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子どもと絵本を楽しむ

悲しいかな、身近に幼い子どもがいないので、いつもいつも子どもたちと絵本を楽しむことができない。でも、たまにチャンスに恵まれることもある。

昨日のお稽古は、Aさんが特別参加(ありがとう!)。私は、ポワントが足に合わず、お稽古は「?」だったが、Aさんが連れてきたお子さんと絵本を読むというチャンスに恵まれた。お子さん(Eちゃん)が幼稚園からもらってきた「こどものとも」の最新号『わたしのかさはそらのいろ』だ。

Eちゃんは、最初私が声を出して読みはじめたときは、少し遠くから眺めていたのだが、すぐそばによってきて、「ふわふわ」「くすくす」笑ったり、「あっ、かさがおおきくなってるね」なんていいながら物語を楽しんだ。「わたしのかさは/そらのいろ/あめのなかでも/いいてんき」という歌の部分は即興で歌にして歌ったので、帰りは、二人でずっと「わたしのかさは・・・」と歌いながら、駅まで歩いたのである。

いままでAさん特別参加のお稽古には、ほとんどの場合Eちゃんも一緒だったから、彼女とは、顔見知りになっていたし、お話もしたことがあった。しかし、昨日は「絵本」を仲立ちにして、さらにぐっと深いつながりができた気がする(たとえ一回性のものでも)。絵本前と絵本後のEちゃんの私に対するスタンスが明らかに違うのであった。

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見られてる!

授業のレスポンス・カードに「先生、土曜日、XXですごく酔っていましたね。無事に帰れましたか?」というものを見つけた。確かに土曜日は、コンサートのあと、食事をして(お酒もいただいて)帰りました。そんなに酔ってたかしら? ショック!! 

そのショックもさめやらぬまま、7限のクラスにいったとたん、「先生、先週、国一(桜田通り)走ってわたったでしょ」と、ちょっと詰問口調で確認される。はい、確かに、横断歩道もないところを、車がいないのを確認して、TFさんとわたりました。なんと、当日、その辺りで、やはり走って渡った男の子が、車にはねられたのだそうだ。はい、これからは、もうしません。ごめんなさい。

夫に「酔った現場を見られたらしい」と話したら、そんなに酔ってたかしらと、首をかしげていた。酔っていなくても、酔っていても、どこかで見かけたらぜひ声をかけてください。

ところで、7限終了後、「目撃者」の男子学生を含めて総勢5人で一杯(いっぱい)飲んで帰った。自宅についたら、12時半を回っていた。最後は絵本の話や授業の話でもりあがって、とても楽しかった。

日フィルコンサート

今日もポワント・レッスンはパスし、通常レッスンのみを終えてMMホールへとむかう。あまりによい天気だったので傘を忘れ、バレエの稽古を終えて外に出たら雨が降っていた(しかし、洗濯物は青空の中、しぶしぶ部屋の中に入れてきたのだけれど)。そして、小やみになった雨の中を駅まで走ったのである。

そんなわけで「つかれた、ねむい、おなかへった」という三重苦での演奏会だった。しかし、音が鳴りだしたとたん、こちらも「シャキッ」となってしまうほど迫力のある演奏だった。

メンデルスゾーンのコンチェルトを弾いた女性は、硬質で知的な音を響かせて、19歳とは思えないほどのおとなな演奏で観客を堪能させた。「春の祭典」を生で聴くのは初めて。バレエ音楽というより、演劇的な音楽のように私には聴こえる。

コバケンが日フィルを振るときには、アンコールはたいてい二曲あり、今日もその例にもれず、「スラブ舞曲」と「夏祭り」(コバケン作曲)であった。しかし、彼の振る「舞曲」ではきっと踊れないと思う。以前にもよく「ハンガリー舞曲」をアンコール・ピースで聴いたことがあるが、あのねちこい音でどうやって踊るの、とつっこみを入れたいほどだった。「モルダウ」は淀んでいるし(とてもとてもゆっくりと流れている、というべきか……)。でも、コバケン好きです。

ところで、コンサート・マスターのKは、いつも楽団員がみんな着席してからおもむろに入ってくる。私は、このKの尊大さが好きではない。先日退団した大川内先生は、楽団員のみんなと一緒にざわざわ入ってきて、「さぁ、きょうもやろうね」という感じで、「ラ音」を響かせていたのである。時には、最前列に知った顔を見つけて挨拶していたこともあった(これは東京芸術劇場での話)。あのさりげなさというか、フレンドリネスが日フィルのキャラクターでもあると思うのだが。ゲスト・コンマスが拍手を浴びながら入ってくるのは許す。

I Spy絵本

I Spy Year-Round Challenger: A Book of Picture Riddles を楽しんでいる。この絵本は『ウォーリーをさがせ』(フレーベル館)『にたものランド』(徳間書店)系の「探して楽しむ絵本」である。オモチャや木の実、石ころなど小さなものが丁寧にレイアウトされた写真ページ(PP8-9:一月の章)から、指定されたものを探す。しかし、一行目からすでにつまずいてしまっているのがちょっと悲しい。

I spy three walnuts, four almonds, four bows,
Two shiny gold stars, an elfin nose;
A button, a book, a band of lace,
A bear sextet, and a white mustache face.

クルミ、アーモンドは見つけた。しかし"bow"ってなんだろう? 「弓」? ないなぁ。ひょっとして「つる状のもの」かしら。だったら「つる植物」があるけれど。「キラキラ光る星二つ」もやっかいだった。雪にかくれていたコインに小さな星を見つけた。うん、これだ! 「エルフの鼻」もわからない。「なぞなぞ」(riddle)になっているわけだから、一筋縄ではいかない。「本」(a book)も見つからない。「白ひげの顔」は、樅の葉っぱにかくれている「サンタクロース」の顔のこと?

「チャレンジャー」とあるからには、少し難しいのだろう。

遅刻すること

私はどの授業でも「遅刻者は入室しない」を、授業に参加するもののルールの一つとして尊重してもらっている。とくに50人を超える講義形式の授業では、遅刻者には、お帰りになってもらうこともある。ばらばら入られたら、私も学生も集中力がとぎれてしまうし、絵本を読んでいたり、物語を読んでいたら、その場の雰囲気がぶちこわされてしまうからだ。したがって、「列車の遅延」などの「正当な理由(であると学生には思えるらしい)」でも入室はご遠慮いただいている。遅刻を戒め、罰しているからではないからだ。どうやらこれがわかってもらえていない。

昨日届いたG大学の「FDアンケート結果」に、「電車遅延による遅刻は入室させてほしい」という学生の要望が書かれていた。気持ちがわからなくもないが、こんな意見を目にすると、うんざりして、がっくりしてしまう。「遅れて教室に入ってくること」が、いったいどのような影響や結果をもたらすのかの配慮や想像力が感じられないのである。「私のせいで遅刻したのではないから、入室させろ」というのは、私にはちょっと受け容れがたい。一回ぐらいの遅刻だったら、「ラッキー!」と、思いがけなくプレゼントされた時間をゆっくり使えばいいのにと思う。「入室できないこと」が「罰」だと思っているから、こんなふうに言ってくるのであろう。「罰」などではないのに。

それと同様に、基本的にどんな理由であれ欠席は「欠席」として扱うことにも不満の意見が出ていた(だって、授業に参加していないんだし)。確かに「介護体験」などで欠席せざるを得ないことはわかる。「欠席は3回まで」といっているからかもしれないが、介護体験で2回(もしくは1回)欠席して、これをカウントしないで、3回の欠席を認めていたら、授業を半分近く休むことになる。だから、介護体験にゆく学生には、「なるべく休まないでね」と注意を促しているのだが、どうも、それも気に入らないらしい。G大学は、後期の始まるのが遅いので、教育実習で講義を休む学生はいない。介護体験もほとんどの学生が休み期間中に終えている。

彼らはときどき「何回休めますか?」ときいてくることがある。そんなとき、「1回も休むな。バーカ!」と心で毒づきながら、「まあ、3回までは認めますけれど」と答える。すると「学則ではXXですから、4回までは認められるのではないのですか」と食いさがってくる学生もいたりする。何しにがっこに来てるんだろう?

そういえば、朝カルに、明らかに買い物をして「遅刻してきました」とわかる受講生が入ってきたことがあったけれど、あれも不快だったなぁ。ベリットさんの時には、ガムを噛んでいた参加者がいたが、あれも私には嫌だった。自分でお金を払っているから「遅刻してもいいんだ」「ガム噛んで、何が悪い」と思っているのかどうか、しかし、そんな人たちの心性を疑いたくなる今日この頃。 

研究会の夕食

学校図書館研究会の方は、脱落したので料理人に徹することになる。ときどき、「戦後学校図書館の歴史」を小耳に挟みながら、台所で料理。雨にめげて、買い物にゆくのを断念したため、「ガーリックラスク」は「リッツクラッカー」で代用したが、家庭菜園で摘みたての香菜(K先生ご持参)をつかったワカモーレソースにはやはり自家製のガーリックラスクがほしかった。残念である。

<本日のメニュー>
●ディップソース二種(ワカモーレ/ブルーチーズ)/クラッカー
●しめじのマリネとパスタのサラダ
●ポテト・ジェノベーゼ
●冷しゃぶ/ルッコラ(K先生)/絶品オニオンソース
●飛竜頭の煮物
●玄米入り雑穀ご飯/焼き鮭
●円熟/シャルドネ/黒糖焼酎

Kim読書会のメニューは

●ディップソース二種/クラッカー
●しめじのマリネとパスタ
●茹で鶏/ルッコラ
●ヒジキのイタリアン

の予定である。

変人って? 『フランス反骨変人列伝』を読む

非常勤先のK大学で一緒になる先生から、ご著書『フランス反骨変人列伝』(安達正勝/集英社新書)をいただく。フランス正史にはほとんど登場することのない、いわゆる変わった人たちを紹介している著作である。自分の妻を「公式寵姫」に遇されたことに異議を唱え、時の王と対決したモンテスパン侯爵。社会に復讐するために犯罪を犯し、獄中で詩を発表するなどして話題をさらった「困った変人」のラスネール。しかし、なんといっても死刑執行人のサンソンの生涯には、深く心をえぐられるものがあった。

膨大な資料から取捨選択されたものを、抑制された筆致で語られたそれぞれの人生は、物語を読むのとはまた違った想像力を刺激される。筆者によって差しだされたそれぞれの人生の有りようが、読み手に読まれることによって完成されるために、作者にあやつられ束縛されることなしに、それぞれの人生や人間を直に感じることができるからだろうか。物語の場合は、主人公の人生や人間に対して作者が作りだす強靱な「思い」にとらわれ、軌道修正を迫られ、作者の「解釈」に収斂されてゆくこともあるからだ。

「十分な状況証拠がある場合は資料と資料の隙間を埋めるために推理もするが、それは、筋を作るためではなく、より真実に迫るためである(あとがき)」という筆者の、歴史に生きた実在の人物に誠実に向きあおうという姿勢に、対象人物への「愛」も感じられる。

私たちが、「私」を貫こうとしたら、多かれ少なかれ「変わっている」ということになる。だから、ここに書かれた人たちがどれほど変人であろうと、共感できる要素はどこかしらに見つけられるのである。

『めっきらもっきらどおんどん』

連休明けの木曜7限は、予定通り学生自身が絵本の場を作ることをめざす「絵本のわかちあい」を中心にした授業スタイルにシフトした。今回は、学生主導授業の一回目のため、昨年から引きつづく「もぐり」の学生のうち2人にお願いした。

30人収容のゼミ室(机がロの字型に配置されている)の真ん中に、聴き手はリラックスして車座になり、読み手は、椅子に座って絵本を読むのである。トップバッターのNさんが選んだ本は『14ひきのせんたく』(いわむらかずお/童心社)。狭い空間とはいえ、この『14ひきのせんたく』は、絵を読むことを楽しむ作品のため、少し見にくいようだった(あとでじっくりまわし読み)。

「せんたく」つながりで、二番手のIさんが持っていた『せんたくかあちゃん』(さとうわきこ/福音館書店)を急遽私が読むことになった。洗濯をするのが「かあちゃん」であるという、時代的な(1978年初版)制約もあり、ジェンダー・ステレオタイプだという批判のそしりは免れないかもしれないが、この作品の価値は、そのような批判より大きいことをみなで確認した。「せんたくものをほしたあとはラムネのんだみたいにすっきりする」という、日常の喜びを伝えずして、どうするのだ、といいたい。洗濯板でごしごしするのはごめんだけれど、日々の生活の営みがあってこその「生」だと思う。

『めっきらもっきらどおんどん』(長谷川摂子・ふりやなな/福音館書店/1990年(<こどものとも>では85年)には、かなりの部分が『かいじゅうたちのいるところ』(モーリス・センダック/冨山房)と類似していることに気がつき、びっくりした。

かんた君が友だちを捜して「ここまでやってきた」のに見つからないことが「しゃく」だったので、でたらめの歌を歌いだすと、異界に入ってゆく導入部分(異界には一人で入る)、異界の生き物に出会う、「母なるもの」への愛着により、現実に戻る場面など、『かいじゅうたちのいるところ』の残響が意識された。この作品も、内奥の冒険を外在化している絵本であろう。日本的な場所や設定(森の中の神社や登場人物)に目がゆき、最初に読んだときには全く気づかなかったのだ。

ところで、かんた君は異界の食べ物(もち)を口にしてしまったのに、こちら側に戻ってこれたのには、何か理由があるのだろうか? でも、帰ってこられてよかったね。

連休も終わって

「長い休みだから、たっぷり読書できるぞ」と、ほくほく喜んでいた連休も終わってしまった。あとは、夏休みまで突っ走るのみ。いきごんでいたわりには、たっぷり読めたわけではなかったのが、少々心残りだ。その中で、『学生と読む『三四郎』』(石原千秋/新潮社)がよかった。これは、あいかわらず「レポート」に頭を痛めているせいだが、私が学生に提示している「課題レポートの書き方」をさらに細かく、しかも勘所を押さえて書いてある点で個人的にすごくうれしかった。

この本は、ただ技術的なことのみを列挙してあるハウツー本ではなく、成城大学文芸学部の「近代国文学演習」で『三四郎』を購読する授業を紹介しながら、おおかたの学生が卒業後、文学とは縁のない仕事を選択してゆく現状の中、(国)文学を学ぶ意義、レポートを書く意義をつたえ、その方法を学生の実例を挙げながら伝えようというもの。「自分の力で読む」とは具体的にどのようなことか、「自分の読み」とはどこから生まれてくるか、私自身もいつも口を酸っぱくして学生にいっていることを、石原視点で書かれているので、私にとっても「目からうろこ」な部分もあった。感謝。E-ラーニングで私の授業をとっている学生には、すでに「必読文献」として告知した。

E-ラーニングでの、いわゆるじっさいの学生生活とは縁のうすい学生もいる中では、大学生活の描写(眼前の教師との授業や世間話やコンパなど)や大学教師の実態の報告などは、彼らにとっての疑似体験にもなるだろう。

「リアルでえぐい」とレポートを締めくくっていた(レポート言語イリテラシーの)学生が、授業で鍛えられ、自覚的に努力し、最終的に見違えるようなレポートを提出したことは、つきなみだけれど感動した。←このフレーズ、あいつのおかげで使いづらくなった。やぁね。

庄野潤三の世界

ここ10年ほど、庄野潤三が年に一冊ずつだす作品を楽しみにして読んでいる。『鉛筆印のトレーナー』 『さくらんぼジャム』あたりからだったろうか、、、。彼が語る、孫のいる夫婦の日常生活を飽きもしないで読んできた。失礼ながら、彼の作品が小説なのか、エッセイなのかも私にはわからない。少なくとも「物語」とは対極のところに存在しているとは思う。基本的に彼の世界は、『明夫と良二』 『絵合わせ』あたりから一貫しているが、特に「夫婦の晩年」を描こうとしている最近の作品は、また違った風味を醸している。

語られるのは、庭に来る鳥たちのしぐさ、声、妻のピアノ、夫婦で歌う歌の話、夫のハモニカ、年二回の大阪への墓参り、宝塚観劇、子どもたちの訪問、子どもたちとの会食、それに対するお礼の手紙、などなど、夫婦を取りまく人づきあいや日常の食べ物のことだ。

お彼岸には必ず「かきまぜ」を作り、ピアノの上にお供えする。そして、子どもたちが家族でお参りに来て、「かきまぜ」を持って帰る。大阪へのお墓参りには、妻は早起きしてサンドイッチを作り、それを新幹線の中でいただく(最近、手作りサンドイッチは、車内売りのサンドイッチに変わった)。大阪では「竹葉亭」の鰻御前をいただき、帰りの新幹線では、お弁当を買って帰る。子どもたちの家族と宝塚観劇の帰りには甘味処でおやつをいただく。

どの本を読んでも、このような日常を軸に夫婦二人の生活が描かれている。孫たちが大きくなり、その生活の変化につれて、夫婦と孫とのつきあいも少しずつ変わってゆくことがわかる。「鉛筆印」のトレーナーを着て、お人形遊びを楽しんでいた「ふうちゃん」は、いまは高校生で、ブラスバンドでサックスを吹いている。そして、二人はふうちゃんのクラブの定期演奏会に出かける、というように。

ところで最新刊の『星に願いを』(講談社)では、そのような日常が微妙にそぎ落とされている。そぎ落とされて残ってゆくものが丁寧に書かれているのだ。これが「人間の晩年ですよ」と静かに主張しているようだ。

私は、なぜ庄野潤三にひかれるのだろう。

梨屋アリエ『でりばりぃAge』

中学2年生の真名子は、私立高校で行われていた夏期講習のさなか、いきぐるしさを感じて講習を抜けだし、校舎の窓から見つけた白いシーツが干してある家に逃げこんだ。この白いシーツが自分を救う帆船の帆であるかのように感じたのである。そこで、真名子は、一人の青年と知り合う。たらいと洗濯板でシーツを毎日洗って干していたのはこの青年であった。それから毎日、講習の間、真名子は青年のいる家ですごすことになった。

真名子の息苦しさはどこから来るのだろう? 物語が進むにつれ、ごく普通のように見えた真名子の家庭が見え、彼女の息苦しさが明らかになってくる。「自分は女の子だから望まれて生まれた子ではない」という思い。将来への不安。よい母親になろうと躍起になるあまり、自分の子どもが見えなくなっている母。覇気をなくした父。

青年もなんだか屈託を抱えているようであるが、彼の真名子に対するスタンスは、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンのそれと似ている。境界に立っていて、そこを逸脱してしまいそうになる子どもを支えるという意味で。ただし、真名子には青年に会いに行くという意識よりも「庭にゆく」という意識が強いようだ(P113)。これは、青年の抱えている痛みをも考えると示唆的である。

これは梨屋アリエの第一作らしい。冒頭部分は、ごちゃごちゃして読みにくい。もう少しすっきり読みたかった。最後に『ゲド戦記』をもちだしてくるのは、中途半端でとってつけたようだった。まだまだ荒いのは仕方がないだろう。そういうことで、おまけして★★★。

梨屋アリエ 『でりばりぃAge』 講談社文庫 (初版は1999年)

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