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子どもと出会うこと

先日、歯医者の帰りに、公園で遊んでいる小さな人たちと出会った。2,3歳ぐらいの子どもたちだ。みんな同じオレンジ色の帽子をかぶっていたから近くの保育園の子どもたちのお散歩だとわかる。付き添いの保育者が2人。思わず「なにしてるの?」と問いかけると、子どもたちは、わらわら近くに寄ってきて、葉っぱを見せてくれたり、いろいろお話をしようとする。ひとなつこい。中には、私の持っている(授業の資料などが入ってた)袋に興味を見せ、のぞき込んだりする子もいた。

小さい人たちにとっては、日常がルーティンであるはずもなく、いつもいつも新しいものとの出会いに満ちているはずだ。朝起きることだって、歯をみがくことだって、昨日とはちがう。じつは、私たちだってそのはずなんだけれど、子どもたちは、昨日と違う今日を生きている。

ところが、子どもたちに付き添っている保育者が明らかにしらけていたのである。小さい人たちがいきいきして動いているのとは対照的に、保育者の女性たちは「かったるそうに」していた。私の挨拶にもきちんと応えないし、子どもへの対応もおざなりだった。彼女らにとっては「保育の仕事」は日常なんだろうが(ほんとはそうでもないと思うが)、これでは子どもたちが気の毒だ。小さい人たちが好きで選んだ仕事だろうに、彼女たちの目には光り輝くものは見えなかった。

つぎに出会うときには、違う姿を見せて欲しいと、強く思いながらその場を去って、仕事に向かった。
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『ライオンと魔女』

木曜7限は、『ライオンと魔女』の読書会だった。今回は、学生から3名のレポーターを指名していたので、ます、その報告から始まった。レジュメもきちんと作ってあり、刺激的な問題提起(「つまらなかった」論を展開)で、自発的に発言するものが続いた。そうだよ、これだよと、私はうれしさでワクワクしていた。

「おもしろかった」「おもしろくなかった」と好悪がはっきり分かれた作品であったことが、議論を活発にさせたのだろうか? ただ感想を述べあうのではなく、翻訳に触れたり、ルイスの物語作りに対する批判も出たり、学生たちが、かなり深いところまで議論できるようになっていることに気づく。うれし。もう少し時間がほしかった。

その他の仕事は、なかなか進まず。日本の昔話や説話の英訳版を読みあさっている。村田喜代子の『人が見たら蛙に化れ』『尻尾のある星座』を読んだ。久しぶりの楽しみのための読書。『人が・・・』は、骨董をめぐる話で、なかなか読ませる。『尻尾・・・』も秀逸。ともに朝日新聞社刊。

 

バレエ・リハーサル

バレエ発表会に向けて、東横線沿線の小学校の体育館を借りたリハーサルに出かけた。本番と同じように音楽を流しっぱなしで、出て、踊り、はける。ストレッチもできず、あたふたと衣装に着替え(前回よりきつい。ここにきて太ったか!)、そそくさと踊り、先生の「ダメだし」をもらって帰る。

何人かの発表会メンバーが持つ意識(踊りを覚える前に「打ち上げ」の話をする、「のり」で発表会に出るという姿勢、「私は覚えが悪いし、体力ないから上手に踊れない」という言い訳)に不愉快な思いを抱いていた私だが、私たちの踊りは「とてもへたくそ」で、私もそのへたくその一員であるということがよくわかった。「上手」にはランクがあるが、下手にはランクもなにもなく、ただ「へた」であるということだ。悔しいが、これが真実だ。メンバーに対して憤っている場合ではない。

あとは、ゲネプロ、本番をむかえるだけとなった。もう一回合同練習があるが、「スペース感覚」をつかむためには、当日会場で、ということになるだろう。

今日もまた「打ち上げ」の話が出た。とても不愉快。バレエは趣味だが、私は「テレプシコーラ」に我が身を捧げるつもりで踊るぞ。

ところで、山岸涼子の『テレプシコーラ』。待ちに待った第8巻が出た。この巻は、これからの伏線があるのだろうが、少し盛り上がりに欠け、ちょっとがっかり。篠原姉妹のゆくすえをじっくり見守りたい。  

「白雪姫」絵本

先々週の「シンデレラ」に続いて、ピーター・カーター再話による「白雪姫」を読んだ。その後、さまざまな白雪姫絵本を紹介。ナンシー・エコーム・バーカート、アンジェラ・バレット、水野恵理、山本容子の特徴を説明した。バーカート、バレットのものに好みが集中。参考までにと持っていった、世界名作ファンタジーシリーズ『しらゆきひめ』(ポプラ社)にはさすがに失笑がもれた。しかし、小さいころ持っていたという学生もいた。なんといっても、350円なのである。このシリーズは、とんでもなく犯罪的だ。子どもの文化に関わるものの良識を疑う。

今まで、グリムをベースとしながらも、若干の書きかえのある昔話を、とくにテクストを紹介するのは、気がひけていたのだが、櫻井美紀さんの語りの講座に出るようになって、少しスタンスが変わった。グリムだって書きかえているわけだし、昔話の様式的な基本を押さえ、その精神を尊重している再話も「あり」かなとも考えている。カーターの再話もその一つだと思う。あとがきには、「[昔話は]おりおりにその姿を変えてゆく雲のようなものでありながら、つねにその本質的姿は失っていないのである」というラスキンの言葉を引用しながら、自分の再話観を述べている。ディズニーなどと較べれば、天と地ほどにも違うし、良心的な姿勢である。

昔話の絵本化には、さまざまな問題点がある。しかし、すぐれた絵本がたくさん出版されなければ、文化的にも熟さず、「パロディ」も生まれにくいだろうという気はする。

ときどきコメントをよせてくださるあすかさんのブログ(「asuka's booktree絵本手帖」)には、ねこ(水野恵理版パロル舎刊)の白雪姫ならぬ、ネズミの白雪姫の絵本が紹介されていた。



ピアノ・コンチェルト1番(ショパン)

日フィルの定期演奏会へ。今回の目玉は、なんといっても「ショパンのピアノコンチェルト」だ。ずいぶん前から楽しみにしていたのだが、がっかり。そつなく弾いたが、心に響いてこなかった。せつなく甘い第二楽章も、私にはもの足りず、最後は力尽きて失速、という感じの演奏だった(伊藤恵)。

拍手もせず、ぶりぶり文句を言っていたら、夫にたしなめられた。確かに、拍手で讃えるべきだと思わないこともないが、聴衆のみなさんが、拍手をすればするほど、しらける私であった。ガキでごめんなさい。

私は、なぜか日フィルのシンバル奏者がすごく気になる。こういう気持ちが「すき」ということだと夫はいうが、彼が待機しはじめるあたりから、ワクワクしてじっとみつめるのである。足で微妙にタイミングを計り、シンバルを鳴らす姿からどうしても目を離せない。今回は、リスト「交響詩マゼッパ」とアンコール「スラブ舞曲」で彼の姿を堪能した。

アフター・コンサートも楽しんで(ワインと鉄板焼き)帰宅した。口直しに、マルタ・アルゲリッチを聴いている。

効果・・・?

先週の木曜日は、4時限目終了後より用事で出かけていた。この日は、夕食をとらないこともある。「まずいな」と感じたときには、常備の小さなチョコレートを口にするだけだ。ところが、10月第3週からG大学の授業が始まったので、移動の関係で昼食がおろそかになっていた(ほとんどの場合、おにぎり二個ですましてしまう)。そのため、その日はとてもお腹がすいてしまって、チョコレートも食べる気にならなかった。ぎりぎりの時間にコンビニに走って、おにぎりを買ってきた。お茶も飲まずに詰めこんで、急いで教室に走ったが、それでも、5分ほど遅刻してしまった。

教室に入ったとたん、学生から「先生が遅いので、休講かと思った」といわれてしまった。「ごめん。お腹が減って我慢できなかったので、おにぎり食べてたらおそくなったの」とあやまる。歯にのりが着いていることも指摘される。はずかし。

これも、いつも始業ベル前後に教室にいる姿を見せているから、彼らも「遅刻しないように、行かなきゃ」と感じていることからの、発言なのだと思う。基本的に「遅刻者は入室不可」というスタンスで授業している私が、遅刻してしまうのは、恥ずべきことだ。しかし、教師の側の姿勢が学生に影響を与えてるのだ、ということを実感できるエピソードであった。

柿ジャム

ここ数年、毎年この時期になると、山形の小学校から箱いっぱいの柿が届く。小学校6年生たちが、もいで、焼酎につけたものを送っていただくのである。たいへんありがたいのだが、食べきれないので、来る人来る人にお裾分けをしている。しかし、中には黒くなったり、完熟してしまったのも出てきた。せっかくのものを無駄にしたくないので、昨日は、柔らかいものを選んで、柿ジャムに挑戦した。

ジャムづくりは、毎年9月の末、軽井沢から帰ってきたころ「ルバーブ」(私は「西洋蕗」と呼んでいます)を作るのが恒例であった。しかし、ここ3年ほど出かけていない(夫があまりに忙しかったからだ)。この「ルバーブジャム」も大鍋一杯つくって、みなさんにさし上げたものだった。都内でも「ルバーブ」は時期になると、紀伊國屋などで見かけたが、なんといっても「高い」のである。だから、「ルバーブ」は最近お休み。残念。

さて、このたびの柿ジャムづくりは、ルバーブよりずいぶん小規模になったが、「ミンサー」がまたも活躍してくれた。柿は繊維質が多い(ルバーブも多い。ルバーブは漢方では「大黄」と呼ばれ、便秘薬に調合される)ので、繊維を断ち切り、ほぼペースト状にした。砂糖も控えめで、すこし「カミュ」をたらした。煮詰めていったら、かなり量が減って、それでも瓶に二つ分あった。

そのうちの一つは、K先生にさし上げる予定。来週、夫は、K先生とお会いすることになっているので、、、。山形の柿が、こちらでジャムになって、いったんお里帰りし、また、こっちにもどってくる、ということになる。K先生、待っててください。「すんごくおいしい」というものではないと思うけれど、柿ジャムの素朴な味を楽しんでください。

まだ残っている柿は、今日、夫が出かける講演先に持ってゆくといっている。そこで夫は、山形のC小学校の図書館活用教育についてお話しをするのである。その小学校の「柿」は、お話を聞いてくださったみなさんには、きっと違う味がすると思う。

「ストーリーテリング」入門講座(3)

早いもので、「ストーリーテリング入門講座」も3回目である(全5回)。今回は、自分が探してきた「長い名前」をまず披露することから始まった。調子よく、よどみなく読むことを注意される。私は、おもしろがって『日本昔話集成』の中から、一番長いものを選んだのだが、テキストを頼りに披露するのならまだしも、「覚えてみましょう」コーナーでは、あえなくどぼん。

「長い名前」の話が、なぜこんなにもたくさん(類話は200話ほど)、長い間語り伝えられてきたのかを考えるようにと、先生から促される。伝えてきたものたちの心性に思いをはせてみることから、この話の命の秘密が見つかるのかもしれない。

まず、お話しがおもしろいこと。長い名前が効果的に使われていること。この話を語った人たちは、きっと長い名前を覚えて「どうだ」という自慢げな気持ちがあっただろう。何よりも、語る人が楽しまなくては、、、。そして、語っている人が、途中で忘れてしまったらどうしただろうか? そこで「即興」で何かを加えるなどして、しのいだのではないかと推測できる。「長い名前」もそうして変わっていったのだが、「お話し」も人から人へと伝わってゆくうちに、少しづつ変わっていったのだろうということが理解できる。昔話には唯一無二のテクストが存在しないといわれるゆえんである。

そして、私たち自身でオリジナルの「長い名前」を考えて、その名前を3回入れた即興のお話しを語ることで、講座は終了した。私の作った「長い名前」は音のおもしろさを並べたてたもの(か行ぱ行の多用)で、調子がよいのだが、ナンセンス系なので、自分で作っても覚えきれなかったのが残念。しかし、きちんと意味を入れこんだ名前を作った人のお話は、話が進むうちに調子が出てきて、素敵なものができていた。

最後は、櫻井先生のところで「語り」を勉強した人の「あとかくしの雪」を関西弁で聞いた。聞きやすい響きのある低音がとてもすばらしかった。あがって、緊張していたのか、「まばたき」が多いのがちょっと気になった。彼女のオリジナル「長い名前」のお話も、関西弁を上手に使ったものでおもしろかった。

 

シンデレラ

基礎演習Ⅰ(英文学科一年生)の後期は、昔話やファンタジー作品の有名どころを選んで、さわりの章を原典で読んでいる。

昨日は、グリムの「シンデレラ」をピーター・カーターの再話で読んだ。学生が知っているのは、ディズニーかペロー版なので、グリム版の、姉さんたちがつま先や踵を切ったりする場面には、びっくりしていたようだ。その後、日本のシンデレラとして「紅皿かけ皿」「お月お星」を紹介。「お月お星」は、鈴木サツさんの語りを小澤俊夫先生が、標準語に再話したものを読んだ。サツさんの語りをCDで聞いて馴染んでいる私には、この再話にはびっくりしてしまった。とくに「声に出して」読んだときに、原話との違いがきわだった。六部になった父親が、二人の娘を捜しに旅に出て、鐘をたたきながら歌う歌の調子があまりにも変わってしまっているのである。

「シンデレラ」の絵本も紹介。Cinderella Skeletonとアール・デコのシンデレラ絵本に学生が大きく反応。この二册は私もとくに気に入っている。Cinderella Skeletonは、映画「コープス・ブライド」に似ているとの声があがる。

バレエ・クリスマス会にむけて

クリスマス会のお稽古で、たくさんの人たちが顔を合わせる。上級者の踊りは、さすがにテンポよく美しい。あこがれのまなざしで見入る私たち。

「もともと下手なのに、(みんなの)目線が合わなきゃ、もっと下手に見える」との檄に落ちこんでいる私。私たちのグループの顔が怖い、とも。そりゃ、「間違えないように踊る」だけで精一杯で、顔も怖くなるって! ははは。

私も授業でこの程度のことは言ってるよなぁ。先生の気持ちがわかるだけに、情けなさでいっぱいになる。時間を見つけて練習あるのみ。バレエが好きでやっている稽古なのだから、その気持ちを「踊り」に反映させたい。のびのび踊りたい。


映画「蝉しぐれ」

月曜日、仕事終了後、渋谷経由で品川まで出て、「品川プリンスシネマ」で「蝉しぐれ」をHさんと鑑賞。

映画として評価すれば、それほどひどい出来でもないだろうが、藤沢作品『蝉しぐれ』を読んでいる私には、どうしても作品と比較しながらの鑑賞になるから、きびしい評価になってしまう。

まず、長編小説を2時間程度の映画に仕上げてしまうことで、作品が表層的になってしまった。こぼれ落ちてしまうものが、あまりにも多いのである。小説では、不遇の時代の文四郎が、剣にうちこむことで、自己を鍛え、成長の糧としている姿が印象的であったが、そのあたりの描写がほとんどなかった。

また、少年時代の文四郎やふくと青年期以降の彼らのイメジのギャップが最後まで残ったのも残念であった。染五郎や木村佳乃の凛とした気品が、少年時代を演じた役者からは感じられなかった(染五郎の所作はさすがに美しかった)。ふかわりょうの逸平、今田耕司の与乃助にもびっくりした。与乃助は、てっきりふかわだと思いこんでいたからだ。文四郎の少年時代は、柳楽くんのような鋭い孤独感をたたえた子がよかったなぁ。

四季折々の美しい映像を、との意気込みは感じられたが、そのヴォリュームの多さが、作品を感傷的にしてしまっていたようだ。確かに映像はきれいだったが。

上映中、やけに思い入れている観客がすぐ後ろにいて、拍手をしたり、大きくうなずいたりしていた。「どこのおっさんだ!」と思いながら観ていたのだが、明るくなってみると、ヤツは20代の若者であることが判明。しかも彼は、最後の場面では10数分にわたって、感動のあまり、今にも号泣しそうな雰囲気で泣いていたんである。ちょっとしらけた私たちであった。

映画としては「たそがれ清兵衛」の方が出来がよかったと思う(岸恵子の登場とあのキンキン声でのナレーションがいただけなかったが)。こちらのベースは短編小説なのである。したがって、映画としてふくらんだといえるだろう。なんといっても印象的だったのは、清兵衛が暗殺した男の死にゆくさまが、まるで「舞踊」を観ているように美しかったことだ。

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