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メアリーさんのやさしさとプロ意識

初めて読んだときからとても気に入り、かねがねどこかで紹介したいと思っていた絵本『メアリー・スミス』(アンドレア・ユーレン作/千葉茂樹訳/光村教育図書)をようやく学生に紹介することができた。

メアリーさんは「ノッカーアップ」(knocker-up)だ。朝早く起きて、人を起こしに行くのがメアリーさんの仕事である。ほそながいチューブに乾いた豆をつめて、窓めがけて「ぷっ」と一吹きする。豆が窓にあたる音で人が起きるという仕組み。パン屋さんの豆は「カチン!」「コツン!」と音を立て、汽車の車掌さんの豆は「ピチ、パチ!」と鋭い音を立てる。いったんは起きて窓から顔を出した車掌さんは、そのまま眠ってしまう。すかさずその鼻の頭に「ポツン!」と豆が飛んでくる。

きっと汽車の車掌さんは、寝起きが悪いに違いない。だから、メアリーさんは、パン屋さんにとばす豆と車掌さんにとばす豆の勢いを変えるのだろう。それが、豆のならす音の違いとなって表現されている。これはメアリーさんのプロ意識。そして、再び眠ってしまった車掌さんの鼻をめがけてやさしく豆を吹き飛ばすのは、プロの技術に裏打ちされたやさしさが生み出す「ポツン!」。

このメアリーさんのやさしさとプロ意識にしあわせを感じる。

ところで、日本では「信頼できる目覚まし時計」がなかったころ、人はどうやって起きていたのだろう? 「お寺の鐘」?「ニワトリのコケコッコー」?

裏表紙には、メアリー・スミスさんが豆を飛ばそうとチューブをくわえた写真が載っている(1927年)。ちょっと昔の本当にあった話。
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絵本マラソン

毎年、秋学期の最初の授業は「絵本マラソン」と称して、私の声と体力が続く限り絵本を読みまくることにしている。しかし、私が絵本を運ぶ体力にも限界があり、読みたいと思った本をすべて持ってゆくことはできなかった(最近は電車で出勤)。しかも、ここ数日尋常でない肩こりに苦しめられているのである。あまりに辛くて、椅子の背や柱の角のところで肩をぐりぐり押さえていたくらいだ。

「何でもかんでもござれ!」とばかりに、脈絡もなく、テーマもなく読みに読んだ7冊+α。

●『ウエズレーの国』(ポール・フライシュマン/ケビン・ホークス/千葉茂樹訳/あすなろ書房)
●『あさの絵本』(谷川俊太郎文/吉村和敏写真/アリス館)
●『島ひきおに』(山下明生文/梶山俊夫絵/偕成社)
●『うそつきのつき』(内田麟太郎作/荒井良二絵/ぶんけい)
●『つつじのむすめ』(松谷みよ子文/丸木俊絵/あかね書房)
●『メアリー・スミス』(アンドレア・ユーレン作/千葉茂樹訳/光村教育図書)
●『エドワルド:せかいでいちばんおぞましいおとこのこ』(ジョン・バー人ガム作千葉茂樹訳)
●「末むすこのかったものは?」(『どうしてかわかる?』ジョージ・シャノン文/ピーター・シス絵/福本友美子訳/晶文社)

意図したわけではないのに、千葉茂樹訳の絵本が3冊もはいっていたのには驚き。また「末むすこのかったものは?」は訳文がどうしても読みにくいので、少し自分の語り口にして読んだ。このままストーリーテリングにできないかしら……。

『うそつきのつき』もアクセントに注意して読まなくてはいけないので、難しい。しかし、この絵本を関西のアクセントで読んだらどうなるだろう。「うそつき」の「つき」と「つき」の「月」が聞きわけ(読みわけ)られなくてはおもしろくないからだ。

祝・社会復帰

長いけれどあっという間の夏休みが終わって、今日が初授業だった。お勉強嫌いの学生たちのほとんどが、きちんと夏休みの宿題をやってきたのには、失礼ながらびっくりしたし、うれしかった。怖いからね、私。

テキスト(『ノッティング・ヒルの恋人』の1200語版)の「要約」を提出ということだったのに、ほとんどの学生が分厚い「全訳」を提出。これは、残念ながら「要約」するほどの力がついていないということ。

「鼻先ににんじん」というわけではないけれど、授業終わりに夫と待ち合わせすることにして、がっこに出かけたのである。横浜駅前のホテルのバーでいっぱい飲んで、最近お気に入りの寿司屋(これもホテル内)に出かけた。ここは、ちょっと高いがおいしい。「ジンファンデル」をおともに。これも、赤ワインというと、最近の定番であるアメリカの品種である。独特の香りと深い味わいが気に入っているのだ。しかも、お寿司とはミスマッチに見えるが、なかなかよろしい。

松茸の土瓶蒸しの「おだし」には脱帽。すっごくおいしくて、しあわせ。本日も「私の得意な」鰹がなくて残念。ここでは鰹はまだ頂いていないのである。さて「初鰹」はいつのことになるだろうか?

二人でワインをのみ、食べ、馬鹿な話をして盛りあがる(少なくとも私はね)。

あちこちで金木犀の香りがしている。

踊った!踊った!踊った!

あー、たのしかった。あの空間を存分にたのしんだ気がする。3分に満たない踊りを数ヶ月かけて完成させることの純粋なよろこびを感じることができた発表会だった。こんな気持ちになれたのは、先生の指導力、一緒に踊る仲間への信頼感、踊りへの向上心がきちんと育っていたからだと思う。感激屋のK子先生は「感動した」といって涙ぐんでいらした。私も、ほろり。じつは、3人の最後の見せ場である「ピケ・アラベスク・祈りのポーズ」の二回目はちょっと失敗したんだけれどね。

それにしても、去年の発表会とのなんたるちがい。去年は仲間への信頼感も向上心も育っていなかった、と思う。「体力的に無理があるから」「できないから」とう言い訳を何回聞いたことだろうか。踊りのことより「打ち上げ」のことを優先しているかのように見えるその心性。とても嫌だった。

今年は、ほんとうにお仲間に恵まれていたと考えるべきなのかもしれない。もう一つのグループのなかに、一人だけ「キラキラ光るつけまつげ」をつけている子がいた。たぶん、20代。思わず「キラキラ光ってる」って言ったら、Y子先生が「駄目だっていったんだけどね」とすかざす言った。Y子先生らしからぬ反応。もし、彼女のような人が、私のグループにいたら、きっと私はいつもその心性に「いらいら」していて、踊りどころではなかっただろう。「こんなことで自分を主張するぐらいなら、もっと練習して、上手になれよ」と口には出さずとも、態度で示していたかもしれない。

「ゲネプロ」で駄目出しをされたあと、私たちが本番に備えてリハ室で練習しているとき先生に頂いた「お守りクッキー」は、さすがにもったいなくて食べられない。今年も「出」に一発かまして、3人で笑いながら出て行った。

金原瑞人「広くファンタジー」(朝カル公開講座)

朝カル主催の金原瑞人さんの公開講座「広くファンタジー」に出かける。まず、彼は、近代の小説を「時間と空間をリアルに描くもの」であるとして、その文体やテーマ(対象とするもの)を説明してから、ファンタジーについて話を進めた。つまり、ここで近代小説を定義しておいて、ファンタジーの文体やテーマとの違いを意識させたかったのだろう。さらに、『指輪物語』前後では「ファンタジー」という言葉が指し示す世界が大きく変わってきていることも指摘する。「指輪以前」はファンタジーというと、ナンセンスものも含めた幻想小説全般を指し、「指輪以後」は「剣と魔法の物語」をさす言葉になっているということだ。

そして、ファンタジーの系譜をたどりながら、その源流は「神話」に求められると、ギリシア神話に言及していった。ヘシオドスの『神統記』に書かれているウラノスとクロノス、クロノスとゼウスのエピソードを紹介し、「オイデプス」の話から「アーサー王」へ、さらに、映画「スターウォーズ」、ついには映画「ゲド戦記」にいたった。この長い物語に底流するものは「父親殺し」である、といわれたときには、「やられた」と感じてしまった。そうか、アニメ版「ゲド戦記」は、そっちにつながっているのね、と納得してしまったのである。しかし、原作でも、最初は大賢人ゲドに畏怖しながらついていったアレンが、最後には、ゲドを背負って帰ってくるという象徴的な場面もある。

金原さんの意図は、さらに「シュールリアズム」の「規範を取っぱらい、夢に近づいた作品」についてまで進みたかったようだが、残念ながら、時間がきてしまった。

ところで、彼は「北欧神話」と「ゲルマン神話」をまったく別物であるというようなおっしゃり方をしていて、そこがちょっと気になった。

「時間と空間を意識していない時代」の作品の例として、シェークスピアの『マクベス』をあげてくださったが、確かに、あの一連の出来事はいったい何日に及んでいたのだろうか。

こうしてまとめてみると、ご本人もおっしゃっていたように「まとまりのない話」にも見えるが、それぞれのところで少しずつ刺激をいただいた講座であった。落語についても少しお話しされた。ナンセンスな遊びの要素にあふれた「どくどく」はちょっと気になった。

清水眞砂子『幸福に驚く力』

清水眞砂子さんの『幸福に驚く力』(かもがわ出版)を読む。ここ10年間にわたる講演をまとめたもの。一部『子どもの本とは何か』(かわさき市民アカデミー講座ブックレット)として出版されているものと重複しているが、読み応えのある講演録だ。

「橋をかける女たち」で彼女は、ミープ・ヒースという女性の話をする。ミープ・ヒースは二年間にわたりアンネ・フランクたちを匿った人である。「命と引き換えの状況のなかで、なぜミープ・ヒースは[アンネたちを]匿おうとしたのか」という疑問を解きほぐしながら、ミープ・ヒースに連なる人びとのネットワークがあったからこそ、アンネたちは生きのびることができたのではないかという。

ミープ・ヒースから始まった話はさらに、「橋をかける」ことの意味を探り、その豊かさを実例でもって示してゆく。そして私たちに「空間や時間を越えて、橋が架けられる」ようになることを求めて終わっている。「そういうところにさしかかっている」と、無名の市民である私たちの価値を励ましてくれているような気がした。「橋をかけること」の意義は、斎藤惇夫さんいうところの「リスポンスビリティ」(『現在、子どもたちが求めているもの』キッズメイト)とも共振しているように思われた。

清水さんのまなざしの鋭さが随所に出てくる講演録であるとともに(「本はめがね」という捉え方など)、基本的なところは頑固なまでに変わらず持ち続けていることにもある感慨を持った。また、最近彼女は、少しずつご自身の若いころのことも語りはじめているが、これも興味深い。

『ロザムンドおばさんの贈り物』を読む

『ロザムンドおばさんの贈り物』(ロザムンド・ピルチャー著/晶文社)を読んだ。2冊の短編集から訳者(中村妙子)が7編を選んで訳した短編集。どれもこれも読後感がとてもよい。オー・ヘンリーの作品を読んだあとみたいな満足感と幸福感をもった。ちょっと気の利いた結末は、時におしゃれで、ハッピー・エンドとよぶほど大げさなものではないが、独特の世界を穏やかに主張し、じわじわと心にしみいる。ささやかな幸福に驚く力を目覚めさせてくれた。

最近の子どもの本は、ひりひりと痛むような子どもや子どもを取りまく世界が書かれ、なんだかつらい気持ちを抱かされていたのだが、ピルチャーの作品は、もちろん子どもの文学ではないけれど、物語のよろこびを素直に伝えてくれた。こんな作品がもっと読まれてもいいはず、と感じた。原書は、1985年、1991年に出版されたもので、翻訳も1993年である。いまこのような物語世界を書く人はいないのだろうか。それとも、書けないのだろうか。

レポート終了・試験終了

e-ラーニングの大学のレポートと試験がようやく終了した。結局レポートは試験提出の11時間前まで受けつけていた。まさかと思ったが、ずいぶん提出のなかった学生が、当日の10時頃「駆け込み」提出してきた。もちろん内容に不備があり「再提出」だったが、火事場の馬鹿力だったのであろう、すべり込みで合格した。

課題レポートがたいへんだろうにと学生の便宜を図って、いろいろ考えたり、配慮したりすることが、必ずしもこちらの意図している方向にはゆかないことがわかり、やはり傷つく。つまり、あわよくば、ぎりぎりに提出すれば「お情け」で合格してもらえるかもしれない、という気持ちを引き起こしてしまうようなのだ。こういう心性にはほんとにがっかりする。

でも、最後にきて立ち上げた掲示板には、とても励まされる意見や建設的なアドヴァイスをたくさんいただき、ようやくここまでやってこられた。ありがとね。そんなわけで、「試験」や「レポート」の講評までアップしてしまった。これは、レポートを完成できなかった人にも読んでもらいたいものだ。あげく、「オフ会」をしようという話持ちあがっている。卒業生にも参加してもらえる方法はないかしら。

学校の教室がわりと自由に使えるのは、9月いっぱいだそうだが、私は「祈り」と「スケーターズ・ワルツ」が終わってからにしてもらわないと。「祈り」といえば、ここにきて音がとれなくなってしまった。あーーどうしよう。発表会まで二週間を切ったというのに……。

日フィル演奏会

日本フィルハーモニー交響楽団創立50周年記念ガラ・コンサートにでかけた。今夏はどこにも出かけず、ひたすらバレエの稽古と仕事と昼寝の夏休みだったので、このコンサートは、夏休みのメイン・イヴェントであった。

日フィルにゆかりのある豪華出演メンバーによるおいしいとこ取りのプログラムで、最初から最後までほんとうに楽しんだコンサートだった。ヴァイオリン・コンチェルト(メンデルスゾーン)、ピアノ・コンチェルト(ショパン、ラフマニノフ)、スターダンサーズバレエ団によるバレエなどなどお楽しみがぎっしり詰まっていた。楽団創立時の指揮者、渡辺暁雄氏のご子息、康雄氏も棒を振った。

なかでも、テナー歌手の佐野成宏氏による歌には、心がうちふるえるほど感動し、涙が出てきた。過去、彼の生の歌声は、「ニューイヤー・オペラコンサート」などで聞いたことがある(と夫に指摘される)らしいが、このたびの歌はすごかった。イタリア民謡「カタリカタリ」をコバケンのピアノ伴奏で、そして、「星は光りぬ」(『トスカ』)を、身体いっぱいに音を共鳴させて熱唱した。どちらもすばらしい出来だったが、とくに「カタリカタリ」は、私一人に歌ってくれているようなうれしい感覚をもった。2000人からの聴衆に向かってうたっているにもかかわらず、インティメットな感覚さえも感じさせるその技量は、ほんとうにすばらしかった。若き佐野氏にコバケンはこうアドヴァイスしたそうだ。「音は語り、言葉はうたうのだ」と。

後に続く、錦織くんのことが、ちょっと心配だったけれど、彼は彼で、「誰も寝てはならぬ」を清潔感を持って堂々と歌いあげた。彼は、少し線が細いところが良くも悪くも魅力だと思うが、私は、錦織くんが舞台に立つと思わず「失敗しませんように」と祈ってしまうのだ。でも、最近の彼は、聞くたびによくなっている。

千住真理子さんの「ツィゴイネルワイゼン」も、「あれがストラディバリの音色ねぇ」と、超絶技巧に緊張しながらも聞き惚れてしまった。

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