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雪の京都

帰省ラッシュの間隙をぬって京都に出かけた。目玉は、鞍馬の温泉と「ぼたん鍋」である。雪が降る鞍馬山を背景にした露天風呂は、人も少なくゆっくり楽しんだ。目の前に迫る鞍馬山に圧倒される。

「ぼたん鍋」はたぶん初めて。白みそ仕立てで思ったよりあっさりいただけた。しかし、サービスしてくれた袴姿の若い男の子の、手際が悪いこと、悪いこと。料理の知識もなければ、機転も利かず、がっかり。袴姿がなくよ。

夫が楽しみにしていた「河井寛次郎記念館」は年末休館だった。残念。清水寺を散策した後、東大路通りを北上し、新年の準備に追われる八坂神社で早めの「初詣」をすませる。この時の気温は5℃。寒い。

関ヶ原付近で徐行運転がされていた「のぞみ号」だったが、定刻に到着。帰りは、窓の景色にずっと心を奪われていた。山々の冬景色も素敵だったが、何といっても、浜名湖を過ぎたあたりから遠く見える「アクトタワー」が近づき、その真下を猛スピードで通り過ぎてゆく「スピード感」にうっとり。「のぞみ号」って早いのねぇ。

一日目のお昼は、「晦庵河道屋」でお蕎麦を食べた。注文してすぐ出てくる蕎麦は、ゆで蕎麦を温めただけのようだった。ふーーん。ビールのおつまみにたのんだ「しんじょ」は、かまぼことも白はんぺんとも違うおもしろいもの。これはなかなかおいしかった。「鴨なんば」は鴨ではなく、どう味わっても、とり肉だったような、、、。夫は「にしん蕎麦」を。その後、錦市場を歩いて、ちょっとした観光客気分を味わう。ホテル横の京都市役所は、私が学生時代を過ごした20数年前の姿そのままだった。「センチメンタル・ジャーニー」とまではいかなかったけれど、10数年ぶりの京都は、大きく変わってびっくりさせられた。そのうち、昔の姿のままでひっそりと残っているのは「歴史的建造物」だけになってしまうのかしら、、。

道中は、森絵都『つきのふね』(角川文庫)を読んですごす。途中から森絵都の作品ではなく、誰かほかの人、たとえば、重松清などが書く作品を読んで着るような気分になった。
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『Children of Greenknow』再読

Children of Greenknowを再読。以前には、気づかなかったことがたくさんあったのにびっくりしている。トーリーが「まぼろしの子どもたち」に出会うまでが何と丁寧に描写されているのかということに、今さらながらにおどろいた。つまり、ボストンのファンタジーづくりの過程をじっくり辿ることができたともいえるのだ。

グリーンノウの館で起こる不思議なできごとは、<アミニズム><五感><物語ること>がキーワードになっている。ボストンは、「モノ」が命を持ちはじめてゆく過程を、<五感>の一つ一つがどのように反応するのかを細かく描写してゆくことで説明している。まず、目覚めさせられるのは<聴覚>だ。それは「気配」として現れ、「音」になってゆく。そして<触覚>。「まぼろしの子どもたち」が目に見えるようになるまでのトーリーの苛立ちが、痛いほど伝わってくるのは、この描き方のためだろう。しかし、彼らを目にしたからといって、ほんとうに「見えた」とも保証されてもいない。オールドノウ夫人やトーリーの幻想かもしれないと読ませるのである。

<ファンタジー>とは目に見えるようにすること、という意味であるが、トーリーがみたものを<幻想>として曖昧にしておきたがっているようにも見えるボストンは、その描写においては、<ファンタジー>を拒否しているようだ。しかし、この作品で、目に見えない「モノ」が「見える」ようになる過程を丹念に追い求めている手法を考えると、<ファンタジー>の王道を歩いているようにも思える。

トーリーの水先案内人ともいえるオールドノウ夫人は、グリーンノウの館に住みつく守護神のような存在で、この館に住みつく子どもたちは座敷童子でもある。

けなげなロボモップ

「ロボモップ」をご存知だろうか? そうです。帽子型をして部屋中をくるくる動き回って掃除する「モップ」です。ときどきテレビの通販で見たことがあったが、「ふーーん」と横目で見ていただけで、その効果には懐疑的だった私である。しかし、なんと夫がアマゾンより購入したのだ。さっそく充電し、試みる夫であった。なんと、なんと、あちこち歩きまわるではないか。ころころ、ころころ。ちょっと手が届かないところにも入りこんでは、出てくる。なかなかけなげに動き回る「ロボちゃん」である。その動きに法則性がないのもおもしろい。ときどき、コードにひっかかって狭いところで困っているが、なかなか使えるぞ。「ロボちゃん」を使うときには、床に積んである本をとりあえず片付けなきゃいけないのが、ね。

『ソフィアの白いばら』

ブルガリアの昔話『吸血鬼の花よめ』の訳者である八百板洋子さんのエッセイ『ソフィアの白いばら』を堪能した。

1970年にソフィアに留学したYOKOは、入寮早々ベトナム人留学生から、ベトナム戦争に加担する日本の姿勢を質される。同室のアセンカは、YOKOに強く激しい絆を求めてくる。次第に、留学生の国情だけでなく、複雑なスラヴの国々の事情ものみこめてくる。ひたむきに自分探しをするYOKOと歴史に翻弄され、否応なく自分の命を失っていった人たちへのオマージュ。

何かにせき立てられ、むさぼるように読んだ。読書中、たえず自分に問いかけずにはいられなかった。いま、私は「何をすべきなのか」
と。

失礼します

事情があり、しばらく更新をさしひかえます。残念です。

おかしいぞ、日フィル

年末恒例の「第九」に出かけた。なんだかなぁ。オーケストラに迫力がないし、知らない曲を聴いているみたいだった。ふだん否定的な意見を言わない夫も「金管にごってるね」という感想をもらす。バリトンの青戸知さんの歌声は、さすがに美しく響いていたが、久しぶりの錦織健クンにはがっかり。声に張りものびもなかった。おい、おい、ソプラノに負けるなよ、とつっこみを入れたくなるほど。コバケンの気合いは伝わってくるものの、オケとの息が合っていたとはいいがたい演奏。どうしたんだろう。その中で、合唱だけは聞かせてくれた。とくに男声がすばらしかった(東京音大の学生)。帰ってきて、またもや「ロイヤル・コンセルトヘボウ」「ベルナルド・ハイティンク」で口直し。

1月に出かかけたアメリカ・カナダ図書館訪問報告記の初校に手を入れ、速達にて送る。その他の仕事は難航中。優先順位は年賀状の原稿デザインにある。はい、ちゃんとやりますから、、、。『カムイ伝』第一巻読書中。これはすごい。

ストーリーテリング入門講座(第5回)

10月から始まった櫻井美紀先生の「ストーリーテリング入門講座」が、14日で終わった。最後の会は、私たち生徒の「語り」の発表だった。朗読が4人、パーソナルストーリーを語ったものが3人、ストーリーテリングが1人だった。みんなとても素敵だった。

年配の方が多いせいか、必ず枕に「みなさんお上手で、私のなど、、、」と謙遜なさっていたのだが、どうして、どうして、それぞれ個性的な語り口を持ち、楽しいパフォ-マンスだった。それぞれが選んだ作品は、その人にぴったりと合っていて、「すごいな」とも感じた。みなさんご自分のことをよくわかっているし、その作品や語りに愛着を持っているのが、とてもよく伝わってきた。

私は、最近のお気に入りである『吸血鬼の花よめ』(福音館書店)から「たまごを売って子ブタを買って」という話を選んだ。ストーリーテリングまでには至らなかったのが残念。「捕らぬ狸の皮算用」型の昔話である。先生からは、「語り」とは語り手と聴き手の共同作業であるから、聴き手のイメジができるのを待つことが大事という注意をいただいた。「間」という表現もできるかもしれないが、「間」は語り手が自分で推し量ってつくりだすもの、先生の意図は別のところにあるようだ。言葉ではない語りの手「語り」とそれを受けとめる「聴き手」といかに心を合わせるか、ということであろう。安易な言葉を使わない櫻井先生の見識に感心した。

ある作品を自分の語り口に作るまでは、最低50回以上読むことだというアドヴァイスもいただく。アシスタントでいらしていた方たちの中には「100回」といわれた方もいる。すごい。100回の「読み」に耐える作品を選ぶ私たちの眼力も問われることにもなる。テクストから「語り口」を作ることのむずかしさを痛感している。語りで聴いたものや、自分の中のイメジや思い出を語るもの(パーソナルストーリー)は、しっかり自分のイメジができているが、テクスト先行だと、ついテクストに頼ってしまうのだ。すこしづつレパートリーもふやしたい。

『あらしのよるに』私見

『あらしのよるに』(偕成社)ほかを授業で読み、学生に紹介した。一時、アマゾンのトップページに映画の宣伝がされていたり、テレビでも大きく取り扱われていたからだ。やはり、原作を先に知っておいて欲しいと思ったのである。

「映像メディア」と「活字メディア」を同じように比較することはナンセンスだと思うが、しかし、その違ったメディアを受けとるのは私たちにほかならない。映像であれ活字であれ、受けとめる側は、自分の五感を使って作品と向きあうのである。発信方法は異なっていても、受信機は一つということである。

この作品、確かにおもしろい。しかし、何回か声に出して読むと、どうしてもひっかかる部分がある。「読者の気を持たせようとするわざとらしい物語作り」「大げさな感情表現(とくに、笑い声、擬音など)」が気になった。確かに、物語をひっぱってゆく原動力となっているものが、「ありえない友情」であるから、そのシチュエーションにリアリティを持たせるためには、二人が関係を築いてゆく過程はとても重要であろう。けれども実際の物語の流れは、その「過程」を追うのではなく、「いつお互いの正体がばれるのか」という視点で、読者をひっぱっている。だから、嵐がやみ小屋の前で再会を約束して終わった第一巻に続き、そのあとどうなったのだろうと第二巻『あるはれたひに』に手をのばす読者は、肩すかしを食らってしまうのである。

『あるはれたひに』は、再会を果たした二人(匹)が、お互いの正体を知り、認めてからの展開となる。「おひるごはんといっしょに、おひるごはんをたべる」という、おおかみのきわどいジョークをも受けいれられるのだというところから出発するのは、いささか「ずるく」はないだろうか? ガブ(この時点では、まだ名前がない)の「なによりもゆうじょうをたいせつにする」という言葉にも、その裏づけとなる、プロセスがないのだ。「おひるごはん」と再会の約束をしたおおかみがその場に立ったとき、何を感じて、何を考えたのか? そしてその葛藤をとりあえず、どう乗りこえたのだろうか? 説得力を持ってそこを語るためには、『あらしのよるに』における小屋での二人の関係が、さまざまな点での類似性だけでなく、もっと本質的なものでなくてはいけなかったのではないだろうか?

ライトなシチュエーションのなかに、かなりシビアな関係を持った物語が展開されること。つまり、シチュエーションが要求するライトな会話で、シビアな関係を(読者に)読ませることに違和感を持った。こういった設定も「あり」だとは思うが、私にとって、この作品は「不合格」である。

しかし、最初にこの物語を読んだときには、おもしろがり、楽しんだことも事実である。

おかめ・ひょっとこの踊り?

バレエの発表会が終わった。いろいろぐちゃぐちゃ悩んでいたわりには、あっけなく終わった。しかし、踊りそのものは、とても楽しく踊ることができた。緊張しているNさんに「一発かましてやるからね」(何と下品な!)と、出の直前に「おならぶりぶり」と声をかけて、笑わそうとたくらんだのである(私ってちょっとおバカ?)。しかし、当のNさんは、やはり緊張のせいで、私の「かまし」は聞いてもらえなかった。ところが、思わぬ効果が、、、。私がうれしくなって、踊ることをとても楽しめたのだ。踊りに没入し、「いっちゃって」しまい、振りを間違えてしまうというおまけつきだった。しかし、うろたえることもなく、自然に流れたのは、自分でもびっくり。この調子で、クリスマス会も乗りきろう。

さて、気分を切り替えて、いままでためていた仕事に精を出さなくちゃ。

ミニ・コンサート

5限の「基礎ゼミ」唯一の男性であるH君は、ときどきギターを持って教室に現れる。今日は、先週のやり残しをおえると、何となく「H君にギターを弾いてもらおう」という雰囲気になってしまった。H君は、快く引きうけ、ギターを弾いてくれた。オリジナルの「ハッピー・バースディ・ソング」がとても素敵だった。歌が心にしみて、みんなの気持ちが清められた感じ。私も、心がふわり、きゅんとなった。

その後、授業にもどることができずに、ギターのバックグラウンド・ミュージックで、ブルガリアの昔話「金の娘」を読んだ。灯りも消した教室の中は、いつもとはまったくちがう別空間になり、みんなでお話しを楽しんだ。遊びでやった谷川俊太郎の「かっぱ」とギターのコラボもおもしろかった。

H君の(来春制作予定の)CDには、みなの予約が殺到した。こんなこともたまにあっていいな、と思わせる授業(?)だった。

絵本『Wolves』

あすかさんのブログで紹介されていた Wolves がアマゾンより届いた。何とも不思議で、斬新な絵本。絵本の中にさらに同じ絵本が出現し(著者名だけがちょっと違う)、物語が展開されてゆく。

Masrer G Rabbit 氏が図書館から借りだした本はWolves であった。その時点で、読者である私たちは、ラビット氏が借り出した「絵本の中の絵本」に入ってゆくことになる。「おおかみ」についての絵本に熱中しているラビット氏は、そうとは知らず、おおかみの太い足元を通り、尻尾をのぼり、気がついたときには、、、。ラビット氏が読んでいた Wolves の赤い表紙は、おおかみの鋭いかぎ爪のようなものでひっかいた跡がある。ということは、、、。

そしてつぎのページには、いままでの物語を覆すような作者からのメッセージと、もう一つの結末が提示される。ここには明快なメタ・フィクション性がうかがえる。

しかし、最後の最後で、読者はまた混乱させられることになる。ラビット氏の家には、図書館より「図書返却のお願いと遅延金のお知らせ」が届いているのである(封筒と手紙は本物が使われている)。ラビット氏はどうしたのか? 絵本は? 私たちに結末を迫る「オープン・エンド」の結末をむかえる。

細かな部分も工夫が施され(たとえば、図書館からの手紙にある図書館長のサインは、まるでウサギのよう)、絵本のメディアを十分に意識して作られた、おしゃれで斬新な絵本。

さっそく授業で紹介したが、学生にもとても好評だった。 

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