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味噌の仕込み

ネット提出ではないレポートを読みながら、午後から「味噌」を仕込んだ。圧力鍋を二つ使い、着々と大豆をゆで、ペースト状にしてゆく。麹と塩を混ぜ、味噌玉を作り、容器につめた。毎年一回とはいえ、味噌づくりをはじめて十数年経つから、「なかなか手際がよくなった」と少し得意になっていた。「油断大敵」。なんと「塩」の量を間違えてしまった。麹と混ぜるとき、なんだか多いな、という気はしたのだが、生協の「セット」だからと、間違いないと確かめなかったのが災いした。なんということ。落ちこんでいる私である。
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久しぶりの再会(完結編)

「読みあい」ということについて考えている。リエさんの「読みあい」は、いわゆる図書館や学校などで行われる「読み聞かせ」とどこか本質的に違うような気がするからだ。そんなことを考えるきっかけになったのは、二日目の講演会でのことだった。

一日目を「総論」とすると、二日目の講演は「各論」という趣があった。それは、「具体的に読み聞かせにふさわしい本について知りたい」という聴衆からの要望があったからだと聞いた。しかし、講演を聴いたあとで、「XX の本を読み聞かせに使いたいのだが」とあげられた絵本は、絵本に対するその人の姿勢をすら質したくなるようなものもあった。なぜそのようなことになるのだろう。一つ考えられるのは、「読み聞かせ」が目的化してしまっていることだ。読み聞かせの場で「絵本を読むこと」だけが「読み聞かせ」であるとほとんどの人が考えているのがわかる。それも真実の一面だ。しかし、リエさんの実践を拝見すると、微妙に違うのがわかる。

講演ではある「読みあい」の実践を記録したビデオを見せていただいた。そこで彼女は、小学校高学年の女の子と『きゅうりさんあぶないよ』という絵本を読みあっていた。この本は、福音館書店から出版された「こどものとも年少版」である。まず、「読み聞かせ」をする人だったら、小学校高学年の子どもに、「年少版」の絵本は選ばないだろう。では、なぜリエさんが、この絵本を選んだのか。リエさんだって、もちろん子どもたちと「絵本を楽しむ」ことは前提であろうが、しかし、それよりも何よりも、彼女の「読みあい」には、「絵本」を仲立ちとしたコミュニケーションを重視しているからだろう。

この『きゅうりさん・・・』は、「きゅうりさん そっちへいったらあぶないよ ねずみがでるから」というフレーズが繰りかえされて、物語が展開される構造をもっている。その繰りかえしのなかで、きゅうりさんは、次第に武装してゆくのである。繰りかえされるフレーズがなんだか呪文のようにも聞こえる不思議な絵本で、物語構造がシンプルであるぶん「わけのわからない」絵本でもある。

リエさんとその少女は、「きゅうりさんそっちへいったらあぶないよ ねずみがでるから」というフレーズを交代に届けあっていた。最初、少女の声は「とんがっていて」、「届ける」というより「とばす」感じだった。そして、その少女の声に呼応するように、リエさんの声もとんがっていたのだが、次第に、少女の声が変わっていったのである。最後は二人で言葉のリズムそのものを楽しむ「読みあい」で終わった。

ビデオを見ていた私たちは「何かがかわった」ということは理解できた。しかし、その正体は、いまだに私にはしかとしていない。たぶんこれが「読みあい」(読みあいだからといって必ずしも聴き手が「読むこと」を要請させるわけではない)なのだという思いはある。

『きゅうりさん・・・』の読みあいは、ほんとに短いセッションのようだった。そして、少女はたぶんそのとき「ひらかれた」と思う。

ほとんどの「読み聞かせ」は、絵本の物語を聴き手に届けることが重視されているのではないだろうか。だから、「読み手」は、読み方に関するテクニックの向上を目指す。物語や絵本の「声」を訊かないままに。物語や絵本の声を訊くとは、「読みこむ」ことや「解釈」とはまた違う気がする。読みこんだ先に見えてくるのが、物語や絵本の声かもしれない。ほとんどの絵本は、開かれて、読み手と聴き手がそこにともにあるとき、物語を「拓いて」ゆくのだろう。

久しぶりの再会から、すでに一週間が経ってしまい、日常に戻ってしまったが、「読みあい」についてずっと考えていた一週間でもあった。その間、学生に絵本を読んだりもしたが、「あー、これは読みあいとはちがうなぁ」と感じたこともあった。授業のなかで学生と「読みあい」ができる時は、どんなふうに生まれるのだろう。
 

レポートの性差

レポートの添削をしていると気がつくことがある。私は「課題図書」の作品論をレポートに求めているのであるが、そのとき口を酸っぱくしていうのは、作品に深く沈潜して、「自分の読み」を展開させろ、ということである。ところが、これがなかなかむずかしい。どこかで聞いたことのあるような議論を展開し「予定調和的結論」に無難に着地しようとするレポートの何と多いことか。そんなレポートは、「即返却・再提出」なのは当然なのだが、「予定調和的な無難レポート」を書いてよしとする心性を突き崩すのが、至難の業だ。

とくに、男性の書くレポートにそのようなものが多い。そんなレポートからは「作品と格闘した作者の顔」が見えてこない。彼らは、作品との向きあい方が「理性的」で、具体的に論じるよりも、なんとかうまく「まとめて」「整理」しようという姿勢がレポートのなかから垣間見える。作品論は確実に抽象化の方向へ進む。読んでいて、一瞬、居心地がよいが(うまくまとめてもらうと「ふんふん」と納得し、感性的な私は感動してしまいそうになる)、私の授業では「不受理」だ。

作品を楽しんだのか、そうでなかったのか、というところから出発して、自分の問題意識を目覚めさせて欲しいのであるが、そのような理性的な読みでは、作品からは一歩退くことになり、自分の読みが見えてこない。作品がおもしろくなくて、のめりこめないから、客観的に論じようとするのか、とも思ったりもする。「自分の感性」を圧し殺してまで、客観性を重んじようというのは、何か理由があるのだろうか? これは、男性のレポートにほぼ共通する傾向である。そのようなレポートからは、「生の声」も聞こえてこないし、いままで読んだ「参考文献」の整理・整頓であるから、添削する方としては、正直、読んでいてつまらない。

私は、子どもの本とはこんなふうに関わりあって欲しくはないし、このような向きあい方では、子どもの本の本質がみえてこないと思う。

それとは反対に、女性の書くレポートは、情緒的な部分から出発することが多い。これが、作品の裏づけや、参考文献の読みこみで深められると、レポートに論理性が出て、説得力をもったおもしろいものになるのだが、こちらも着地がなかなか難しい。だが、このようなレポートは、とりあえず「自分の拠り所」があるので、そこに立ちもどって、ふり返ることで、着実に洗練されたレポートができあがる(もちろん本人のやる気もあるけど)。

現代社会では「性差がない」ということが前提にあるように見えるが、レポートを読んでいても「性差」を感じるし、わが家の夫婦げんかも「問題」に向きあうまなざしの違いや、お互いを説得させる「技」の違いから勃発することに気がついた。だから、「ケンカの種」で議論するより、「種」への向きあい方についてお互いを批判することがよくある。私は、その向きあい方を夫の「性格」だと思っていたが、実は、性差ではないかと考える今日この頃である。

久しぶりの再会(続)

リエさんの講演会は、ジブランの詩集『預言者』の朗読から始まった。

「あなたがたの子どもたちは、あなたがたのものではない。彼らは生命そのもののあこがれの息子や娘である」

「彼らの魂は明日の家に住む」

「あなたがたは弓のようなもの。その弓からあなたがたの子どもたちは生きた矢のように射られて前へ放たれる」

「射る者の手によって身をしなわせられることを喜びなさい。射る者は行く矢を愛するのと同じようにじっとしている弓をも愛しているのだから」

というジブランの詩句を、リエさんの声をとおして心に届けてもらうと、しみじみうれしい気持ちになる。子どもに向きあうことを、謙虚にふり返りたい私がいる。

リエさんは、「読みあい」のさまざまな体験をユーモアもって語り、自作の『うんこ日記』を私たちと「読みあい」ながら、作品のエピソードを語り、「絵本」を仲立ちに生まれるコミュニケーションの世界を私たちに体感させてくれた。

私たちは、この空間をともにすることで、それぞれが自分の物語を引きだし、また新たに紡ぎだしていただろうと思う。

なんと、「やまきち」のお兄さんも忙しい仕込みの間をぬって、講演会を聴きに来てくれた。彼は講演会が終わると「仕込みがあるから」といって、自転車で颯爽と帰っていった。

ところで、「昨晩は『やまきち』という店で、おいしいお酒とお料理をいただいた」と地元の人に話すと、「あー、あそこ、一昨日新年会で行った」などという話がでるほど、「やまきち」は、安来では有名(?)な店らしい。お兄さんは、翌日、東出雲で行われた講演会にも、お母さんといらしてくださったのであった。お母さんは「安来では、昨日のことが、明日になるとみーんなに知られてる」とおっしゃっていたが、そこが、小さな街の楽しいところでもあり、たまに煩わしいところでもあるのだろう。まぁ、子どもの本の世界はとても小さいのである。「ちいさいのね」と思わせるエピソードの典型的なものに出会ったが、これは内緒。

講演会場をあとにして、足立美術館近くの「鷺ノ湯荘」にはいる。夕食前にさっそく「一風呂」浴びることにする。リエさんは、「このお湯、ちょっとしょっぱくない?」という。するどい! 「料理なんてできないでしょ」なんていってごめんね、リエさん。あなたの味覚は「すごい!」。私は、あなたに指摘されるまで気づかなかったわ。

食事は、いわゆる「旅館料理」だったので、私はおいしくないもの(自分の好みに合わないもの←これが多いんだなぁ)はパスして、ひたすら「カニ奉行」に徹する。ここでいただいた、お酒「月山」も、なかなかであった。

大きな部屋に敷かれた布団を前に、「寝言いったらごめんね」「おならしたらごめんね」という会話を交わしながら、眠った二日目であった。









久しぶりの再会

友人の「リエ」さんが、出雲地方で講演会をするというので、彼女の講演先についてゆきながら、久しぶりにゆっくりした時間を持とうと、昨年から楽しみにしていた「出雲への旅」がやっと実現した。山口・宇部空港からやってきたリエさんと、羽田で合流。出雲地方は、高校の修学旅行以来である。地理の苦手な私は、島根と鳥取をよく混乱して、夫の顰蹙を買うのであるが、米子、松江、安来といわれても、残念ながら位置関係がつかめられないのである。

一泊目は、JR安来駅前にある「ひさご屋」というビジネスホテルに泊まる。リエさんの部屋からは、眼前に「無人のお化け屋敷風」の建物が嫌でも目に入り、シャビーなホテル内部といい何かもの悲しげな気持ちになる。ほんとうは、二泊目も「ひさご屋」の予定だったのだが、翌日に夫が合流することになり、彼の提案で温泉旅館に変更したのであった(これは正解だった。夫、ありがと)。

二人とも久しぶりの再会に高揚し、絵本の話で盛りあがる。夕食に地元の人おすすめの店を探しあてるも「満員」で、辺りをうろつき「ここぞ」とピンときたお店「やまきち」(「天界」という蔵元の経営する居酒屋)に入る。ここが、大正解であった。お酒がおいしく、若いご主人ともお母さんとも話が弾んだ。気さくなお母さんや若いご主人に勧められるがままに、おいしく、とっておきのお酒をたっぷりいただき、いい気分。また、何という偶然か、リエさんにも私にも共通の知人を知っていることが判明。なんということ。翌日の講演会の宣伝をして、店をあとにする。ちょっと飲みすぎたなぁ。

翌日は、夜行列車で到着した夫と合流し、打ち合わせに一足先に会場に出かけるリエさんと安来駅で別れ、私たちは、Iさん(地元の小学校の司書教諭で、去年アメリカ・カナダ学校図書館訪問でご一緒した方)のご案内で安足美術館に向かう。東京や横浜は「大雪」だというのに、ここ出雲地方は雪もなくよい天気。さすがに「庭園日本一」だといわれるだけあって、すばらしいお庭であった。「自然のついたて」「自然の額縁」などの趣向も面白い。

武井武雄「昆虫の読書会」、北大路魯山人「蟹皿」などに感嘆する。ミュージアム・ショップでは魯山人の「蟹皿」コピーが販売されていたが、実物とのきわだつ違いに驚く。魯山人の「蟹」はどこか稚拙でありながらも力強さがある。

食事を終えたあと、講演会場の和鋼博物館に向かう。時間まで、博物館のとなりの安来図書館を見学する。この図書館はNDC分類で配列されていない。「調べる」「たのしみ」「言葉」などという範疇で、本や資料が集められているのである。ぼんやり「何か面白いものはないかな」と探しに来る利用者にとっては、NDC分類を縦横するコレクション構築は、思わぬ資料に出会わせてくれるかもしれないが、「これが欲しい」と資料を探しに来る利用者には、使いにくいのではないだろうか。試しにある本を検索してみたが、コンピュータの画面上には「書棚の位置」が示されるばかりで、どこにあるのか、わかりにくい。図書館施設研究所の「スガワラ」さんが手がけた図書館らしいが、これでいいのだろうか、と思う。子どもの本のコーナーでは、表紙を見せる絵本架の角度が、使いにくそうであった。

教科書

来年度の授業のシラバスを書いたり、教科書の選択をしなくてはいけない時期がやってきた。英文科の「基礎演習2」では、<ゲド戦記>を原書で読むことにした。ジブリがアニメ化することを受けて決断した。『影との戦い』の読書会をやったクラスの学生からは、「アニメ化」に対してブーイングがでたことも、その理由である。なかなか手強い英語であるが、なんとかがんばろう。テキストには、4册が合本になったThe Earthsea Quartetを使うつもり。

いまここで読んでおかなければ、学生たちが「まず活字に触れる」体験を失ってしまいそうな気がしている。ファンタジー作品の映像化がブームになっているということは、そこに「どじょう」がたくさんいるということなのだろう。私は、しかし、子どもの文学を軽々に映像化して欲しくはないのだが、、、。子どもの読書のあり方が大きく変化してゆく予感がする。まず、自分の想像力を鍛えることの大切さを、いろいろな場所で訴えていかなければ。

リーディングのクラスのために検討していた、ペンギンリ-ダー版のグリシャム(3000語レヴェル)を読みはじめたらやめられなくなってしまった。かなり短くしてしまっているので、もの足りない部分があることも確かだが、うまく使えば教材にはうってつけである。英語が嫌いな学生ばかりの大学だから、1200語レヴェルから初めて2300語まで、一年で6冊読もうとたくらんでいるが、どうなるだろうか?

レポート提出はじまる

レポートの提出が始まった。すでに「レポート作成上の注意」で「子どもの読書は大切だ」などという陳腐な内容のレポートは受理しないとといっているはずなのに、「・・・作成上の注意」を熟読した(と主張する)学生から、「読書論」のレポートが届く。何のために課題図書を提示したのか、課題図書は、レポートの「前ふり」にしかなっていない。却下。

「一般論で議論するな」というコメントを書いたら、「どこが一般論なのか具体的に示せ」というお返事が来た。では、「オリジナリティ」はどこにあるのですか? とお返事を返す。さらに「レポート作成の場は、自分の認識の再点検の場」であることをつけ加える。

水準に達しないレポートとは、課題図書を読みこんでいない、課題図書の表面だけをなぞり、「これらの作品は、子どもが感情移入しやすいように書かれている」「子どもがこういった作品を読むときには・・・」などと、まったく自分の感情や意識や知性から乖離したところで、予定調和的な「結論」に向かって、縷々書き連ねてゆくタイプが多い。

ああ、またどっと疲れる添削の日々が始まった。おとなになってしまうと「全存在」で文学と向きあうことができないのだろうか? いや、そんなことはないはずだ。「全存在」で向きあうことができなければ、何かで自分の「読み」を補えばよいのだろうが、そのときに「規制の物差し」を使ってしまうからかもしれない。

ああ、、、誕生日だ

今日は誕生日だ。朝、夫から「xx歳になった気分は」と聞かれる。うーーん。これから、誕生日には一つづつ歳を「とって」、減らしてゆくことにしようか。何よりも「健康」が大事と思えるような域に達しつつある。気力も、体力も、知力もいっそう充実させたい。

夫からは、E-mailのカードをもらう。ありがと。

そういえば、『太陽の戦士』読書会のレジュメには「1月14日はxx師範の誕生日」と書いてあったなぁ。でも「先生、いくつになったの?」などと失礼なことは聞かないジェントルマンな学生たちである。

英米児童文学(続き)

「英米児童文学:7限」最後の授業は、サトクリフ『太陽の戦士』の読書会。読書の好みに性差があるのかどうか、わからないが、女子学生のほとんどが「読みにくい」「作品に入れなかった」という。男子学生には好評だったのであるが。同じような現象が『影との戦い』においてもあったが、今回のほうが、それが顕著であった。

確かにサトクリフの文章は、長い。また、くわしい情景描写が特徴的だ。おまけに猪熊葉子先生の日本文が固い(灰島かりさんの訳と比較すると一目瞭然である)。

ずいぶんと意見が出せるようになってきたのは、よろこばしいこととは思うが、まだまだ読みが稚拙だ。「ドレムがさまざまな人間関係のなかで成長する」話としてとらえて、それで良しとする。もう一歩つっこみが欲しい。「成長」とは何を指しているのか、どのように「成長」するのか。長い風景描写は作品にどのような効果をもたらしているのか。などなど。分析も甘いが、批評のツールの使い方が訓練されていないのだ。これは、来年以降の課題としてゆこう。

「英米児童文学」今年度最後の授業

「英米児童文学」が今年度最後となった。「みなさん、あけましておめでとう。そして、元気でね」というさみしいあいさつになる。

授業は『週刊読書人』に掲載された、ひこ・田中氏の「2005年回顧」を枕に、「子どもの文学の核となるもの」をテーマに、一年間のまとめとして話した。ひこ氏は、『悲しい本』『ぼくはジョシュア』『イクバルの闘い』『ドアーズ』などをあげ、「子どもの本は今どんなことでも物語にできる幅を持ち始めている」と、評価する。確かに「幅」が拡がっているという見方もできる。でも、ひっかかるのだ。どちらの方向に「幅」が拡がったか、というと、子どもの文学の世界が「しあわせな方向」に向かってばかりいるとも思えないのである。作品のなかに、子どもがしあわせであることの証左が見えてこないのである。これは、現実の子どもの姿が作品に映しだされている、ということが前提になってはいるのだが。

おとなの文学に「無視できないほどYA的スタイルの作品が増えてきている」という指摘には納得。彼はその理由を「近年確実に進行しつつある自我の曖昧化の前で何をどう書けばいいのか模索し立ち止まったとき、そこに浮上してきたのが、自我の生成から形成の辺りを得意として書いている(かのように見える)YAや児童文学なるジャンル」にシフトしたのではと述べる。なるほど。ところで、「自我の曖昧化」ってなんだ?自分を関係性のなかで生かすことが困難になってきている、ということなのかしら。

総体としての「子どもの文学」を考えたときに、ひこ氏があげた作品の多くは、周辺を広げているとはいえるだろう。しかし、「子どもの文学の核」となりうるものとして、それらの作品を評価できるのか、それはまた別の問題意識や基準が必要だという気がする。

そして『どんなにきみがすきだかあててごらん』というベストセラー本の欺瞞性をthe dotと比較しながら、基本的に「ほら話」であり、loveの本質から情けないほど乖離していると、縷々自説を主張した。

複数の学生から「学生生活最後の授業がこの授業でよかった」というありがたいお言葉をいただく。しあわせ。

『ページをめくる指』

金井美恵子『ページをめくる指』(河出書房新社)を読んだ。絵本好きの文学者の丁寧な言葉と分析で書かれた絵本論。絵本論は、多くの場合、子どもの視点を交えて論じられる。そのことに異を唱えるつもりはないが、この著作は、もっぱら刺激的な「金井美恵子」の読みに貫かれているところが魅力的である。

ポターの絵本の魅力を「おはなしの内容と、描かれた動物たちの表情や仕草が、このうえない自然さで一体化している」(p88)と金井は述べる。そして、それはポターの描く小動物の身振りや動き、姿、仕草を「好奇心と細心さとやさしいユーモアとで見つめ、自分の観察力と描写力の伎倆に対する喜びに充ちたつつましい自負を通して」(p91)おはなしが生まれたからだと。さらに金井は、ことによったらポターは自分のまわりにいるネズミやウサギやネコたちから「おはなし」をきいたのかもしれないと、さりげなく書き加える。つまりポターの物語は、動物たちの自画像でもあるらしい。

饒舌で奔放な語り口で(長い!)自分の好きな絵本を論じる金井美恵子のラインアップは、ポピュラーなものがほとんどで、『母の友』に連載されたことを考えると当然という気もするが、なかにはちょっとめずらしい絵本も紹介されている。また、ほとんどの人が絶賛する『ちいさいおうち』『せいめいのれきし』に対する違和を述べるあたりは、遠慮しながらも、作家への批評眼がきらりと光っている。

「絵本は何度も読みかえす」と帯に書かれているが、私は、この著作をこれから何回も読み返すことになるだろうという予感がする。

レニングラード・バレエ

久々のレニングラード・バレエ。3大バレエの「いいとこ取り」プログラムを楽しんだ。ベストメンバーとはいかなかっただろうが、「姫」もそれぞれに、「らしさ」が出ていた。「クルミ」(タチアナ・ミリツェワ)は、かわいらしく、「白鳥」(エレーナ・コチュビラ)は気品があり、「眠り」(オクサーナ・シェスタコワ)は華麗だった。

印象に残ったのは「ブルーバード」(アントン・ブローム)。ジャンプが高く、滞空時間が長い。ふわりと飛んで、ほんとうに「鳥」のようなブルーバードに、なぜか精神が高揚する感覚を味わう。

最近「ポワント」のクラスにも出ている私は、ダンサーたちの足元に注目。なぜ、あんなに軽々とたてるのだろうか。重力に逆らって、なぜあんなに美しくステップが踏めるのだろうか。私ももっと美しく踊りたいという気持ちがふつふつと心にわき上がる。

ごあいさつ

新しい年の訪れを言祝ぎ、みなさまのいっそうのご活躍をお祈り申しあげます。

今年もいくつか進行中の仕事が形になると思います。どうぞ応援よろしくお願いいたします。

いつもいつも「これでいいのだろうか」「自分の力では荷が重いのではないだろうか」「ほかにもっとふさわしい人がいるのではないか」と思いながら、ここまできました。「私」をご存知の方は、こんな「私」に驚かれるでしょうが、心の奥底では、弱いものを抱えているのも真実です。小さなパイに集まる人の多さに、前に進む気持ちも萎えてしまうこともあります。今年こそは、もう少し自分のことを信頼してあげたいと考えています。

自分の仕事が自分のためだけでなく、子どもたちと子どもたちの幸せを願う人びとの力になれるような道を模索してゆこうと思っています。

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