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いまはやりの純愛小説だけど、、、

本を買い、本を読む。そして、その「作品」について考え、語る。ときには、文章に書く。これが私の仕事の大部分だ。したがって、自分の楽しみのための本は「うーーん」と考えて買う。でも、この人の新刊だけは無条件に買う、いや、作品が出るのを心待ちにしているという作家が何人かいる。帚木蓬生(ははきぎほうせい)がその一人である。『千日紅の恋人』(新潮社)を読んだ(新刊が出たのをチェックして買ってきてくれたのは夫。ありがと♥)。

タイトルから察せられるように、「純愛小説」だ。舞台は純愛などにはほど遠いと思わせる、築二十数年の古びたアパート(もちろん、現実には「純愛」はどこにだって存在するのだけれど)。アパート「扇荘」の家主(女性、38歳)とそこに引っ越してきたばかりのスーパー・マーケットに勤める青年(20代後半)。

質素に、つつましく、気ままに、そしてしたたかに暮らす店子たちに右往左往しながら、「扇荘」を管理している時子の新しい借家人としてやって来た「有馬さん」は、さわやかに、まっすぐに時子を魅了する。けれど、時子は、彼に心ひかれながらも、老いを迎えた母を含めた自分のこれからのことを考えると、彼との出会いは「シャクソク」(ともに歩むのではなく、すれちがいの出会いを象徴する、帚木が想像し、創造した動物?)であると、あきらめる。

美しい魂の出会いが、何のてらいもなく心に響いてきた。私は、さもしく品性に欠ける人間を嫌悪するが、帚木の作品に出てくる登場人物は、品格をそなえ、自分を律することができる美しい人が多い。「冬ソナ」(見たことないけど)よりずっとずっとよいと思うな。彼の純愛小説では『空夜』もおすすめ。

ところで「純愛」という言葉、最近使われすぎて手あかが付いてしまった。何かよい言葉はないかしら。
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おいしい夕食

8月は夫が「夏場所巡業」と称して、ほとんど家にいなかった。したがって家にいるときの食事は、「あれ? 何を作っていたんだろう」と思い出せないぐらいだ(年のせいかも)。たぶんいつものお総菜。そういえば、「おとといの夕ごはん」が思い出せないとやばいらしい。一昨日も一人だったなぁ。なに食べたっけ? ビールは飲んだんだけどなぁ。

今日も夫は二泊三日で出かけている。最近お客様をよんで、おもてなしすることがなく、それはそれで気楽だけれど、家でもおしゃれでおいしいものを食べたい。近くに住む、友人にして同僚のHさんをお誘いする。彼女は、今年はサヴァイティカルで、ゆっくり充電中。いいなあ、常勤は、、、。

夕方5時半ぐらいから、えんえん食べて飲んでしゃべって、彼女は10時半過ぎにバスに乗った。東京の家だったら、こんなにゆっくりすることもできなかったなぁと、しみじみ。BGMはリクエストに応じて、バッハの「無伴奏チェロ組曲」。私に選曲させると、最近はベートーベン「皇帝」、「三番」か、ラフマニノフのピアノコンチェルト二番。ベートーベンはナポレオンがらみだが、そこには何か深層心理があるのかも、、、。ラフマニノフが弾いたピアノコンチェルトもリクエストに応じて。こちらは「一番」。

<本日のメニュー>
●焼きなすのペースト、ガーリックトースト
●トマトのライスづめグラタン
●じゃがいものジェノベーゼ
●ドルマデス(挽肉をぶどうの葉でまくギリシア料理)
●ゼクト(ドイツ製スパークリングワイン)/黒糖焼酎ロック
●桃のアイスクリーム/マンゴープリン/紅茶

マンゴープリン以外はすべて手づくり。今回も例の980円のミンサーが大活躍。「なすのペースト」は、貧乏人のキャビアと称されるらしい。私はほんとにおいしいキャビアはいただいたことがない(「高い」から買えなかっただけのこと?)。でも、なすのペーストをガーリックトーストとともにいただきながら、「こんなもんかな」と思いをはせるのでありました。トマトカップに詰める、トマトの果肉とオリーブオイルが、ミンサーできれいに乳化し、感激。「ぶどうの葉」が日本では瓶詰めでしか手に入らず、葉脈が固くておいしくない(らしい)ので、青梗菜の青いところで代用。これも成功。

残った分は、飲まなかった白ワインとともに、本日ご帰還される夫の夕ごはんの一部になります。ははは。

岡田淳さんの作品<こそあどの森>シリーズの第一巻『ふしぎな木の実の料理法』、『二分間の冒険』を読了。イギリスのファンタジーに馴染んでいるものにとっては、さまざまな道具だてに「アーサー王伝説」「竜退治」などよく知られたエピソードが使われているのに気づく(『二分間の冒険』)。伝承のエピソードをおもしろくひねってあり、けっこう読ませる。が、私はヨーロッパの伝承と日本の小学校や小学生の組み合わせに違和を感じた。「ファンタジー」を書くということの意味や手法を考えさせられた。<クロノスの時間>と<カイロスの時間>のなかで異界が現れるのも興味深い。

栃木子どもの本サマースクール

8月20日、21日と栃木(宇都宮)に出かけてきた。夫が栃木子どもの本サマースクールの講師によばれたからだ。講師には長田弘さん(詩人)、木坂涼さん(詩人・翻訳家)、児童文学作家の岡田淳さん、木村裕一さん、イラストレーターの野村たかあきさんなどが招かれていた。嫌がる夫を説得してなんとか連れて行ってもらうことに成功。私は、長田さんと木坂さんに是非お目にかかりたかった。21回を数えるこのサマースクールの今年の統一テーマは「ことばと本の力」である。

20日の基調講演は長田弘さんによる「ことばからはじまる」。長田さんは、いま、声に出すことばに注目が集まっているが、「口にだす」ことで忘れ去られてしまうことがあるのではないかと、まず、私たちに問題を投げかけた。声に出すだけでは、ことばは成立しない。ことばを発する人がいるというのは、そのことばを受けとめる人、沈黙する人がいるということである。いま「ことば」の視野のなかから、受け手への認識がもれているのではないかとも語られた。

言葉には「沈黙」が必要であるとの長田さんの発言に、私はしきりに『影との戦い』(ル=グイン/岩波書店)にでてくるオギオンの言葉を思い出していた。弟子になりたての意気盛んなゲドにオギオンは「聞くためには沈黙してなくてはならぬ」と諭す。

また、無言を書きとり、沈黙を映しとるのが言葉であり、自分たちの前にあり、自分たちの後ろにある人の連なりを伝えるのが言葉である、というお話だった。詩人の言葉は難解でどこまで理解できたのか心もとないが、つねに自分の意識のなかにしまいこんでおきたい言葉たちとの出会いだった。

基調講演のあとは、そのまま長田さんの分科会に参加。分科会のテーマは「読書とは本に親しむこと」。これも「本」という文化をトータルに捉えることの大切さを、さまざまな事例をあげてお話くださった。最後に、参加者の質問に答えて、子どもの詩の選者としての経験談もとても興味深かった。『あいうえおだよ』には著者のサインをいただき(なんてミーハーな私)、この絵本で気になっていたこともお尋ねすることができた。

二日目は、木坂さんの分科会「ことばをみつめて」に参加。ウィリアム・スタイグについてはこのブログでも何回か触れているが、木坂さんはスタイグの作品をたくさん訳している。詩人として、絵本作家として、翻訳家としてのご自身のお仕事を紹介してくださりながら、子どもと子どもの本に真摯に関わる木坂さんの一面がうかがえ、貴重な時間をいただいた。

かつて、山形県のC小学校にもっていった3冊の絵本のうち2册は木坂さんの訳だったことに気づいてびっくりしたことがある。英語読みの悪い癖で、ちょっとひっかかると「原文はどうなっているんだろう」と気になって、オリジナルを確かめずにはいられない私だが、あらためて点検したら、日本語がまったく気にならなかった訳者が3人いたことを先日発見した。木坂涼さん、長田弘さん、谷川俊太郎さんだ(瀬田貞二さんは別格です)。このうちのお二人にまみえるだなんて、ほんとに私はしあわせな体験をしたことと、にこにこしている。

帰ってきて、一番にしたことは、気になった絵本や作品をさっそくアマゾンに注文したこと。会場でも、ずいぶんと本を仕入れてきたというのに、、、。

それにしても、実行委員のみなさんのエネルギー、心くばり、バイタリティに敬意を表し、心から感謝します。

しあわせな絵本

必要あって、マーク・シーモントの絵本を何冊か読んだ(ところで、この人の表記は、サイモント、シーモントなど複数ある。外国人の表記ははなかなか統一できないのが難点)。カーラ・カスキンのテクストにユーモアたっぷりで人間くさいイラストレーションをつけてしあわせな気分にしてくれたのは The Philharmonic Gets Dressed だ。タイトル通りに、交響楽団の団員たち105人が、衣装に着替えて、金曜日の夜のコンサートに会場に行き、コンサートが始まるまでを、まさに get dressed という視点から追った絵本。

まず、楽団員たちはシャワーを浴びる。バスタブにつかるものもいるが、ほとんどはシャワーだ。シャワーヘッドは固定式。私は、イギリスの古びたホテルや大学の寮のシャワーが固定式で、しかも、水量が少なく、シャワーを浴びるのにたいへん苦労したことを思い出してしまった。楽団員のみなさんは固定式にけっこう慣れていらっしゃるようで、気持ちよさそうに、出勤前のシャワー・タイムを過ごしているが、私にとっては、ケンブリッジ大学の学寮のシャワーとバスはトラウマだ。バスタブにつかっている人たちは、歌をうたったり、本を読んだりしている。

お次は、身体を乾かす場面。大きいタオルや、小さいタオルで身体を拭いたあとは、下着を身につける。白いトランクス。縞々のトランクス。白のブリーフなどみんないろいろだ。そうそうその前に、男の人は3人を除いて全員ひげを剃る。2人はトリミングだけ、もう1人は、顔中に髭を生やしているため、剃る必要なし。この男性は、黄色い縞模様のタオルを使い、パンツも黄色だ。黄色が好きなのかしらね。そして、男も女も靴下をはき、さらにウールのソックスをかさねる寒がりさんもいる。

さて、男の楽団員は、みな脇にストライプの入った黒いズボンをはく。楽団員の制服ですね。45人が立ったままズボンをはき、47人がすわってズボンをはく。ベッドの上に寝ころんで、足を上げてズボンをはく人はどっちなのかしら? 一人だけフリルの付いた白いシャツを着ている楽団員がいるけれど、だれなのかしら? 着替えが終わると、男性は蝶ネクタイを結ぶ。つけネクタイをする人、口笛を吹きながらすいすい上手に結べる人、うまく結べなくてふくれっ面の人もいる。フリルがついたシャツを着た男性は、カマーバンドをして、白い大きなタイを結ぶ。

女性楽団員のドレスコードはそれほどきびしくない。黒であればブラウスとスカートでも、ワンピースでもいいらしい。アクセサリーもOKですよ。でも、ブレスレットは演奏の邪魔だからNG。

したくが調うと、外の寒さに備えてコートを着たり、帽子をかぶったり、マフラーをまいて出かける。おっと、その前に留守番をする、お母さん、お父さん、旦那さんに、奥さん、そしてペットの動物たちへ「行ってきます」のあいさつは忘れずに。

女の子(お父さんが出かけるのかな?)とネコとイヌの恨めしそうな表情が何ともかわいらしい。

楽器を抱えた楽団員がぞくぞくと会場に到着し、コンサートが始まるところでこの絵本は終わる。何回も何回も絵を読み返し、1人でにこにこして、うれしい気持ち100%。

 

ヒルクレストの娘たち 2

ようやく<ヒルクレストの娘たち>シリーズを読み終えた。最終巻の『グウェンの旅だち』では、娘たちはすでに「娘」時代を通りこし、中年にさしかかっている。そして、結末近くでは、第二次大戦前夜が背景となり、グウェンの人生がヒトラーの台頭とともに大きく展開してゆくことが予想される。ヒルクレストの館を離れることのなかったグウェンが、「蘭」をきっかけに、かつて愛したアントニーの面影をもつ甥、トニーとの関係のなかで、自分の道を確実に一歩踏みだすことになったのである(ちなみに『グウェンの旅だち』の原書タイトルは、Beyond the Orchid House)。

『丘の家のセーラ』と『フランセスの青春』がそれぞれを補いあっていたように、『フランセスの青春』と『海を渡るジュリア』とが、絵の才能をもつ姉妹たちの葛藤という点で響きあっていて、さらに『グウェンの旅だち』で、グウェンの視点で、姉妹たちが包みこむように語られ、弦楽四重奏のような作品だ。家族のなかのできごとや、社会的な状況という大きな枠組みは、変わらないものの、それぞれの娘たちの性格、才能、人生が立体的にうかびあがってくる、読みごたえたっぷりな作品。脇明子さんの翻訳もすぐれている。ただし、私は、翻訳から情景をイメジすることがとても苦手で、これはいつも通りだった。

いわゆる少女小説がカヴァーするのは、一般的に、主人公の少女の結婚前までの時代だった。少女が幸せな結婚をし、ハッピー・エンディングをむかえると、物語も終わるのが通例だ。それは、結婚すれば女性は、「家庭のなかの天使」たることを要求されるからで、もうそこには、よろこびも、冒険もないとみなされていたのかもしれない。『若草物語』シリーズや<アンブックス>は例外的に、「その後」が書かれているが、作者には続編を書くつもりはなく、オールコットにしろモンゴメリにしろ読者の強い要望にこたえての結果である。

かつて私は、『そばかす』のエンジェルや『リンバロストの少女』のエルノラの「その後」をどれほど渇望したかをとてもよく覚えている(ともにジーン・ポーター。エンジェルのその後は、『リンバロストの少女』にほんの少しでてくるが)。

ヒルクレストの娘たち 1

ルース・エルウィン・ハリスの<ヒルクレストの娘たち>シリーズを読みはじめる。なかなか手が出なかった本。このシリーズは、第一大戦前後の10年間を、それぞれ4人の少女の視点で語った作品。

一作目の『丘の上のセーラ』は、4人姉妹の一番下のセーラの視点で語った10年間。物語がはじまるときには、セーラは7歳。すでに父を亡くしていたこの少女たちが、母の死に直面し、なんとか4人で「ヒルクレストの屋敷」を守っていこうとする場面からはじまる。続く二作目『フランセスの青春』は長女フランセス(17歳)の視点から語られているので、当時セーラには見えなかったこと、わからなかったことが補完される形で物語が進んでゆく。おもしろくて、やめられない。

同じできごとが、それぞれ違った視点で語られる手法も興味深い。とくにフランセスとガブリエルとの関係は、当然のことであるが、セーラの語りと当事者の語りでこちらが作りだしてゆく。さらに、ジュリア(『海を渡るジュリア』)、グゥエン(『グゥエンの旅立ち』)の語りでこちらの読みが修正されてゆくのであろう。先が楽しみ。

『海を渡るジュリア』が手に入らなかったので(アマゾンのユーストではなんと¥6800だった。その後覗いたら、¥3400に下がっていたが)、夫が図書館で借りだし、彼はすでに4册読了している。気に入った様子。

スタイグ賛

『歯いしゃのチュー先生』をきっかけにわたしのなかでは「スタイグ」がブームになっている。

●『ものいうほね』(評論社)
●『ねずみとくじら』(評論社)
●『きいろとピンク』(セーラー出版)
●『ばしゃでおつかいに』(評論社)

どれもれこれもステキにおもしろく、甲乙つけがたい。スタイグはお話の名手だなぁと、しみじみうれしく思う。ただし、評論社版はカタカナは使ってあるのに、漢字は全く使われていないので、とても読みにくい。一人で読む子どもにとっても、「町」「森」「口ぐせ」など漢字にした方が読みやすものがあるのではないかと思う。とくに簡単な名詞は漢字にしてもいいのでは。ふりがなを振ればよいのだし、、、。残念だ。

『ものいうほね』でパールちゃんを食べてしまおうという邪なヤツは、やはりキツネだった。キツネの家の中は、ほとんど家具もなく、がらんとしている。窓際の植木鉢に花が一本咲いているのが、ご愛敬だが、家の外は、雑然ととり散らかって、荒れはてた雰囲気だ。すさんで不幸せな者の家が、掃除がゆきとどききれいに整頓されいたためしがない。


K泉が強権で、衆議院を解散してしまった。郵政民営化反対ではなく、大方は郵政民営化法案の内容不備にNOといったのだと思う。なのに「郵政民営化」の是非を問う解散だと、問題をすり替えてしまっている。力を持つものが、暴走したときの怖さや責任をひしひしと感じる。しかも、彼は、自らをガリレオにたとえて、英雄気取りである。このような状況が物語ではなく、いま日本で現実に起こっていることがこわい。

親に異議申し立てをする

ロバート・ウエストール『海辺の王国』(徳間書店)再読。引きずられて、未読だった『かかし』(福武書店)を読む。これはアマゾンの「ユースト」で手に入れた本。2003年に徳間書店から再刊され、そのとき訳文にも手が入っていることが判明したので、徳間版も購入することに決定(翻訳に気になる箇所があったので)。(T_T)

「思春期」や「反抗期」という言葉で括ってしまうおとなの側の無責任さを、ウエストールは告発しているのではないかと感じた。もちろんサイモンは、母という他者を受けいれるために、母の再婚相手を認めてゆくのであろう、しかし、サイモンの父(もと夫)に対する母親の気持ちは、サイモンにとってはきつすぎ、彼の孤独感や痛みは読むものにとってつらい。

再婚相手が「気に入らない」ことではなく、たぶん、もっともっと深いところからの親に対する異議申し立てではないかと思う。ただ「おとなへの嫌悪」という抽象的なものではなく、「ずるさ」「卑怯さ」「さもしさ」に対する子どもの側からの直感的な嫌悪感を、サイモンは抱いてしまったのではなかったろうか。すべてにおいて絶対者で、保護者で、尊敬すべき一番近しい人の実像が崩れたときのつらさをサイモンは一身に背負っている。

『歯いしゃのチュー先生』

私は医者が嫌いだ。意識しているわけではないけれど、「白衣症候群」というお墨付きもいただいたし、「お医者さん嫌い光線」出しまくりなんだろうな、と思う。しかし、そうそうお医者さまを避けているわけにはいかず、去年の8月末にここに引っ越して以来、一番足繁く通っているのが歯医者である(よしっと、決心するまで4ヶ月ぐらいかかったけどね)。この歯医者さんは、とてもフレンドリーで安心してお任せしているのだが、やはり子どもにとっては、医者は医者らしい。

歯を抜くのが、こわくていたくて嫌で、決心がつかなくて数時間滞在された女の子がいたし、小さい子どもはたいてい泣いている。そんな子に読んであげたいと思ったのが『歯いしゃのチュー先生』(評論社)。

腕利きのチュー先生(ネズミ)の患者はネズミばかりではなく、自分よりずっと大きな動物が患者としてやって来る。そんな患者にチュー先生は、はしごにのぼったり、宙づりになったりして診察するのである。でも「先生はネズミですから、きけんなどうぶつのちりょうはしません。かんばんにも、ちゃんと書いてあります」。チュー先生の看板には「ネコやそのたきけんなどうぶつのちりょうはおことわり」と書かれている。もう、このあたりから私は、わくわくうれしくなってきた。そんなチュー先生のところにキツネがやってくる。どうするんだろう。医者としての使命感に燃えたチュー先生はなんとキツネを診察してあげることにする。「どーするの? だいじょうぶ」とは私の叫び。

なんたって、欧米では、キツネは悪いヤツの筆頭にあげられる存在である。ときにはオオカミよりもずるがしこく、こわい。ロージーを追っかけるキツネ。おだんごパンに歌をうたわせて、おだんごパンをくっちまうキツネ。何人もの女性を殺したフォックス氏。悪いキツネはぞくぞく出てくる。日本では、稲荷信仰のなごりなのか、キツネがずるがしこく、悪いヤツというイメジはないと思う。「ごんぎつね」はその筆頭か。そういえば「こぎつねこんこん」ってかわいらしい歌もあったなぁ。閑話休題。

ところが、このキツネときたら、ステキな金歯を入れてもらったくせに、こともあろうにチュー先生とおくさんを「しおつきのなま」で食べてしまおうと考える。さて、どうなるか、最後はどうぞ自分で確かめてください。腹に一物あるキツネの表情がとてもよい。でも、あなどるなかれ!

スタイグっていいなぁ。しみじみ幸せにひたってしまった絵本。

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