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Kim

現代イギリスの児童文学作家の伝記や自伝を読むと、子どものころ読んだ作家、影響を受けた作家として必ず出てくる人がいる。ラドヤード・キプリングである。しかし、この人の英語は、なかなか読みにくく、背景も複雑で、なんとかしなくてはいけないと思いつつ、手が出せないでいた。幸い、イギリス小説を専門としているHさんの助けを得て、Kim を読もうということになった。

昨日は、時代背景や地理関係などを確認しながら、ようやく、3ページ弱進むことができたのだが、彼女の助けがなかったら、早々に放棄していたかもしれないほどの読みにくさであった。孤児のキムが、こづかい稼ぎに「使い走り」している場面などは、お手上げだった。ありがとうHさん。ぼちぼち、息の長い勉強ができたらいいなあ、と思っている。

<メニュー>
●サーモン・シュリンプサラダ
●里芋といかの煮物
●つみれ鍋(自家製みそ味、つみれも生姜をたっぷり入れた自家製)
●ハーフ&ハーフ、黒糖焼酎
●紅茶(ノエル・ブラン)、Sさん持参のケーキ
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「長い名前の子ども」続き

外国には「長い名前の子ども」の昔話はないのだろうかと、googleで検索してみた。すると、アッシュリマン博士のサイトに中国の昔話が再話されていた。タイトルは「チキチキテンボ」。

むかし、中国に二人の兄弟がいた。一人はサムといい、もう一人は「チキチキテンボのサリンボー ハリカリブシュキー ペリペムドー ハイカイポムポム ミッキのミーノドムバラコ」といった。

ある時、二人が庭の井戸で遊んでいると、サムが井戸に落ちてしまう。チキチキテンボは急いで、「たいへんだ、サムが井戸に落ちた!」と母さんに知らせに行き、母さんはサムと一緒に、「たいへんだ、サムが井戸に落ちた!」父さんに知らせに行き、父さんは、母さんとサムと一緒に、「たいへんだ、サムが井戸に落ちた!」と庭師に知らせに行った。庭師は急いで、はしごを持ってきて、井戸に落ちたサムを救いだした。

ある時、また、二人が井戸のそばで遊んでいると、今度はチキチキテンボが井戸に落ちてしまう。サムは急いで、「たいへんだ、チキチキテンボのサリンボー ハリカリブシュキー ペリペムドー ハイカイポムポム ミッキのミーノドムバラコ」と母さんに知らせに行き、母さんはサムと一緒に、「たいへんだ、チキチキテンボのサリンボー・・・(中略)」と父さんに知らせに行き、父さんは、母さんとサムと一緒に、「たいへんだ・・・(中略)」と知らせに行った。庭師は、急いではしごを持ってきて「チキチキテンボ」を救おうとするが、あんまり時間がかかったので、「チキチキテンボ」は溺れてしまった。それからというもの、中国では、子どもの名前は短いものをつけるようになった、というお話し。

ヨーロッパには「ヘンな名前」のお話し(「ルンペルシュテルツヒェン」「トム・ティット・トット」)はあるが、長い名前の話はないのだろうか?

ところで、この話は、アールネ/トンプソンの分類では、「メンドリの死んだ話」型に属するそうだ(2021A)。それは、イングランドのものでは「チイチイネズミとチュウチュウネズミ」にあたる。しかし、この二つは「名前」は関わってこないのである。

「長い名前の子ども」

「ストーリーテリング入門講座」では二つ宿題をいただいてしまった。一つは、関敬吾編の『日本の昔話』(岩波文庫)を読むこと。もう一つは、「寿限無」以外の「長い名前」を探して、自分のお気に入りを見つけること、だ。「寿限無」は落語にもあるし、最近では、NHKテレビの「にほんごであそぼ」で紹介されたから、小さな子どもたちでもよく知っているが、櫻井先生のお話によると、類話は200以上あるそうだ。これは、たいへんだ!

木曜日に仕事先の大学図書館で、レファレンス・サービスを受けて、『日本昔話集成 第3部笑話』(角川書店)で探したら、出てくる、出てくる。他にも『民話・昔話集作品名総覧』『民話・昔話集内容総覧』(ともに日外アソシエーツ)を紹介していただく。ほんとにたくさんあるし、名前にもいろいろバリエーションがある。「寿限無」は埼玉に伝わったものだということもわかった。

「一町ぎり二町ぎり町内長三郎 ごろごろ山の五郎平作 あっち山こっち山 とりのとつかさ立烏帽子とんからびよう」(新潟)「大入道小入道まっぴら入道平入道 へいとこへいとこへいがの子 へめたにかめた 一丁ぎりかちょうぎりか ちよちよらのちょうぎりか しきしきあんどのへいあんじ てんもくもくどの栄助」(富山)などなど、きりがない。

子どものしあわせを願って、長い名前をつけたのが裏目に出てしまう笑い話であるが、親の気持ちが忍ばれる。ところで、外国には「長い名前の子ども」の話はあるのだろうか? いままで聞いたことがないが、ちょっと調べてみよう。

「ストーリーテリング」入門講座

櫻井美紀さんの「ストーリーテリング入門講座」の第二回目「伝承の語りと近代のストーリーテリング」に出席。ヴィデオでアメリカ合衆国、イングランド、スコットランドの語り手たちの「語り」を鑑賞。それぞれの語り手には独特のスタイルがあることを興味深くみせていただいた。先生は「テキストを丸暗記する語り」を、戒められていらっしゃるが、それは、とてもよくわかる。

かつて、私が接していた日本の語り手のほとんどは、「テキストに頼る」語り手で、初めてアメリカの図書館で自由な語りを聴いたときにはびっくりしたものだ。講座では、先生のご指導を受けられた語り手のお話を聞いたが、お二人は、とても自然に語っていらした。また、先生の語る「フォックス氏」(ニック・ヘネシー氏と日本語・英語による競演?)は、すごく面白かった。ずっと昔、浜松の図書館員が語る「フォックス氏」を聴いたことがあるが、そのときには「何でこの話が面白いのだろう」と思ったのだったが・・・。これも「テキスト丸暗記」の弊害かもしれない。テキスト丸暗記型の語りは、優等生的で面白味に欠ける。

積んである本など

発表会に向けてバレエのレッスンにも気合いが入ってきた。昨日は、通常レッスン、ポワント、発表会の練習で3時間もお稽古場にいた! しかし、バレエがなければ、私は「ストレス」のかたまりになっているかもしれない。お稽古中は、身体の使い方に意識を集中させ、バレエのことしか考えないから、終わったあとは、ほんとうにすっきりする。

午前中はうだうだしていたが、「鼻面が長くて運転しにくい車」「タイヤが見えなくて車庫入れにてこずっている車」のディーラーさんが駐車場での「コツ」を伝授しにきてくれた。ほんとうにお世話になりました。Fさんありがとうございます。バックでの車庫入れは、比較的得意科目だったはずなのに。しかし、Fさんには、右から顔を出して、バックする癖を注意された。前を向いて、サイドミラーを確認しながらバックする方が、ずれないし、安全であると教わった。慣れることですね。わが家の車庫が一番入れにくい。

そんなわけで、読むべき本がベッドサイドや机や食卓まわりにだんだん増殖してゆく。

●『評論入門のための高校入試国語』(石原千秋/NHK出版)読書中。入試評論文、国語教科書にこめられたイデオロギーを分析したもの。鋭い。姉妹編も面白い。小学校国語、中学校国語に言及した『国語教科書の思想』(ちくま新書)も多く示唆に富む。

●『教科書が危ない-『心のノート』と公民・歴史』 『日本が「神の国」だった時代-国民学校の教科書を読む-』ともに岩波新書。著者は入江曜子さん。石原さんの著作に刺激され購入。ぼちぼち。『教科書が危ない』は「つくる会」の『新しい公民教科書』についても言及。そういえば、杉並区(もと住人)では、「つくる会」の教科書が採択されたのだ。

そのほかに、読むべき本、読みたい本は山とある。

一番いそがしい日

G大学での授業が始まったので、朝7時半すぎに出発。2限を終えて、港区の大学へ。そこで4限、7限と授業。午後9時半頃、大学を出発し、ほぼ45分で帰宅(スピードはそんなに出していませんから。道路がすいていたの)。本日の全走行距離約160㎞。お昼ご飯は、渋滞中の4号線の車中でおにぎり二個(ネギトロとたこ焼きおにぎり←わけわかんない)を詰めこんだ。朝ご飯が軽く、お腹がすいて、もたなかったからだ。

G大学のシラバスが何らかの事情でアップされていないことがわかった。「遅刻をしたため受講拒否」された学生(もちろんシラバスなんて読んでいない)が、事務局で確認してきたらしい。授業後、「シラバス」が公表されていないことを理由に、受講させろとかみついてきたが、受講の意志を持って、時間通りに教室にきていた人だけを認めるのが、私の方針であると話して、お帰りいただいた。

シラバスを読んでテキストを準備してくる学生は、遅れてくることなく、整然と教師を待っていてくれるのである(もちろん、私も少し前に教室に行きます)。「遅刻」が理由で去年受講できなかった学生が「今年は、がんばる」とリスポンスカードに書いてくれいた。うれし。また、私の講義のスタンス(遅刻者は入室させない、授業中の飲食は禁止、トイレは授業中には行かない、授業に関係のないおしゃべりはしない、←私はどこの学校の教師だろう?)は、おおむね受けいれてもらえたようだ。

第一回目ということで、『あなたがうまれたひ』(福音館書店)、『おじいちゃん』(ほるぷ出版)を読む。そして、「絵本はこの2册のあいだにあるすべてを語るのです」と大見得を切った。レスポンスカードを読むと、この絵本たちもほとんどの学生の心に何かを残し、授業への動機づけにもなったようだ。レスポンスカードからは、学生の授業への期待と意欲が伝わってきた。教師を育てるのは、学生のこのような姿なのである。

遠くて、めげたくもなるが、がんばろ。

7限の授業では、Winnie-the-Poohの抜粋を読んだ。ディズニーの「プー」を、私は「にせプー」とよぶが、学生にはようやく理解されたようだ。しかも、彼らは「プーさん」のキャラクターは知っていても、作品には触れたことがない。その後、Mary Poppinsへの導入のため「ちょっとだけ」といって、先日仕入れたばかりの「英国における階級」について話す。しかし、ついつい長くなってしまい、作品には、はいることができず、、。反省。来週は『影の王』(スーザン・クーパー)の読書会。

日フィル演奏会へ

シーズンがはじまり、日フィルの定期演奏会へMMホールにでかけた。児玉桃さんの弾くグリークの一番は、力強く、迫力があり、生で聴くことの醍醐味を堪能した。

シベリウスの一番は、北欧のきびしい風土を感じさせる演奏で、一楽章の出だしのクラリネットのソロには、こちらもちょっと緊張してしまった。弦楽器の刻むようなリズムで作られる音は、聴き手をどこかに誘いすような不思議な感覚を醸していた。またこの曲には、ティンパニの激しい乱打もあり、思わず前に乗りだして、見入ってしまった。

交響曲ではパーカッションの出番はきわめて少ない。シンバルやトライアングルなど、一曲に2、3回ということもある。しかし、「ここぞ」というところで登場するのだから、その緊張たるやすごいものあるのだろうと、いつも、感心して見ている。リズム感やテンポがきちんと測れていないと、パーカッショニストはつとまらないだろうな。

先日、佐渡裕さんが「スタジオパークからこんにちわ」に出演して、「ボレロ」のリズムを「パン」と「トマト」で説明し、表現していた。「ボレロ」が大好きなわたしは、さっそく「パン、トマト、パン、トマト、パン、パン・・・・」とやっているのだが、最後の「トマト」の連続三連符(?)のところでどうしても、テンポが狂ってしまう。あのリズムを狂わせることなく、最後まで「ボレロ」の小太鼓を打つ人はすごい、と思う。

ストーリーテリング講座

朝カル(横浜)で櫻井美紀さんの「ストーリーテリング入門講座」(全5回)を受講することにした。第一回目が、水曜日にあった。こじんまりした教室で、まず、それぞれが自己紹介。もと幼稚園の先生、ボランティア活動をなさっている方、朗読から出発して「語り」に興味を持った方、人前で話すことが苦手を克服しようと思っている方など、受講生の14人がそれぞれのバックグラウンドや、思いをこめて参加。

先生のお話は、「語り」がいかに文字文化とは別のところで生まれ、育まれてきたのかというお話しであった。古代の語りの独自性の考察が興味深かった。古代の語りは、人間ではない何かに向かって(ここにはない大いなる存在)、声を上げてきたということだ。

先生の語り「山梨とり」をきいたあとで、受講生全員が順番で「山梨とり」の「語り」を再現。そのときの先生のアドヴァイスは、「言葉を思い出すのではなく、情景を作って語る」というものであった。受講生の声、語り口がすでに多種多様で、ふしぎなおもしろさに満ちていた。お話しを聞いた人が、それぞれ自分のイメジで語るから、もちろん、ちぐはぐさはあったのだけれど、「語る」ということの本質的な体験をしたように思われた。

みそ開き

今年2月に仕込んだ「味噌開き」の予定で、Hさん来宅。いままでの経験では、冬(寒仕込み)に仕込んで、夏を過ぎたあたりには、なかなか優れものの味噌ができていた。しかし、今回の味噌はまだ少し発酵が甘く、味も練れていない。今年は、引っ越してきたばかりなので、材料は「生協」で揃えた。ここが微妙に違うのか、、、。東京に住んでいたころは、荻窪の「野道商店」のおじさんが勧めてくれる、丹波の大豆や北海道の味噌用大豆と冬季限定の「米麹」を使って、ほんとにおいしい味噌ができたのだけれど。もう少しねかせることにした。

<本日のメニュー>
●アボカドディップ、ガーリックラスク
●チーズ
●とろ・いか・たくわん
●もつ煮込み
●魚介類のマリネ
●深川飯味噌仕立て
●スパークリングワイン、大吟醸酒など

憂鬱な雨

また今日も雨だ。一日中降るらしい。でかける予定にしていた昨日は、雨にめげて「キャンセル」(いや、なに、買い物ですよ)。そういう私を夫は「張り子のトラ」と呼ぶ。

このところ週末はでかけることが多かったし、授業も始まって、ばたばたしているので、家にいるのも悪くない(出不精なんです)。

で、『蝉しぐれ』を読んでいた。すでに読んでいたはずなのに、冒頭部分の、ふくがヘビに噛まれるところしか覚えていなかった。文庫カヴァーに「名状しがたい哀惜をさそわずにおかない」とあるが、月並みだけれど、「哀惜」という言葉、この作品にふさわしいと思った。

不遇時代の文四郎が、一心に剣にうちこむことで、辛うじて自分を保っている「あやうさ」や、手が届かなくなってしまった幼なじみのふくへの逡巡や思いなど、抑制された筆致で書かれていて、しみじみ味わった。海坂藩の権力抗争、立ち回りや人斬りの場面など「生臭さ」を感じさせる作品になってしまう要素が盛りこまれているのに、そうならないところに藤沢作品の好もしさがあるのだろう。

ただいま、『三屋清左衛門残日録』を読書中。

おどろきのマダムたち

先日、仕事前に遠回りして、長年あこがれていた F-Avenue というハンバーガー屋さんにいった。1時ごろ着いたのだが、店はほぼ満席。テレビなどで紹介されることもあるらしい。

私が注文したのは、アボカドバーガー、オニオンリングス、ハーブティ。テーブルには、ナイフ・フォークがセットされている。ふーん、なんだかおしゃれね。お値段もよろしいし。どうやって食べるのかしらね(って、あんた、ハンバーガーは、がぶりと大きな口で食べるんでしょうが・・・)、まわりを見回す。一番近くにいたのは、もれ聞こえてくるお話しで察するところ、子持ちマダムだ(子どもの話と親の話をえんえん)。私より早く運ばれてきたハンバーガー、どうやって食すのか、ひそかに観察してみることにした。

彼女たちは、まず、ナイフ・フォークを手に取ると、おもむろに、ハンバーガーによりそうように置かれていたバンズの上の部分を、お皿の脇にどけた。そして、一口一口お召し上がりになったのだ。3人とも。「えっ」と思って、他の客の様子を見ようとしたのだが、運悪く、ハンバーガーを食している人の姿はない。

で、私もまねをして、まずハンバーガーを半分に切った。切りにくいし、オニオンやレタスがずるずる出てきてしまう。一口食べるも、おいしくない。そうそうにナイフ・フォークはあきらめて、バンズでふたをして、ぱくりといただいた。これが正解。

気になるのは、となりのマダムたち。残ったバンズはどうするのだろうと、なおも観察するや、彼女たちは、ハンバーガー本体を食べ終えると、残ったバンズも、ナイフ・フォークで優雅にお召し上がりになった。へぇー。なんだかおいしくなさそう、とあきれてしまった。

味は、あこがれが強く、期待しすぎただけに、残念ながら「そこそこ」だった。アボカドバーガー、950円(外税、ってことは1000円!)なり。

おどろき

K大学の「コミュニケーション」の授業が、昨日から始まった。月曜日は、「休日法」の関係で休みになることが多い。始まったと思ったら、来週は「おやすみ」。脱力する私である。

ところで、この授業、最終的には「英語で物語を語る」ことを目標にしている。春学期は、"The Three Billy-Coats Gruff" と"Leopard that Lost a Spot" を二人で語ることに挑戦した。発音、リズム、発声などにおいて長足の進歩が見られ、学生の努力も大いに評価すべきで、授業も楽しかった(少なくとも私は、ほとんどきりきりすることもなく、春学期は終了)。

秋学期には「日本の昔話」の英語版に挑戦しようと思って、授業に臨んだのであるが、彼らはほとんど昔話を知らない。「桃太郎」「金太郎」←昔話だっけ? 「一寸法師」あたりが話題にのぼっただけである。もちろん「白雪姫」だって、一回しか死なない、王子のキスで目覚める「ディズニー版」しか知らないのである。これには、びっくり、というか、がっくり。どこまで彼らのテンションを高めて、「語り」にまで持ってゆけるか、ゆくすえには、かすかに暗雲が立ちこめている。

昔話は、もともと口伝えの文芸であるから、文章には過剰な修飾や描写がないし、繰りかえし表現もあるから、外国語の学習には最適だと思われる。しかし「暗唱」から「語り」に持ってゆくのは、たいへんな努力がいる。語り手は、自分の中にできるイメジを英語で表現してゆくわけだから、物語を細部にまで理解してなかったり、うまくイメジを作れなかったりすると「暗唱」にしかならないのである。でも、やり遂げたときは、みな、いきいきした顔をしている。秋学期もがんばろうぜぃ、みんな。

『チョコレート工場の秘密』

『チョコレート工場の秘密』とCharlie and the Chocolate Factory 読了。すでに、原書は読んでいたのだが、翻訳を検討するために再読。ダールの英語はリズミカルで、声に出して読みたくなる文章だ。ウンパ・ルンパ人たちが歌う歌以外のところでも、言葉遊びが満載である。そして、何よりもダールの毒の効いたユーモアが楽しい作品だ。

柳瀬尚樹の翻訳が評判が悪い。アマゾンのカスタマー・レビューにも批判的な意見がよせられている。登場人物の名前に意味を加えたこととか、彼があとがきに書いた「前翻訳者への批判」に拒否反応を示している読者がいる。かなり刺激的な表現だったので、いったいどんなことが書いてあるのだろうと、ちょっと意識してあとがきも読んだ。

「あの訳書では、名前が面白くもなんともない。はたして訳者がわかっていたのかどうか、、、。」(あとがきより。p264)

ダールの「チョコレート色」のユーモアに触発されて、ちょっと口がすべった感じではあるが、名前の翻訳についての彼の姿勢や名前の翻訳は、至極まっとうである。拒否反応を起こしている人は、柳瀬氏の文体に「慣じみにくい」からではないだろうか。全体の翻訳も、(私ごときが批評するのもおこがましいが)調子がよくて、工夫が凝らされて、よくできている。作品の真髄をきちんと捉えた翻訳であると思う。さすが、『フィネガンズ・ウェイク』をお訳しなっただけのことはあると、私には思われた。ただし、一カ所 ? と感じたところがあって、惜しい。

田村隆一版『チョコレート工場の秘密』は図書館にいかないと、ないだろうな。これを読んでから、日本語訳についてはもう一度考えたい。

それよりも、なによりも、こうして古典的な子どもの文学が、次々映画化されることの方が、私には気になる。ダールの場合はどうかは知らないが(ダールが評論社から新装版で出版されたことと映画化の時期の問題)、映画化されると作品の裾野が広がり、読者ががぜん増える。これは、もちろん喜ばしいことである。しかし、その後、子どもたちと作品との出会いに変化が起こるのではないかと思う。活字からではなく「映像」から先に、作品を知る子どもたちが圧倒的になるだろうと予測される。いや、映画だけで「知ってるつもり」になってしまうかもしれない。「白雪姫」の白雪姫の蘇生について、本来のグリム版を知っている学生は、だいたい一割程度である(ここ数年、毎年学生にきいている)。「白雪姫」は「王子のキス」で目覚めると思っている学生がほとんどだ。

どんなにつたなくても、自前の想像力をつかって作品を楽しむことのよろこびが、奪われてしまうのではないかと、私は危惧している。来年3月には、<ナルニア国物語>が公開される。いまから期待がよせられているようだし、私自身も興味がある。しかし、どれほど良くできていようと、どれほど映像作品としてすぐれていようと、作品世界を構築することにおいては、映画は受動的だ。

デジカメ

1月にでかけた、アメリカ・カナダ学校図書館視察旅行の報告書に、写真を載せなくてはいけないことになった。報告書に写真を載せるというのは、お約束であったのだが、二つの担当項目のうち一つは、内容も考慮して写真なしでゆくはずだった。しかし、残念ながらそうはいかなかったのである。

そのため、ずっとほっておいた写真のパソコンへの取りこみ法を、先日教わった。忘れてはいけないので、重い腰を上げて、今朝からカメラとPCを接続し、写真をメールで送ることができた。ありがとう、Y さん。

視察旅行のために(すべて夫に丸投げして)買ったカメラで写した写真は、全部で25枚しかなかった。うち、旅行で映した分は23枚だった。ご一緒したみなさんは、あちらでパチリ、こちらでパチリだったなぁ。ヴィデオを廻している人もいたよなぁ。私は、ほんとに写真が嫌い。写すのも、写されるのも。

写真が必要だったもう一つの方は、最初から丸投げし、Fちゃんが撮った写真を頂いていたのである。ありがと。

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