礎演習(<ゲド戦記>を英語で読んでいる)を担当していて思うのだが、彼ら(来年の3年生)の物語体験は、驚くほど少ない。また最近の英文科のトレンドは「英語学」である。学生の中には、英語学を勉強すれば、「英語が読めるようになる」という美しい誤解もあるようだ。
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上橋菜穂子『獣の奏者』Ⅰ・Ⅱを読む(1)

上橋菜穂子さんの新作、『獣の奏者』Ⅰ(闘蛇編)、Ⅱ(王獣編)を恵贈いただいた。またもや、夜明け前から読みはじめ、一気に読んでしまった。あわせて約700ページである。読む人をあきさせず、ぐいぐいとひっぱってゆく物語の力とテーマの重厚な普遍性が絶妙なバランスをたもっている。骨太で哲学的思考をうながす内容なのだが、「物語のよろこび」をも堪能することができ、ここに来て、今年一押しのファンタジーが出てきたようだ。

けっして人に馴れず、また馴らしてもいけない獣とともに生きる宿命の少女・エリン。(『闘蛇編』帯より)

王国の陰謀に果敢に立ち向かう少女・エリン。獣を操る技を身につけた彼女が選んだ未来とは?(『王獣編』帯より)

「少女と大きな野獣」というと、アニメ『風の国のナウシカ』やル=グインの『帰還』が想起されるが、深さの面で『ナウシカ』より、さらに深く、物語のおもしろさの点では、『帰還』にも勝るのではないかと思う。いまは、読了した高揚感が強く、物語を客観的に述べることなんて無理なので、とりいそぎ、エリンの誕生を報告し、祝福したいと思う。

物語に没入しながらも、付箋を貼りつつ読んでいる私の姿を見た夫に「こんなときにも研究者魂が抜けていない」と揶揄される。

その後、『闇の守り人』を再読し、一昨日から上橋ワールドにどっぷりつかっている。

『イスカンダルと伝説の庭園』を読む

『イスカンダルと伝説の庭園』(ジョアン・マヌエル・ジズベルト作/宇野和美訳/徳間書店)を読んだ。作者への予備知識もなく、スペインの現代児童文学についてもまったく知らない私が、この作品を手にとったきっかけは、『ベラスケスの十字の謎』を読んだことにはじまる。『ベラスケス…』は、ブログでも触れたとおり、おもしろい作品であったが、なんといっても訳者の宇野和美さんの日本語が印象に残ったので、この人の日本語を読みたいと思っていたのである。翻訳物で日本語に魅了されることなどめったにないので、こんな風な本の選択には我ながらびっくりだ。そして、この作品も期待に違わず、端正な日本語で作品世界が展開された。

未来永劫にわたって世界一美しくあり続ける庭園をつくりたいと考えた王アルイクシールと、またとない機会を前にすべての力を注ごうとする、並はずれた才を持つ建築師イスカンダル。自らの栄誉のためには手段を選ばない王の仕打ちを、建築師はどうくつがえしてゆくのか。(訳者あとがきより)

当代一という建築師にアルイクシール王は、「ほかに並ぶもののない」「五感すべてに喜びを与える」最上の庭園をつくってくれと依頼する。その王の期待に応えるため、イスカンダルは全身全霊をこめて、庭園づくりに没頭する。そこへ、盲の占い師ソスが訪れ、イスカンダルに「その日が来たら、アルイクシールから身を守れ。おまえの中の一番大事なものを守りぬくのじゃ。では、たっしゃでな」(p36)という謎めいた言葉を残して立ち去る。

為政者の欲望と創造者の本能がせめぎ合う。アルイクシールは、庭園が完成した暁には、イスカンダルに一生困らないほどの褒美を取らすと公言しているが、それは確かなことだろうか? 勘のいい人ならば、このあたりで、すでに物語の「おち」が見えてしまうかもしれない。しかし、作者はさわやかにそれを裏切る。また、イスカンダルの偉業を伝える重要な役割に詩人(語り部)を配したのもさすがと思わせる。

物語そのものは、わかりやすく読みやすい。あるいは、これだけの材料を揃えているのに、たった180ページしかないという点に不満を感じないわけではない。もっと書きこんで、読ませることができるのにとも思う。しかし、濃厚なイスラムの香りのする庭園や建物のめくるめく描写は美しく、心ははるか11世紀のアラビアに飛ぶ。

本のカヴァーには「ファンタジー」とあるが、そのカテゴライズにも疑問を感じる。確かに、フィクションでしかも「いまここ」とも「かつてあったどこか」ともつながりはないようだ。歴史物語でもないし。うーーん。現代ファンタジーにしては短いからそう思うのか? 『千夜一夜物語』につながるような「物語世界」である。

蟹が怖い!

一昨日、鳥取の(夫の)知人から、大きな箱がクール便で届いた。知人が気を利かせて、鳥取方面に出張している夫より一日早く、おみやげを届けてくださったのである。ありがとうございます。

開けてみると、「蟹、蟹、蟹」である。茹で蟹が二ハイ。小さな生蟹が三ハイ。私の手のひらを広げたほどの胴体を持つ生蟹が一パイ。

私の妹は「蟹」が嫌いで食べられない。「かに道楽」の大きな動く蟹も怖いそうだ。それを聞いたときには、そんなもんかと思っていたし、それほどおいしい蟹を食べたこともなかったので、蟹に執着することもなかった。

しかし、一昨日は、妹の怖い気持ちがとてもよくわかった。一番大きい蟹は、確かに怖かった。茹で蟹一パイと小さな蟹一パイをお裾分けし、残りの蟹はしばらくの間保冷ボックスに入れて、外に放置しておいたのだが、さすがに、冷蔵庫に入れなくてはいけない。自分の開いた手のひらが胴体のおおきさの蟹なんてさわるの初めて! 何とか、冷蔵庫でお休みいただくことができた。

昨日は、帰ってきた夫に蟹を処理してもらい、茹で蟹、蟹鍋を堪能した。食べ始めたら、二人ともひと言も交わすことなくすっかり平らげてしまった。最後には、たっぷり出汁のでた雑炊までいただいた。ごちそうさまでした。

やっぱり、蟹はコワカッタ! 白いワインもコワカッタ!

英語でストーリー・テリング

「わしこの英語塾」こと、英語でストーリー・テリングを勉強しましょう、という会のお手伝いをしている。先日、メンバーの二人がインターナショナルスクールで、英語でストーリー・テリングのデビューをはたした。プログラムは以下の通り。

●手遊び「弁慶」(日本語)
●「鳥呑み爺さ」(語り)
●The Dark Dark Story(語り)
●おむすび(パネルシアター)
●3枚のお札(紙芝居)

観客の「ノリ」がよくて、語り手も楽しい時間を過ごしたようだ。前日に我が家でリハーサルをしたのだが、そのハーサルのおかげで、私も楽しい時を過ごし、お話の「ネタ」もいただいた。

インターでは、「鳥呑み爺さ」は日本語で語ったのだけれど、子どもたちには、お話のあらすじを英語で聞いてもらうことにしていた。私は、英語のあらすじのための英文作りを手伝った。このことで、ひょっとしたら、私も「鳥呑み爺さ」が語れるのではないかと、不遜にも思い、日曜日に、ごろごろしながら、言葉を練って、歌の練習もした。「語り口」をつくるということは、テキストに頼っていてはできないということがよくわかった経験だった。

Tさんの語りをあらすじ用の簡潔な英語に直したことが、私の「語り口」を作ることと大いに関係があるとわかった。Tさんの語りでは、冒頭部分はもう少し長かったと思うが、そこを”Once upon a time there were an old man and an old woman in a village. One day when the old man was taking a break in a field, a tiny little bird came from the sky and perched on the top of his hoe. The bird started singing a song beautifully”というふうに、短くして、出来事だけを並べてゆく英文にしたことが、私の日本語を作るのに役立った。

この英文から作られるイメージを、何回も何回も口に出しながら、練っていった。そして、第二文以下は、「ある日おじいさんが、畑仕事の合間にひと休みしていると、どこからか小さな鳥がやってきて、おじいさんのそばに置いてあったクワの上に止まって、歌を歌い始めました」となった。「翻訳」でもなく「あらすじ」でもない、「語り口」が生まれたと、思う。少なくとも「畑仕事の合間にひと休みしていると」という言葉をひねり出すのに、何回も何回も言い直し、自分にとって、イメージしやすく、口に出しやすい言葉にできたと思っている。また、おじいさんが鳥を自分の手のひらに呼びよせるところでは、「もうちっぃと、ちこう」などというセリフも入れてみた。

さっそく、月曜日の授業終わりに、学生に披露した。彼らは「おなかの鳥は、消化されたんじゃないの?」などいう、私をがっかりさせるようなコメントをつけていたが、「お話はおもてなしよ!」と、煙に巻いてやった。この授業(writing)では、The Dark Dark Storyをやって、みんなで聴きあったのである。とてもおもしろい作品が出てきた。これも収穫!

『ファンタジーのDNA』を読む

夜中に目が覚めてしまったので、荻原規子『ファンタジーのDNA』(理論社)を読みはじめたら、おもしろくて一気に読んでしまった。金原瑞人氏が「朝カル」の講座で、荻原規子、小野不由美、上橋菜穂子を「ファンタジー三羽ガラス」と称していたが、その一人である荻原規子のエッセイである。理論社のウェブ・マガジンに掲載されたものを中心にまとめたものであるらしい。

作家の側から「ファンタジーを書く」とはどのようなことなのかについて述べている部分ももちろん興味深いが、ファンタジー作家、荻原規子をつくった読書生活について書かれている部分もおもしろい。

とくに長年にわたって読み重ねてきた「ナルニア国物語」について、同じ作品を読み返すことの経験を語った「重さと長さ」「ナルニア螺旋」はいろいろ示唆されることがあった。「子細な部分でぜったい手を抜かない書き方がしてある」(p226)例に、ルーシーがタムナスさんの所でご馳走になるお茶の描写をあげていたのには、まさにその通りと、大きくうなずいた。つまり、「要所要所で力を入れた細部の描写が、子どもなら詳しく知りたいと思う部分と重なっている」(p227)ということだ。このような描写が、作品にリアリティを持たせているのだ。子細に語ることと、ときに、誇張表現を使ってユーモアを醸しだすのは、子どもの文学の文体の大きな特徴と考えてもよいだろう。「詳しく知りたい」というより、子どもとしては「詳しく書いてくれてありがとう」という感じではないだろうか。つまり、詳しく書いてあるために、読みたかったことに気がつくのだ。

ルーシーが街灯の所でタムナスさんに別れを告げて、衣装ダンスに戻ってくるまでの描写も私のお気に入りだ。雪を踏みしめていた感触がいつの間にか、床を踏んでいる描写や、気がつくと、肌に触っているのは木の枝ではなく毛皮のコートだったという描写は「すごい」と思う。

新しい靴

私は「新しい靴」を買うときには、古い靴を履いていって、新しい靴を履いて帰ってくることにしている。古い靴は、感謝をして、お店の人に処分をたのむのである。

私のことをリアルに知っている人は、りんごのアップリケのついた黒いエナメルの靴を私が履いているのに気づいたかもしれない。履きやすくて、かわいくてお気に入りの靴だった。かかとも何回か交換している。しかし、さすがにくたびれてきた。「赤いりんご」もすり切れてきたし、最近では、歩いていると、直接土を感じるようになった。もうおわりだなと感じていた。幸い、あそこに行けば、同じ靴が手に入るという店を知っていた。

同じ靴が欲しかった。ここにゆけば、という心当たりもあった。しかし、半年ほど前に確かめたところ、その店はデパートの中だったのだけれど、撤退したことを知った。残念だけどしかたがない、そう思って、先週、もう一軒の店をたずねた。授業の帰りに吉祥寺で途中下車をした。久しぶりの吉祥寺は、少し様変わりしていて、お目当てのその店はなくなっていた。「あの時買っておけばよかった」と、後悔はいつもあとから。

方針を変更して、「銀座ヨシノヤ」で買うことにし、昨日は、某デパート内にあるヨシノヤに出かけた(「積立お買い物券」も満期になったので)。ヨシノヤの靴は「おばさん度」が若干高いが、探せばお気に入りも見つかるだろう。店員さんに「この靴の代わりになるものを」と伝えると、私の靴を見て、「まだ履けます」という。「きれいに履いているからもったない」とも言われた。そこで、思い出したことがある。3年ほど前にも、ヨシノヤで同じことがあった。そのときは、「直してあげるから」と言ってくださり、結局、そのヨシノヤで靴を買うことはなかったのである。

「靴を愛されているんですね」と店員さんに申し上げると、「そのように教育されています」とのことだった。そういえば、吉祥寺にもう一軒「靴を愛している靴屋さん」があったが、いつの間にか別の店になっていた。お気に入りの靴を何回も直してもらったものだった。

自分の売っているものに誇りと愛を持っているのはとても美しい。一流といわれる店には、ちゃんとその理由がある。でも、矜持を抱いて、きちんとした仕事をしているにもかかわらず、小さい店が撤退せざるを得ない状況には胸が痛む。

私は昨日、あの「りんごの靴」に別れを告げて、新しい靴を履いて帰ってきた。大事に大事に履こうと思う。

「嫁」って?

E=ラーニング大学の学生から、問い合わせがきた。「嫁」のお腹の赤ちゃんに、絵本の読み聞かせをしているのだけれど、それにふさわしい絵本を紹介してほしい、とのことだった。「絵本の紹介」については、テキストの必読絵本リストではどうでしょうか、また、童唄や詩も読んであげて下さいね、と申し上げた。だって、お腹の赤ちゃんは、「声」を聴いているのですからね。

ああ、なんとうるわしいお話と思い、「おじいちゃまですか?」とお返事を出した。でも、ちょっと考えてみると、その「図」って、ちょっと「ちょっと」だ。そういえば、関西方面では、自分の奥さんのことを「嫁」っていうし…。さあ、どっち?

リアル大学では7限終了後、久しぶりに例の所で飲んだ。10月第3週からは、翌日にも授業が入っていたので、講義にひびくと困ると思い(一コマの授業に、往復4時間ぐらいかかる)、自粛していたので学生と飲むのはしばらくぶりだった。それでも、少し早めにFさんと店を出ることにする。うれしいことに彼らは、店の前に並んで、見送ってくれたのだ。しかし、その様子が……。ああ、まるで、××組の若手が、姐さんを見送るような格好じゃないか! もう!

シャンブル・ウエスト 「ブランカ」

「コッペリア」の「眠り」でお世話になった先生が出演する、川口ゆり子舞踊生活50周年記念として制作された「ブランカ」を観に行った。じつは、私は日本のカンパニーの作品(それも創作)を見るのは初めてである(Kカンパニーも見ていない)。してはいけないと思いつつ、ついつい、いままでに鑑賞したロシアの踊り手たちと比較してしまう。ジャンプ低っ! 足短っ! でも踊りや物語は楽しめた。

しかし、いくら「川口ゆり子…」という冠プログラムでも、彼女が「姫」を踊ることには無理があるような…。彼女には、氷の国に住む非日常的な冷たい美しさはなかった。音楽も、ドビュッシーを使ったということであるが、いただけない。重苦しいだけで、ピーンとはりつめたような-30℃の世界とはほど遠いものであった。残念。しかも、あの程度のオケならば、もっといい音源を使って、生オケにこだわらないほうが良かったと思う。

村娘や村人たちの踊りは、マイムが多く、これもちょっと期待していただけにがっかり。村娘には民族舞踊などを振りつけ、見せ所の一つにしたら、もっと、プログラムにメリハリが出ただろうにと思う。

コールドの一つ一つの踊りは、統一感があって、上手な人をそろえたなという印象をもった。

復活か?

思いのほか長びいた風邪がようやく落ち着き、そろそろバレエのお稽古も復活させたいと思っている今日この頃。「熱っぽいなぁ」と思って、体温を測っても、せいぜい36度台後半。私って、冷え性なのかしら。メールも読むだけで、返事を書いたのはE=ラーニング大学の学生からの質問だけだった。それでも、人と会わなくてはいけなかったり、ずいぶん前から予定していたコンサートやバレエの公演があったりして、けっこう出かけていた。

ありがたかったのは、11月の第一週が学園祭で授業に行かなくてよかったこと。おかげで少し本が読めた。

『ベラスケスの十字の謎』(エリアセル・カンシーノ/宇野和美訳/徳間書店)がおもしろかった。スペインの宮廷画家ベラスケスの「侍女たち」にまつわる謎に触発されて書かれたミステリータッチの物語。短いし日本語訳もとてもよいので、一気に読んでしまった。本のカヴァーには「ミステリアス・ファンタジー」と紹介されているが、作品中の「ファンタジー」要素はたいへん少ない。しかし、この部分があるために、この作品におもしろさが増し、神秘性が付加されているように感じた。

「侍女たち」という絵で私が一番気になるのは、あの、憤然と(としか思われない)立っている小人の女性である。マルガリータ王女より、また、彼女を取りまく侍女たちよりも、あの女性に目を奪われてしまう。「マリバルボラ」(本名はバルバラ・アスキン)というらしい。物語の主人公は、マリバルボラの右手にいて、犬に足をのせているニコラスだ。「絵の中に永遠を描く」(p109)とは、「わたしとわたしの道連れとなる者全員の魂をそそぎこんだ、水時計」(p112)とは何なのか。読み終わっても簡単に答えなど見つからないから、いっそう心に残る作品だ。ダンテの『神曲』の詩句も効果的に使われている。

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