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『まるごとおいしい幸福のつくりかた』を読む

村中李衣さんの新しいエッセイ集『まるごとおいしい幸福のつくりかた』(クレヨンハウス)を読んだ。『月刊クーヨン』に連載されていたものをまとめたものだそう。雑誌連載中も、ときどき品川のくまざわ書店で立ち読みしたものだが、こうしてまとまってみると、李衣さんの日常生活に向けるまなざしの「軸」がよく見えてくる。

日常の「気づき」を大事にして、そこに鋭いまなざしを向け、意味を見つけ、自分やまわりを問い直そうという行為は、はたで思うほど楽ではないことがわかる。「他」に向けるまなざしで、自分が試されることだってあるからだ。おサル先生との「乱」のことをくちくち語る「けんかの気持ち」にはそれがよく出ている。

「わたしは言い分のちがいだけで彼[おサル先生]と衝突したが、その言い分を抱える彼の魂の哀しみを思いやることに欠けていた」と至るまでには、きっときっと悩んで、考えて、腹立てて、泣いて、考えてというプロセスがあったのだろう。でも、そこをくぐり抜けたから「子どもはけんかして大きくなるのに、大人はけんかして、ちぢこまるんじゃつまんない」っていえるのだ。しょっちゅういろいろぶつかっている私には、人ごととは思えないのだが、私はといえば、あいかわらずめそめそしているのが情けない。

こういうおかあさんとつきあう「まさこ」ちゃんが、「かあさん、いつだって、充分、ストレートやん。ああ、またやってるなと思ってた」と、かあさんとある子どもとのニュージーランドでのバトルを冷静に観察してたのも、ゴメンだけど、おもしろい。

こんなふうな李衣さんだからこそ、彼女めがけて物語がどっと押しよせてくるのだ思わせるほどに、おもしろい物語やゆたかな物語がそこここにキラキラ光っている。それはもう、エッセイで書いてしまっていいの、と聞きたくなるほどに物語の種がころころしているのだ。

柏もち屋の頑固じいさんとのエピソード。下関の魚市場の魚たちの秘密。強面のおとうさんに「おとなしくするか」とすごまれても「おとなしくしない」とつっぱねる男の子。などなど。

昨晩から読みはじめて、2回も読んでしまった。それは、読んだあとに、ポッと心に火が灯されたように、ささやかな幸福を感じるからだ。ありがとう、李衣さん。

ところで、一つ一つのお話の最後につけられた幸福のレシピは、すべて「まるごとおいしい」とは言わせないぞ! これだけは「ゆずれんこん」だ。とくに「パイカリ」と「リンカリ」。想像するだけで「やめてっ!」です。
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『When My Name Was Keoko』を読む

ヤヤーさんのブログ「おかめはちもく。」で紹介されていた、『木槿の咲く庭:スンヒィとテヨルの物語』(リンダ・スー・パーク/新潮社)の原書When My Name Was Keokoを読んだ。

1940年、日本統治下にある朝鮮では、「創氏改名」が推し進められようとしていた。すでに、公の場では朝鮮語を使うことは許されず、学校では日本語の読み書きが教えられていた。この作品は、10歳の少女スンヒィ(キヨコ)と13歳の少年テヨル(ノブオ)の目でつづられる、日本敗戦までの一家の物語である。「創氏改名」をきっかけに、ますます帝国主義的な様相を深めてゆく朝鮮の庶民の暮らしが、二人の目で語られる。自分たちの名前を奪われること、言葉を奪われることが彼らにとってどのような意味を持つのか、寡黙な父(アボジ)は、あまり多くを語らないが、抗日運動に身を投じている「叔父さん」は、ことあるごとに、自分たち民族の誇りをつたえる。

フィクションではあるが、作者、リンダ・スー・パークの両親のエピソードや資料をつかって丁寧に書かれた歴史小説でもある。マッカーサー名で出され、飛行機からばらまかれたビラ、ラジオや金属の供出、「慰安婦」になったと推測される志願女子学生などのエピソード。

このような作品が、英語で出版されることには大きな意味があるだろう。朝鮮語(韓国語)で出版されたとしても、おそらく日本語に訳されていたかどうか。これは、是非、たくさんの人たちに読んでもらいたい作品だ。子どもだけでなく、おとなにも。8月15日に靖国参拝を強行突破して「いつ行っても批判されるから、15日に行ってもいいのだ」と、うそぶいているどこかのお馬鹿さんにも読んでもらいたい。鋭い感受性でこのような作品を心から受けとめることができたとしたら、あんな失礼な発言などできないだろうに、と思う。

しかし、残念なことが一つある。ヤヤーさんによると、訳者(および出版社)は、この作品がリンダー・スー・パークの日本初訳であると誤解していたらしい。先日、ここでも触れた『モギ:ちいさな焼きもの師』(あすなろ書房)が、初訳作品である。この事も見識がないと思うが、じつは、日本語版では「作者のことば」が独立して収録されておらず、「訳者あとがき」にきれぎれに紹介されていることである。このことは、日本語訳をユーストで購入して、気づいた。これは、あまりにも作者に対して失礼ではないだろうか。「作者の言葉」も作品の一部である。とくに、このような歴史的フィクションにおいては。物語を読み終えて、その高揚した気持ちのまま"Author's Note"を読んだ私は、作品が、さらに広がりを持つのを感じた。この「感じ」は、まだ言語化することができないけれど、とても大切なものだったと思う。

また、アメリカでは子どもの本として出版されているが、日本ではヤング・アダルト向けというか一般書として出版されている。読者対象が曖昧である。語り手は10歳と13歳で、内容も十分子どもに理解できるものだからだ。どうしてなんだろう。漢字の使い方、ふりがななどもう少し子どもの読者を意識して本を作ってほしかった。

図書館の書誌情報

かつて図書館は、自分たちの書誌情報をそれぞれ独自の「目録」として所有していた。コンピュータの出現によって、書誌データを共有するという発想が生まれ、目録作業が一気に機械化され、集中化された。世界最大の書誌ユーティリティであるOCLCは、現在7000万の書誌データを有し、世界の教育機関、図書館に提供している。そのOCLCと日本で代理店契約を結んでいる紀伊國屋書店とのパートーナーシップ20周年を記念しての講演会が開かれた。

オハイオにあるOCLCには、10数年前に夫の海外研修にくっついて、門前の小僧ながら、お世話になったことがある。そんな経緯があったので、「おまけ」として参加させていただいた。

早稲田大学の元総長で、その図書館長時代には、OCLCとともに和書のデータベース化にとり組んだ経験を持つ奥島孝康教授のお話をとても興味深く伺った。早稲田大学100周年記念行事として、新しい図書館を作るために奔走し、100万冊の書誌データを紀伊國屋書店と連携してコンピュータ化したお話。その後の書誌データの蓄積と共有化については、まさに見識の勝利である。また、その跡を継ぐ図書館長も、奥島精神を受け継いでいるのがよくわかる。私立大学の図書館長というと「名誉職」的なイメージがあるが、このように見識のある図書館長のいる早稲田大学の図書館をうらやましく思った。

ところで、OCLCのヴァイス・プレジデントであるスピーズ女史のご主人が図書館によせる短い詩を披露してくださった。彼の許可を得て、ここに再録します。

Librarian's Dream

A Few Words on Paper;
A Book
A Few Books on Shelves;
A Library
A Few Libraries in the World;
Universal Understading

図書館員の夢(わしこ訳)

紙に書かれた言葉が
本になり

棚に並べられた本が
図書館をつくり

世界の図書館が
私たちの知をつくる

キムタクかツヨシか

「キムタクを選ぶ女の単純を生きられなくてツヨシを選ぶ」という短歌を俵万智の『百人一酒』のなかの「文庫版のためのあとがき」で見つけて、気になっていた。

「わかる」というか、ちょっと核心つかれたな、という気がしたのも事実。キムタクがなかなかに好きだから、「うーーん、単純か、私」って自分につっこんだ。夫にいわせると、私の好みは「わかりやすい」のだそうだ。授業などで何かの拍子に「拓ちゃん」なんていうと、必ず「先生、キムタク好きなんだ!」って反応する学生もいるし、その「わかりやすさ」を戦略にしていた気味もある。

なぜ「ツヨシ」なんだ。「マサヒロ」でも「シンゴ」でも「ゴロー」でもなく「ツヨシ」なのである。でも、よく考えると、これもちといやらしいという気がしていた。「私って、顔じゃないのー」的アピールだ。少し前の話でいうと、「ワカかタカか」の二者択一。いや、別に二者択一しなくてもいいんですけどね。

で、何で突然「ツヨシ」か、というと、『スタアの恋』の再放送につい見入ってしまったからである。リアル・タイムではもちろん見たことはなかったのであるが、昨日と今日、ぼんやり見ていたら、なんと「ツヨシ」にやられてしまったのである。ツヨシ君、ときどきびっくりするほど、素敵な表情を見せるのである。やられました。

相手役、「ノリカ」なのか「リョウコ」なのかもう一人「××」なのか思い出せずに、しばらくの間、悩みました。「松」と「ナナコ」も最初は区別がつきませんでした。すまん。「××」の名前は、いまも思い出せない。

Gedo Senki ル=グインのHPより

ル=グインの公式HPに映画『ゲド戦記』の感想がアップされた。彼女がこの感想を書いたのは、アメリカでのちいさなプレミア試写会のあと吾郎監督に求められた感想の一部が、彼のブログで公にされたことが原因らしい。しかも、吾朗監督は自分に引きよせる形で「都合よく」彼女の言葉を紹介したのである。"Did you like the movie?"と問われて、彼女は次のように答えたという。

Yes. It's not my book. It is your movie. It is a good movie.

この"Gedo Senki"と題されたエッセイで、ル=グインは、試写会後のきわめて個人的な関係の中でなされた言葉のやりとりの真意を、ひじょうに冷静に述べている。"No"と異議を唱えるには、ふさわしい場でもなければ、言葉を尽くすほどの時間もなかったのは、お互い了解していたであろうに。

駿監督が映画作りに関わるということで、映画化を認めたにもかかわらず、作品には彼がまったく関わっていないことについての失望や怒りも感じられる文章だ。期待していただけに、彼女の失望感が痛い。私としては、<『シュナの旅』原案 宮崎駿>の意味がようやくわかったような気がする。何とか「駿」の文字を入れることで、つじつまだけは合わせようというむなしい努力だったのか。

内容についても、無意味に垂れ流されるお題目と映像の一貫性のなさへの疑義、アレンの父殺しに対する疑問、アニメーションの見せ場が「暴力シーン」の多用についての批判と「肌の色」への疑問など、私は彼女の感想にとても納得できる。

第二次創造物としての映画のあり方は認めているものの、作品とその読者への敬意が払われていないという言葉に、スタジオ・ジブリは、どう応えるのか。じっと見ていようと思う。

女3人オール!

久々に集まった3人。まさか、オール・ナイトになってしまうとは、、、。私は途中、意識のない時間がありました。一番の若手も途中少しおやすみしました。

少しずつ夜があけて、ブルーがうすくなってゆくのを久しぶりに見ました。学生時代以来かも、、、。

<本日のメニュー>には、食べ物の他に<過激爆裂トーク!>がついていました。

●アボカド・ワカモーレソース/クラッカー
●キュウリの和風サラダ
●自家製つみれ汁
●明太子スパゲッティ(冷製)
●白ワイン(3本)/紅茶2種

「語りの二つの流れ」イギリスの場合(2)

「語り」が衰退してきた原因には、「活字文化」が台頭してきたことも大きい。ハイテク時代における、「語りのリバイバル」とはどのようなことを意味するのか、「リバイバル」が真の意味で「リバイバル」になっているのか、ベンは続ける。

「語り」とはその一瞬に存在する芸術である、と彼はいう。つまり「瞬間芸術」なのだ。お話を「語り手」と「聴き手」がわかちあう生の空間こそが「ストーリーテリング」である。彼はそれを「ジャズ」とよんでいる。「語り」は聴衆を眼前にして、語られるたびに、変化し、進化してゆくのである。
"There are no pens, the writing is on the wind."ペンなどいらない、物語は風の上に書かれている。

イギリスにおける「語りのリバイバル」には、まず「炉端の語り手」の存在があった。最近問題なのは、彼らが公の場で語ることを要請されるとき、「お金」がからみ、レパートリーに変化が見られるようになったことである。「炉端の語り手」の語りは、いわばおもてなしであって、「お金」は、基本的には介在していなかった。しかし、「炉端の語り手」が雑多なイヴェントに招待され、語ることで、「経済」が介入してくると、本来「語り」を生業としてきた語り手たちとの区別が見えにくくなる。また、「炉端の語り手」は、小さい集団や身近な仲間に語ってきたものだが、大きくしつらえられたステージで、見知らぬ人に語りはじめるとレパートリーが変わってくるのである。

スコットランド最後のトラベラー(語り手)といわれる、ダンカン・ウィリアムソンは、かつては自分の家で、一時間もの語りをしていたそうである。しかし、彼はいま、多くの聴衆を前にして、ジョークや少々センチメンタルなバラードを語るようになったという。ジョークなどの語りはたやすく笑いを生み、聴衆を引きつけるからであろう。

こうして、「炉端の語り手」と「プロの語り手」の垣根がはずれてしまったように見える現在、「ストーリーテラー」とはどのような人のことなのか、「語り」とは何をもって「レーゾン・デートル」が求められるか、ベンは、語りの訓練方法の模索とレパートリーの二点を深めることだと提案する。

かつて、イメージ、言葉、音を使って、聴き手を魅了するための預言的で神秘的な技を伝えられてきた、アシークやグリオなどとよばれる「語り手」たちに匹敵する「師」を失った英国でプロフェッショナルの伝統を復活させるには、あらゆるものを再発見し、新しく作りださなければならない。

ベンの提案は、演劇的な訓練方法の採用である。そして、批評についても演劇的な方法を確立すべきであるとしている。「語り手」とは、「作家」「改作者」「構成者」「演者」「演出家」であるから、この点に立ってさまざまに検討されるべきであるとする。

「お話は楽しみのために、あるいは何かを伝えるために語られてきた。しかし、お話を語る行為は、お話を解釈し語る人に依拠しているのである。お話は、一人一人の中にさまざまな形で生きている。それは、一人一人のお話の解釈が違うからだ。私の希望は、二つの流れに属する、新しい語り手たちが、自己批判的になることにある。自分に対する要求度を高め、批評する人たちの声を求めてくれることを希望する」

「語りの二つの流れ」イギリスの場合 (1)

櫻井先生と急遽、Ben Haggartyの"Seek out the Vioce of the Critical"という評論を一緒に読むことになった。ベンは、プロの語り手たちの団体「クリック・クラック・クラブ」の主催者である(『語りの世界』41号より)。この評論は、1995年に発表されて以来、何回か加筆され、今夏、カナダの語りの雑誌Appleseed Quartely Summerに再度掲載されたものである。

彼は、1981年以来、英国(「ブリテン島における」)のストーリーテリング・リバイバルに中心的に関わってきた人物で、これもそのあたりから書きおこしている。まず彼は、ストーリーテリングを「伝承の物語を語る芸術」と位置づけている。この「伝承の物語」とは、昔話だけを指すのではなく、叙事詩、英雄叙事詩、神話なども含まれるとしている。英国には二種類の「語り手」が存在してるそうだ(櫻井先生によると日本でも同様らしい)。炉端の語り手とよばれる、ちいさなコミュニティの中でもっぱら楽しみや知恵の伝承、教育のために語ってきた人たちと、プロとしての語り手の存在である。この人たちは、お話を語ることを生業にしている人たちのことで、その起源はバード、ミンストレルなど中世の語り手、もしくはそれ以前の語り手に求められる。

語りを生業にしている人たちには、大きくわけると6つの共通点があるということだ。

①専門的な訓練を受けていること。
②炉端の語り手のもつレパートリーのうえに自分の生活を保障するさらなるレパートリーを獲得していること。
③楽器を使う
④自分の雇い主(王)を称える歌を持っている
⑤放浪的な存在であること
⑥ミューズ(芸術の女神)、霊的存在に触発されたり、時にはデーモンに突き動かされることもある。

「専門的な訓練」については、トルコの「アシーク」とよばれる語り手、セレーフ・タスリヴァの例を紹介している。アシークとして独り立ちするのには7年間の修行が必要とされるらしい。しかも、弟子に志願するのではなく、師匠が弟子を選ぶのだそうだ。一年目は、楽器の正しい持ち方を習い、二年目に入って演奏のしかたを習うのだそうだ。二年の修行のあと、やっと曲を演奏することを許される。5年が過ぎると、師匠が弟子の肩にやさしくキスをすることがあり、それが「修行終了」の証であって、その弟子はついに独り立ちすることができるのである。この長い修行の見返りに、師匠が手にするものは、たった一反の布だそうだ。

このような一子相伝にもにた「芸」の受け渡しの伝統は、いまではほとんど失われてしまっているが、かつて英国でも、これと似たようなシステムが脈々と伝えられてきたに違いない。日本でも、「平家物語」を語る琵琶法師たちがいた。

そういえば、王様の語り部が戦場で死にきれずに、首だけになっても、王に会うために、敵方の人に語り続けるお話があった。

ルネッサンス以後、こうした西洋の語りの伝承は、ほとんど廃れてしまったということだ。つまり、ルネッサンスを境に、芸術性の評価が個人のオリジナリティに求められていったからだそうだ。語りの分野では、作者に権威が与えられるようになった、まさに「オーソリティ」である。したがって、伝承の語り手たちは、伝承をリサイクルしている存在に貶められてしまったのである。でも、お話が「真実の鐘」を鳴らすことを信じて、お話は語りつがれてきた。

正夢か?

バレエの発表会には新しいシューズでのぞむようにと、先生のアドヴァイスを受けた。なぜかそのことが引っかかっていたのだろう、「夢」を見てしまった。

発表会当日、バレエシューズを買い忘れてしまい、急いで「チャコット」(のつもりだが、お店の感じは、「赤い靴」風だった。しかし、ここには一度しかいったことないのに)に走るのだが、どうしてもバレーシューズを手に入れることができない夢だった。

さらに、その夢を見ながら、もう一人の自分が「私って、準備万端整えるタイプなのにどうして忘れたんだろう」と感じているのだ。夢であることがわかってほっとしたのだが、気になっている。

発表会はまだ先なのに、「早くバレーシューズを買いなさい」という、神のお告げなのかしら、、、。

昨日は、お稽古の終わったあとに、集中的に左の「トンベ・パ・ド・ブレ・グリッサード・グラン・パデシャ」を練習してきた。グリッサードの足の位置、プリエ、手のもって行き方を、Aちゃん、Kちゃんに見てもらう。ありがとう。

ライブラリー・チェア

先日映画の帰りに見つけたライブラリー・チェアが配達されてきた。オーク材でできているそうだ。本棚が高いので、3段の梯子を使っているのだが、それが無骨でとても嫌だった。ライブラリー・チェアとかライブラリー・ステップとか呼ばれる「椅子が梯子になる」ものをずっと欲しいと思っていたのです。でも、高い! 通販のカタログでは4万円近くしていて(こちらはアッシュ材)、しかも配送料もかなりのお値段だった。あきらめきれずに、通販のカタログをずっととっておいて、たまに眺めたりしていたのだった。

昨日届けてもらったライブラリー・チェアは、「どぶ板通り」をKちゃんの案内で歩いていたとき、目に入ってきたのです。私の買ったものは、カタログの半額! しかも配送料ただ! ありがとうございます。

夫に自慢したら、「また本置き場になるね。いつまで椅子のままでいるか楽しみにしてよう」だって。気に入りません、そのお言葉。

ところで、どぶ板通りでは、高校生ギャルに話しかけられて、にこにこしていた窪塚ナンタラ君を見かけました。うーーん。芸能人オーラ少なっ。

異議申し立て

「何か」について、「誰か」について異議申し立てすることは、大事なことだと思う。しかし、この「申し立て」が匿名でなされることがある。これがひどいのである。もらった人は、「ずずん」と傷つく。

じつは、いま、また非常に「不愉快」な匿名のコメントの存在を知った。このような非難は、具体的なことが書かれていないのが特徴だ。曰く「ヒステリックなコメント」とおっしゃっているのだが、具体的に「××××」と、私のコメントを引用するわけでもない。引用したら! 授業で引用の仕方教えてるんだから! コピーすれば簡単なんだから! 私は自分の書いたコメント全部読み返しました。たしかに、あんまりなレポートには「イラッ」としていました。「自分の問題意識を育ててください」とか、「何を書きたいのかわかりません」とか「意味不明」とコメントしています。これが、ヒステリックなのか?

そういえば思い出したことがある。最近どこの大学でもやっている「授業評価アンケート(無記名記入)」に傷ついて、とうとうやめてしまった先生がいたという話を聞いた。人間的には「かわいい」けれど、勉強嫌いな学生たちがいっぱいいる学校のアンケートで「給料泥棒」と書かれた先生もいた。その先生は、とても熱心で(しかもそれは再履修クラス)、とても工夫している授業をなさっているのに。でも、たった一人の書いた「給料泥棒」という言葉に、とても傷ついていた。冷水を浴びせられたような気持ちだったろう。匿名だから、ここまで書いてしまうのね。匿名なんて卑怯な手を使わないで、自分の言葉には責任を持ってきちんと、向きあって欲しい。で、向きあうのは、自分の先生の場合もあるし、じつは、自分であったりもする。

最近では、学生は「お客さま」だから、学校は、教師になんだかかんだかいってくる、らしい。このままいったら、私も近々失業かもしれません。

『モギ:ちいさな焼きもの師』

2002年度のニューベリー賞受賞作品、リンダ・スー・パークの『モギ:小さな焼きもの師』(あすなろ書房)を読んだ。

12世紀後半、韓国西海岸の焼き物で名高い小さな村の橋の下にトゥルミじいさんと暮らすモギ少年の話だ。村の家々のゴミ捨て場をあさってまで食べ物を調達しなくてはならないほど貧乏な暮らしをしている二人だが、「盗みと物乞いはしちゃならぬ」(p.8)と誇り高く暮らしている。モギは村の焼き物師ミンの仕事が気になってしかたがない。食べ物探しの途中に焼き物師の仕事場に立ち寄って、ミンがロクロをまわすのを物陰からじっと観察するのがつねだった。

今日もロクロ回しがみられると、こっそり仕事場に立ち寄ったが誰もいない。これさいわいと、モギは思わず仕事場に入っていき、製作中の作品に手を触れてしまう。と、そこへミンが戻ってきて、誰何される。泥棒の汚名は晴らせたが、焼き物をだめにしてしまったお詫びに、ミンの仕事を、9日間手伝って償うことになった。

9日目の仕事が終わると、モギは意を決して、ミンに仕事を手伝わせて欲しいと頼み込む。それから、モギの焼き物師の下働きとして、いつかロクロをまわすことができる日の到来を願いながらの生活がはじまった。

このあと物語は、子どもの文学の定番的な展開(挫折、努力、課題の提示、課題の克服)を見せる。目新しいところはないものの、一人の少年が、何かに魅せられ、さまざまな困難を克服してゆく物語は、安心して楽しめる。

「漉した白い泥を、いつものように、ごく少量、親指と人さし指でつまみ、すりつぶしてみた、そのとき。指先になにかを感じた。同時に、なぜか、このまえ山で鹿を見たときのことを思い出した。(中略)モギは遠くの木立をぼやーっととながめていた。と、突然、鹿が見えた。鹿はしばらくまえからそこにいたにちがいない。むろん、モギにも見えていたはずだが、そのとき急に目の焦点があったのだ。今、それと同じことが起こった、目ではなく。指先に。」(p.99)

いままで気づかなかったことを発見する瞬間の描写が秀逸である。

モギの心のよりどころで、高潔さの源であるトゥルミじいさん、頑固に心を閉ざし口数の少ないミンとミンを支える妻などモギの周りのおとなもよく描けていると思う。日本語も簡潔でわかりやすい。

映画『ゲド戦記』<ネタバレ>

重い腰をあげて、映画『ゲド戦記』を鑑賞してきた。評判が今ひとつなのは承知の上で、それでも、宮崎吾朗が、あるいは、スタジオ・ジブリがル=グインの<ゲド戦記>シリーズをどう読んだのかを知りたかったからだ。結論を急ぐと、残念ながら、彼らには<ゲド戦記>は読めていなかった、ということだ。<ゲド戦記>の転換点となった『帰還』の主人公であるテルーを登場させたにもかかわらず、彼女の存在意義をまったく理解していないかのような作りであった。それは、最後の場面に象徴的に表われていた。

作りについてならば、いいたいことはもっとある。まず、セリフと絵がばらばらで、それぞれが活かされていない。テレビのコマーシャルでしつこいほど流れていた「命を大事にしないヤツは大嫌いだ」というフレーズが、ありえないと思われるような場面で、テルーによって唐突に発せられた。内心、テルーがそんなこと言うか、と不快感を覚えた。

そのほかにも、場面にふさわしくないメッセージ性のある言葉がうつろに響いていた。「死を受け容れてこそ、自分の生と向きあい、かけがえのない人生を生きることができる」というメッセージがお題目のように垂れ流しにされていたのも、空虚感をつのらせた。語るのではなく、映像の世界で「見せる」ことこそが、映像化することであると思う。その点でも明らかに失敗していた。

映画館では、夏休みとあって小学生も多く見かけた。この子どもたちは、映画を楽しんだのだろうかと疑問にも思った。「核」になる物語も明確ではなく、物語性も希薄だった。見せ所は、やはり「闘い」や「魔力の映像化」の場面で、確かにそこにはアニメのおもしろさがあった。急激な視点の変化や処理は、『ロード・オブ・ザ・リング』のサウロンの眼などを連想した。『ロード・・・』といえば、クモの館の高い塔やアースシーの町並みにもその残響を感じたのは、私だけだろうか。

クモといえば、原作では男性なのに、映画では女性だった。その風貌や振る舞いは、「セレット」あるいは「アカレン」を連想させる「魔法使い」として造形されていた。しかも、アースシーには女性の魔法使いはいないという設定であるにもかかわらず、だ。この辺も、読めていない、というか、軽々に「男と女の対決」を持ちこんでしまったのだろう。また、クモの破滅はクモの真の名を明らかにすることでなされるべきだった。

最後までわからなかったのは、アレンが父を殺した理由である。アレン自身にも「わからない」が、「自分の中の凶暴さ」が父を殺したと言わせていたが、これもあまりにもお粗末だ。父の殺害によって、アレンが「影」を出してしまうわけだが、その必然性はあったのだろうか。父殺しは、「影」を出すための手段としてしか思えないのである。

確かに、この作品は、息子「吾朗」が、父「駿」を象徴的に殺したからこそ生まれたのであろうが、こんなに軽々しく「父殺し」を描いてしまう、制作者たちの心性を疑う。『シュナの旅』の作者として、駿の名前をクレジットに入れたのはなぜだろう。最近、『シュナの旅』は駿が<ゲド戦記>にインスピレーションをもらって作ったと宣伝されているが、あれは明らかにチベットの昔話である。

一つだけよかったことは、映画の出来のあまりのひどさのために、私の<ゲド戦記>の世界がまったく侵略されずに、いや、なお生き生きと残っていることである。

空の場面や水の場面は、さすがに美しかった。

夏休みだ!

授業は7月に終わっていたのだが、レポートの採点と成績づけが終了していなかったので、私的には「夏休み!」には突入していなかった。しかし、昨日ようやく成績を送って、一段落した。E=ラーニングの大学は、これから試験だし、レポートも添削もまだまだあるけど、とりあえず、ほっとしている。

人形物語についての原稿も終了し、秋からの授業のネタも増えて、うれし。

岩波書店の雑誌『文学』の7,8月号が「ファンタジーの世界」を特集している。斉藤敦夫、脇明子、井辻朱美、小谷真理とそうそうたるメンバーが顔をそろえている。他の書き手もかなりのレベルで、さすが岩波って感じだ。いまファンタジーで論陣を張れる旬の人である、脇、井辻、小谷の論文がそろい踏みだなんて、うれしくなってしまう。

脇明子さんは、最近「子どもの読書」の立場から、注目すべき発言をしているが、ここに掲載されている「仮想世界の罠とファンタジーの真実」でも、ある危機感を持って現在のファンタジーの状況を分析し、発言している。ファンタジーを語りつつ、現代社会批評にも広がっている力作だ。文学の果たす役割についても考えさせられる。

岩波書店といえば、ジブリの話題の映画<ゲド戦記>を連想するが、なぜか、<ゲド戦記>についての論考がないのもふしぎ。訳者である清水真砂子さんの<ゲド戦記>論やファンタジー論をうかがいと思うのは私ばかりではないだろうに。

ところで、映画「ゲド戦記」の評判が悪い。「映画と原作」というテーマで学生に宿題を出している手前、私も見に行かなくてはと思っているのに、腰があがらない。清水さんが期待していたように「きっと初々しい、いい作品」になっているのだろうか? それについても、清水さんのご意見を伺いたいところだ。また、「吾郎さんにすべてを預ける」と言ったル=グインは、どう映画を見るだろうか。作品への一つの批評として、どう考えるか、ぜひ聴きたい。

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