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中学生にお話

「朝読書」の時間に地域の中学校にお邪魔して、「お話」をしてきた。今年度は3回目である。昨年度は、3人体制で、時間を見つけて勉強しつつ「お話」にこだわってプログラムを組んだのだけれど、今年から大幅にメンバーが増え、そういうわけにもいかなくなってきた。「ええ?」という絵本をお読みになる方もいるが、それはそれ、コメントは差し控え、おとなしくしている。漏れ聞く限りでは、「選書」に不安があるようだ。そうだろうなと思っているが・・・。また、毎年秋と年度末に開催してきた(5回ほど)お話会も開催が危ぶまれている。行事が多く、予定に組み込まれないらしい。秋のお話会は、文化祭と連動してきたのだが、今年度は、文化祭そのものも規模が縮小されるようだ。担当の教師も代わったし、温度差も感じる。

お話は、ジョーン・エイケンの「三人の旅人」である。大御所 I先生の翻訳もあるが問題を感じないわけではないので、原文を検討して「わしこ訳」で対応している。例えば、「それからふたりはポットいっぱいのコーヒーをつくって、旅人の話を聞くためにすわりました」という表現がある。もちろん誤訳ではないが、「・・・のために~した」という表現が気にかかる。いかにも学校文法でいう「不定詞の副詞用法的訳」ではないか。時系列からいっても、「コーヒーをつくって、旅人の話を聞きました」としたい。

また、このお話はかつて小学校6年生の国語教科書に収録されていたことがある(光村図書)。古びることのないよいお話であると思うのだが、なぜいまも収録されていないのかを考えると、興味深い話題も提供してくれるのだ。じつは、このお話を日本的国語教育方法(つまり、文章を解体してしまって読む方法)で読むと、物語に説明できない破綻が生じるからだろう(と、私は推測している)。しかし、耳から聞くお話にして、その部分をさらっと語ると、おそらくは問題になはならないと思う。「昔話」だって、国語の教科書に掲載され、日本的国語教育法で分解されて、解釈されたら、訳のわからない非合理的な部分が気になるのは必至だ。

語り終えた後、教室は余韻を残して、一瞬シンと静まりかえった。子どもたちの心にお話が落ち着いた事がよくわかる瞬間であった。その後、思い出したように拍手をいただいた。朝から、幸せな気分をいただき感謝。ここの中学生はとても良く聞いてくれ、たいへん有り難い聞き手である。だからこそ選書は大切にすべきであると思うのだ。
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中学生のおはなし会

定期的にお邪魔している中学校のおはなし会がようやく終わった。観客は53人(正式発表)。担当の先生から、図書委員はほぼ全員出席するが、ほかの生徒は、委員会もあってそれほど多くはないといわれていたのだが、思いのほかたくさんのお客さまが来てくれた。生徒たちの反応もよかったという先生からのお知らせもあり、こちらとしては、ほっと一安心。

Kさんに対しては男子生徒から「かわいい!」との声も聞かれて(確かに!)、和やかな雰囲気だった。途中、笑い声も聞かれて、こちらも力が入った(しかし、何がおかしいのかわからない笑いもあったけど)。


★絵本『こっぷ』
★おはなし「月がくれた金貨」
★ペープサート「どうぶつ句会」
★絵本『パパがやいたアップルパイ』
★絵本『これなんてよむ?』(果物編)
★おはなし「漁師と魔神」
★詩「ぼくがここに」(まどみちお)

どうぶつ句会

どうぶつ句会


ちょっとゲリラ的に載せてみました。雪野袋先生はわかりやすいので隠しました。手前は、河うそ雄教授、後列右はアフリカ出身大耳はなさん、左は、鳩野ポッポさん。私は、雪野袋先生と河うそ雄を担当。うそ雄は大学で民俗学を教えている割にいばったところもなくいつもぼーっとしている。また、俳句歴は長いのに、あまり上手でないという設定。うそ雄教授には、「なんちゃって東北弁」をしゃべらせている。

中学校のお話会

毎年恒例の中学校でのお話し会の練習をしている。今年のメインは、『どうぶつ句会』をペープサートで演じることとなった。便宜上ペ-プサートと称しているが、手作りのぬいぐるみ人形である。こういう手仕事をさせたらプロ級の韓国のりこママがあっという間に作ってくれたのだ。写真を載せたいところだが、出版社の許可も得ていないので、公にするのはちょっと気がひけるのである。ほんと「読みきかせのための著作権」にはいろいろ厄介なことが多い。

昨日は、韓国のりこちゃんたっての希望で、われわれの練習を見ていただいた。言葉数は少なかったが、適切なうなずきや物語を楽しんでいる表情が、大きな力になった。私たちのグループを<お話★★★>と称することとしたが、彼女は名誉会員である。

小学3年男子VSわしこ

庄内町のA小学校では、1年生、2年生、3年生、6年生とお話を楽しんだり、読書や文学に関する授業をした。ここへは2年ぶり、3回目の訪問であった(昨年は私のスケジュールと運動会が被ってしまったのだ)。ということは、前回1年生だった子どもたちは、3年生になったわけだ。司書教諭の先生が、「1年生の時に絵本を読んでもらったんだよ」と話してもあまり反応がなかったのに、そういえばと、私が、その時には『うえきばちです』(川端誠/BL出版)を読んだことをはなすと、あちこちから「覚えてるー」というざわめきが聞こえてきた。確かにあの時は、子どもたちの反応もよく、ノリノリだった。「顔は忘れたけど、絵本は覚えてるー!」という子どもたちもいた。そうだよね。

というわけで、3年生には少し長いがこんなお話も楽しんで欲しいという思いで、「三人の旅人」、そして、ちょっと息抜きに『ありがたいこってす』、最後には、福島弁で「団十郎閻魔」を語った。このプログラムには、一貫性はないのが残念であり、今後の研究課題である(一貫性を追求するあまり、似たようなお話だけでもつまらないし、プログラムの構成は難しい)。先生は、まだ3年生だから「叙情的なお話は苦手」とおっしゃっていらしたが、シンと聴きいる子どもたちは美しかった。

挨拶をして、最後に子どもたちが退出をするとき、視線を交わした男の子に「どれが好き?」と聞いたら、「全部!」と笑ってこたえてくれた。そして、なんと彼は腕を上げたのである。そう、私は、小学校3年生の男の子と、「ハイ・ファイブ(日本語ではなぜかハイタッチという)」をしたのだ。それをきっかけに、周りにいた男の子数人とハイ・ファイブをして別れた。

今回の「お話旅」はこれが一番印象に残っているかな。フツーのおばさんが見知らぬ小学生と「ハイ・ファイブ」をするなど、大げさに言えば「奇跡に近い」出来事である。トムとバーソロミューおばさんの抱擁の如く…。それを可能にしたのが、「お話」であることに感動した。

図書館活用教育

例年通り、山形県鶴岡市のC小学校の研究授業を見学してきた。今回は3年生の国語で、『わすれられないおくりもの』単元を終えたあとに展開された、「読書マイスターになろう」という発展学習を見せて頂いた。4クラスがそれぞれ異なった段階での授業を見せてくださったので、授業の流れもよく解り、「教師が何を目指しているのか」が明確であった。

展開された授業は、4人からなる班のメンバーが同じ本を読み、物語の順序、登場人物、情景等についてのクイズを考えることで、その物語についての「マイスター」になるというものであった。最終的にはクラス全体で「クイズ大会」に臨むというのであるから、自分の班の割り当て作品を読むだけではなく、クイズに正解するためにほかの作品も読もうという、読書への動機づけにもなる。そのためには、相応の読書力がついていなければできない学習であるが、年間150冊以上の本を読んでいるC小学校の子どもたちであるから成立するのであろう。しかし、物語のテクストを解体してしまって、情報として散乱させないようにとの教師側の意識や取り組みは十分理解できたものの、実際には、子どもたちの戸惑いをすくい上げたり、読みを深めるサポートができていない点が目立った。公開授業というのは往々にしてこういうことになるのかとも思ったが、それでも、力量以上のことに手をつけてしまった、もしくは、準備不足だったと思わせられる点が散見された。

一クラス、6つまたは7つの班が、別々の作品を選んで取り組むわけであるから、教師側の準備は相当なものであると予測できる。しかし、C小学校には、司書教諭、学校司書が常駐していて、その図書館活用教育には定評があり、そこにこそ、この研究授業の眼目があるはずだと考えたのだが、今回はとくに、学校司書、司書教諭との協働連携はみられず、学校司書や司書教諭が関わったのは、選書段階だけであったと聞いた。「えっ? ここでこそ図書館活用教育の見せ場なのに」と私は、びっくりしてしまった。

「読書マイスターになるためのクイズ作り」などという、作品をどう読むかという点に関わる授業であるからこそ、司書教諭が積極的に関わらなければと思ったのであるが、いったいどうしたのだろうか? 教師集団も司書教諭の仕事を理解していないのか? 司書教諭が明日の方を向いてしまっているのか? 「読書マイスターになるためのクイズ作り」となれば、「アニマシオン」の方法論が役立つと思うのだけれど、教師たちが「アニマシオン」という言葉すら知らなかったのには驚きだった。

そういえば、昨年、ちょっとクセのありそうな大学図書館勤務の見学者が「個人情報」に関わる質問をしたのに、司書教諭がそのポイントを理解できていないことがあった。その時は、あまりに不快な問いかけであったので(学校図書館関係者は個人情報に関して無知だろうという侮蔑的な雰囲気ありありの男性)、私が受けて立ったが。

C小学校の図書館活用教育は、もう十年以上の経験を持っているはずなのに、ここ3年間ばかりは、大きな疑問を感じさせることがたびたびあった。図書館活用教育とは、資料や場所を提供するだけでなく、図書館に関わっている人(学校司書、司書教諭)が子どもたちと資料を結びつけ、授業に活かしてゆくための手立てを考え、実践してゆく教育ではなかったか。C小学校の現在と今後に不安を感じる。

社会復帰の準備

再来週出かける山形での小学校の授業準備に時間を費やしている。今年は、1年生、2年生、3年生、そして、6年生のクラスで授業をしたり、お話をすることになっている。お話や絵本やほぼ選び終わった。

「ヤギとライオン」の「雨のふる日にゃー うちにいて・・・」は、作曲をした。久しぶりにピアノ(電子ピアノだけど)の蓋が開いた。一オクターブの中で「発話旋律」を少しアレンジした曲になった。「昨日殺した一万匹のライオン・・・」はやはり、あのメロディに乗せることにした。

6年生は、ブックトークのクラスと「作品分析」のクラスとふたつのクラスで授業をする。「作品分析」は先生の依頼により、「白雪姫」ときまった。絵本の比較もできそうで、楽しみだ。

一昨日は、阪神戦を観戦に横浜スタジアムまで出かけ、来週末は、ゼミ合宿だ。少しずつ外に出る毎日。今日は、中学校にお話をとどけに行きます。

ブックトーク覚え書き

E=ラーニング大学で、「書評を書こう!」というワークショップをすることになった。対象作品は『トムは真夜中の庭で』もしくは『王のしるし』である。その準備もふくめ、「子どもに本を手渡すための実践的方法」をテーマとする授業で「ブックトーク」をすることにした。BTは久しぶりである。せめて1学期に1回程度は、自らの勉強のためにすべきであるのにと反省しつつ、ここに覚え書きを記しておくことにする。目新しい作品はないが、最近の子どもたちには古典にこそ触れて欲しいと思っている。なんとリアル大学の1年生は、『大草原の小さな家』も知らなくて『小公女』も知らなくて、どうしてよいのかさっぱり困っているのである。

<みちびかれて庭へ:庭で何が起こったの?>
★グリム「ラプンツェル」(語り)
★ポター『ピーターラビットのおはなし』
★バーネット『秘密の花園』
★ピアス『トムは真夜中の庭で』
★フライシュマン/ホークス『ウエズレーの国』(全部紹介)
★梨木香歩『西の魔女が死んだ』
★ベニシア『ベニシアのハーブ便り:京都・大原の古民家暮らし』

「庭」関連作品として
★湯本香樹実『夏の庭:The Friends』
★ヒル/バレット『庭の小道から』
★シズベルト『イスカンダルと伝説の庭園』
★キャロル『不思議の国のアリス』
★ミルン『クマのプーさん』『プー横町にたった家』

BTのあとで、児童文学も含めた文学における「庭のイメジ」についてのミニレクチャーをして授業を終えた。

子ども時代の読書

「子ども時代の読書」というテーマの授業のために、『橋をかける:子供時代の読書の思い出』(美智子皇后)、『本の虫ではないのだけれど』(清水眞砂子)、『児童文学最終講義』(猪熊葉子)などを引っぱり出してきて読み直した。とくに『青春の終わった日』(清水眞砂子)は、本格的にはじめから読み直している。

清水眞砂子さんは「本の虫ではなかった」といいながら、やはりたっぷりと物語の世界にひたっていたことを『青春の…』では告白している。引き揚げ者の厳しい生活や農業従事者の貧しい日常(米を作っているのに白米を食べられない生活)のなかで、年の離れた兄姉や従兄たちから、折に触れて本をプレゼントされて、読書に没頭している生活が見える。たしかに、今の状況からでは多くの人が想像できないような生活だったのだろうが(当時、ほとんどの日本人は貧しかったと思う)、その中でも、子どもたちはみな高等教育を受けているし、6歳年上のお兄さんは、浪人生活を送ってもいる。暮らしていた家も、古い大きな「屋敷」であったことが知れる(たぶん小作農家ではなかっただろう)。

家の手伝いをし、友だちやきょうだいたちと時を過ごし、けっして本ばかりを読んでいたのではないという意味で「本の虫ではないのだけれど」、その自伝的文章(たぶん自己点検的な意味あいも含まれているのだろう)の裏には、自分の出自や家族を誇り、自分の過ごしてきた人生を慈しんでいる様子が控えめながらきちんと書かれている。知的生活を送る兄や姉に輪郭を与えられ、そこで自己を育ててきた「私」がうかびあがってくる。

だからこそ、小谷野敦のように「教育実習でのエピソードに見られる優等生ぶり。その優等生ぶりを著者は嫌悪しつつ、結局今でも優等生なのだ、全共闘世代的な人なのだ、と思う。九人きょうだいの下から二番目に生まれて、兄や周囲の人々にいつも守られて、眞砂子一人まかり通る人生を送ってきたように見える」(アマゾンカストマーレビュー)という評価をする人間もいるのだと。今回の再読で、小谷野の気持ちが少しわかった。

終わった!

昨日でようやく今年度の最終授業がおわった。なんだか肩が軽くなった感じ。最終授業のテーマは「私たちにはなぜ物語が必要なのか?」というものである。物語とは何か? 物語は何を伝えるのか? 物語の意味とは? などという疑問を基底にして、その疑問に深くわけいるところから、我々の役割を考えたいと思ったからだ。もちろん、私にだって確たる答があるわけではなく、さまざまな人の意見に耳を傾け、著作を読みながら、いま考えていることをまとめた。受講生の思索のきっかけになってくれることを願って授業を終えた。

ひこ・田中さんは『ふしぎなふしぎな子どもの物語』で「物語が届けられるならどんなメディアでもかまわないと私は思います。他のメディア[テレビ、ゲーム、ビデオ、アニメなど]が非難されたために子どもが物語嫌いになることの方を私は怖れます」と仰っていたが、子どもは本質的に、いや人間は本質的に物語に支えられて生きているから、「物語嫌い」になることはないと思う。それよりも私が危惧しているのは、現代の子どもたちは物語を受けとめる訓練ができていないのではないかとの「怖れ」だ。あるいは「物語を受けとめる心や身体や頭が育っていない」状況である。

「物語とは」というテーマについては引きつづき考えていきたい。私はまた、「物語を手わたす側のおとなが物語の基本について学んでいない」という事実とそれに対する危機感をもっている。

昨日、母親と小学校高学年ぐらいの男の子が二人で山のような荷物をゴミ収集所に運んでいた。ちらりと目にした中身は、「★年生のドリル」というような参考書類の山であった。中学受験が終わったんでしょうね。こういう子どもたちは存分に物語を生きて暮らしているのだろうか。

<覚え書き:物語を考えるために使った絵本・お話>
『えをかく』/『ヤクーバとライオン①勇気』/「三人の旅人」

中学生への「読みきかせ」

昨年同様、今年も地域の中学校の文化発表会で「読みきかせ」をすることになった。発表会のテーマが「国際理解、環境、福祉」とのお知らせを受け、さまざまなテーマを展開しつつ統一感のあるプログラムにと、相方(韓国のりこママ)と考えたすえに、最終的にプログラムが決まったのは昨日で、また、3回目の練習(リハーサル)を行った。この練習を軸に、それぞれが自主的に練習を重ねるのであるが、この自主練を一人でぶつぶつやるとテンションが上がらないのが辛いところである。

というわけで、最近、私の「よだかの星」をきかせられるハメになった知人さまおよび学生さまには感謝している。ネット上にもさまざまな人の朗読がアップされているので聞かせていただいたが、「これは」と思うものもなく、やはり、長岡輝子さんの朗読(CD)がすばらしい(彼女の賢治の朗読はリサイタルでも何回か聴いたことがあるが、さすがに生の朗読はすばらしかった!)。長岡さんの「よだかの星」は、はりつめたお話のなかにも独特のユーモアが醸されているのが特徴的であるように思う。これは、彼女の語り口に通奏する微妙な北上のイントネーションの影響にもよると推測され、私などがにわかに真似などできないのである。

さてさて、本番はどうなるのか。後日プログラムとともに報告します。

ところで、このブログのアクセス数は1日平均15アクセスほどである。それが、先日1日だけ60アクセスに達したことがあった。その影響からか、最近のアクセス平均数が少々アップしている。不思議。



小学校1年生と

久しぶりの「読み聞かせ」に出かけた。けんかしている子たちや、泣いている子どもで教室は混乱状態。日頃おっとりしている先生もなんだか余裕がなさそう。少々時間を過ぎて、まずはあいさつから。

ところが、やはり教室の雰囲気の状況からか元気がないのだ。そこで、私は「あれれ、きょうは、元気がないのね。このクラスのみんなは本が大好きだから、4冊ももってきたのに…」とはじめると、先生がもう一度仕切り直してくださり、時間を少々過ぎてしまったが、すべて読んでかえってきた。

『ひともじえほん』はさすがである。「みえるよー!」「みえないよ-!」「できるー!」「できないー!」などなどさまざまな声が飛びかい、最初からみんなノリノリ状態。そのあと長谷川義史の絵本(2冊)では大きな笑い声がおこり、こちらもノリノリになる。誰かが「だじゃれだ!」という感想を漏らしたので、最後に「だじゃればかりでごめんね」というと、先生が「たのしかったらいいよね」とフォローして下さった。確かに長谷川義史の『串かつやよしこさん』は「だしゃれ」かも知れないが、『あるのかな』はことば遊びなんだけどねぇ…。

校門あたりに校長先生がいらしたので、ご挨拶をして、少々お話をさせていただく。学習指導要領がかわり先生方は忙しくて余裕がないとのことであった。しかし、やはり「読み聞かせ」は担任がするのが一番であると思う。

鶴岡へ

毎年恒例の鶴岡へ出かけてきた。C小では5年生の国語の授業を見学した。PISA型設問に対応した教材(多様な資料から説明文を読み解き、自分の意見をまとめる)を使っての授業であったが、教材研究に未熟さが残っていたのだろうか、教師が子どもたちの疑問をすくいあげることができないまま授業が進められてしまった場面があったのが残念であった。子どもたちの授業への関心や意欲がすばらしかっただけに、この点については心が残った。これは、教師だけの責任ではなく、教材の構成と課題の設定という教科書そのものにも大きな欠陥があるように思われた。教科書を編集した編集執筆者自身が教材を読みきれていなかったため、単元の方向性にブレが生じたためと推測できる。

私にとっては久しぶりの「授業研」で、校舎も新しくなり、校長先生も変わり、顔見知りの先生も転出され、教師集団の雰囲気もかつてとは違うものを感じた。校長はほぼ2年ごとに代わり、教師も例外はあるものの4年で転出となると、あっという間に「浦島太郎状態」になってしまう。このような状況の中で、「図書館活用教育」を定着させてゆくことは、予想以上に困難であろう。

もとC小の研究主任だったS先生が勤務されるA小学校では、1年生から4年生の子どもたちと絵本や物語をわかちあった。4年生の子どもたちには「なぜ大学の先生になったのか」というテーマで(総合学習への導入)、昔話絵本(『おおきなかぶ』)の比較をするというミニ授業をした。

わかちあいでは、今年は川端誠『うえきばちです』を使わず、織田道代「愉快な夜想曲」(絵本では『あるのかな』)や長谷川義史『いいからいいから』を用意していたのだが、思っていたよりも食いつきが悪かった。あとになってA小の3年生のほとんどの子が幼稚園の時によく読んでもらっていた絵本(『いいからいいから』)だったことがわかった(こういうのは辛い。3年生ともなるとシビアだ)。というわけで、1、2年生には、絵本はやめて、詩「愉快な夜想曲」を紹介した。1年生に「○○に××はあるのかな」と問いかけると、みんなで声を揃えて「なーい」と楽しそうに唱和するのが予想外で面白かった。この詩については、1年生と2年生の反応にも大きな違いがあって、興味深いことであった。1年生の方がのりがよかった。

1,2年生には、ペープサート「いちもくさん」と絵本『ひゃくにんのおとうさん』をメインにした。すべてのプログラムが終わったとたん、子どもたちが文字のペープサートに押しよせて、手に手にペープサートを持って両手で回し始めたのがかわいらしかった。ペープサートを動かしてくれたのは、ボランティアのお母さんと先生がたであった。ありがとうございました。

また、A小ではボランティアのお母さんや図書館コーディネーターの方たちとの懇談会で「言葉の獲得と物語体験」をテーマにお話をさせていただいた。ボランティアの研修やスキルアップに関してはどこでも困難を抱えているようだ。こちらの要求度が高いと敬遠され、定着しないのは悩みの種だ。「地域のおとなが学校に入り子ども支援に関わってくれるだけでありがたい」という意見もあるようだが、それでも、子どもに関わるボランティアに関しては、自覚的に問題意識を持って取り組んで欲しいし、あるレベルの技量や知識は不可欠であると思うのであるが…。

読書に関する本

5月、6月と脇明子さん(『読む力は生きる力』『物語が生きる力を育てる』の著者)が関わる読書に関する本がでた。『子どもの育ちを支える絵本』と『自分を育てる読書のために』(ともに岩波書店刊)である。期待が大きすぎたのか、読後、「”自分を育てる”ことへのさらなる深い考察が欲しい」という若干の不満が残った。しかし、中学校の学校司書が、思春期真っ盛りの子どもとどう結びあって、本を手渡すのかという点が具体的に丁寧に報告されているまれな著作であり、多くの学校図書館員の力になる本だろうと思う。

『自分を育てる読書のために』は、気鋭の学校司書の奮闘記ともいえる。著者の小幡章子さんは、思春期の子どもたちに「何よりも大切なのは本についての知識でもなければ、紹介のテクニックでもなく、子どもたちとのあいだに信頼関係を築くことなんだ」(p22)とおっしゃっているが、まさに、彼女は、一人一人の子どもに「ぴったりの本」を見つけるために苦労し、そこからよろこびを作りだしていることが窺えた。

小幡さんの取り組みで興味深いのは、子どもたちに本を手渡そうとたいそう努力しているのだが、それは、「読書」を目的にしているのではないということである。いや、もちろん「読書」なのであるが、それは、ある子どもにとって大切な1冊の本を見いだし、その1冊と丁寧に向きあう「プロセスとしての時間を過ごす読書」を奨励しているのである。これが「自分を育てる」ことに通じるのかもしれない。多読や速読を称揚しているのではない。

そのために彼女は、子どもの名前を覚え(双子の少年の名前を覚えられなかったエピソードは痛い)、好みを知り、読書歴を鑑み、その上で、お勧め図書を2、3冊用意する。そして、そこで終わってしまわないのが彼女のすごいところである。彼女は、ことあるごとに機会を見つけては、その子が1冊の本を読了できるようなサポートを惜しまない。読んだところまで一緒にあらすじをふり返ったり、登場人物の名前を確認したり、挫折しかけている子どもには、「まずここまで読んでご覧」と付箋をつけたり、さまざまな方法を見つけだしている。「信頼関係」ができていなければ、中学生には「うざい」と逃げられるだろう。

これは、学校司書しかできない仕事であり、たいへんなエネルギーを要するであろうが、子どもに本を手渡す上で、とても重要な仕事である。これが可能なのは、この中学校に学校司書が常駐していたからであると思う。そういえば、米原万里さんも、かつて学んだチェコの小学校の図書館で、読んだ本のあらすじや感想を口頭でしゃべることを学校司書に要請され、それが大きな力になったとお書きになっていた。「読書」とは個人的な行為であるが、このように司書とわかちあい、同じ本を読んだ人と作品について話しをすることで、自分の読書が深まって、その行為が自分を育ててゆく力にもなってゆくのだろう。

小幡さんが、「ぴったりの本」を見つけ出すことに真摯であるのは、彼女の選ぶ本を見てもよく解る。『ゆうかんな女の子ラモーナ』、『小さな山神スズナ姫』から『影との戦い』まで多岐にわたっている。中学生だから「この本を読むべき」という自主規制も課題意識もない、大胆でのびやかな選書である。「読むべき本」ではなく、「じっくり丁寧に読み堪能して欲しい質の高い本」を選んでいるというべきか。子ども任せにして、「欲望を満たす本」「読みやすい本」を許容するのではなく、責任あるおとなとして自信と愛を持って本を手渡す司書の姿は美しい。

鶴岡の五十嵐さんの読書に関わるすぐれた仕事が、いま、ここにきて小幡さんとつながり線になったことを実感した。★★子教の信者のみな様方に読んでいただいて、もう一度学校司書の役割を考えていただきたい著作であると思う。しかし、読書に特化した著作であるから致し方ないと思うのだが、教育の場である学校図書館の姿や、やはり子どもたちの学びや、育ちに尽くしているであろう司書教諭をはじめとする教員の姿が見えなかったことは残念である。



忘れたころの読み聞かせ

新年度第1回目の「読み聞かせ」にいってきた。新3年生に『おまたせクッキー』(ハチンス/偕成社)、『ひゃくにんのおとうさん』(福音館書店)、『ひよこのかずはかぞえるな』(わしこ訳)を楽しんできた。教室に入ったとたん私の顔を見て「あっ!」っと声を上げた女の子がいた。私が『ウラパンオコサ』を読んだことを覚えていたらしい。まわりの何人かの子どもたちも反応していた。読んだ絵本を覚えてもらっているのはとてもうれしい。

『おまたせクッキー』は、結末を知っている子もいたので、「知っている子は内緒にしておいてね!」といってお願いしておいたので、「ネタ」が割れることはなかった。とはいえ、もちろん途中から予想がつくのだけれど。お話の中で、だんだん人がふえてゆくと、子どもたちの顔が緊張してゆくのがわかり、たのしかった。3年生ぐらいの子どもには、おばあちゃんがたくさんクッキーを持ってきたところで終わった方がすっきりするかなと感じた。

ところで、『ひゃくにんのおとうさん』では、甕に入ったものが百倍になるというからくりがわかった時点で、ほとんどの子どもたちが「お父さんが百人になる」ということを予想し、口に出す子どももいた(「おとうさんが百人出てくるんだ!」)。おそらく、子どもはそれを我知らず(あるいは、タイトルの意味がわかってうれしくて)口に出したわけで、「ネタ」をばらそうと思ったわけではないだろう。むしろ、タイトルの意味がわかったからこそ、いっそうお話の中にのめり込んだということが、彼らの表情からはっきり伝わってきた。

子どもたちは、自分の予想した結末の行く末を確かめたいがために、よりいっそうお話にのめり込むということがわかった。おとなならばその時点で、ふっと気を抜いて集中力を欠いてしまうかも知れない。子どもの「読み」は興味深い。

今日の「読み聞かせ」は、「甕の中にクッキーを入れたいね(100枚にしたいね)」というところでオチがついた。

小学1年生と…

今年度最後の「読み聞かせ」に出かけた。予定では、「ひらがなだいぼうけん」のつもりであったが、相方が体調を崩し、そちらは断念して、久しぶりに一人での「読み聞かせ」であった。

予定していた絵本はすでに相方によって11月に読まれたことが解り、慌てて職員室で学校図書館の鍵を借りて、『だいくとおにろく』(福音館書店)『どんなかんじかなあ』(自由国民社)を手にして(持ちだして!)1年生のクラスに向かった。

ひろ君が「きこえないって、どんなかんじかなあ。よし、しばらくみみをふさいでみるよ」というところでは、ほとんどの子どもたちが、手を耳にあてて、ひろ君の気持ちになっていた。1年生ではどうかなとも思ったのだが、1年生には1年生なりの感じ方や読み方があるのだということを実感した。読み終わったあとは、教室が「シン」となった。

突然の変更で準備ができなかったため、なんの脈絡もテーマもなく『どんなかんじかなあ』を読んだあとに、「アナンシと五」を語ったが、子どもたちがズンとお話の世界に入りこんでいるのがとても良く解った。思わずという形で発せられる子どもたちのつぶやきがかわいらしく、「おしまい」といったあとに、何人かの子どもたちが自然発生的に拍手をしてくれたのがうれしかった。

今日入ったクラスの担任は、ボランティアを「読み聞かせの先生」と紹介したり、「読み聞かせの学習を始めます」と子どもに唱和させたりするので、私は違和感をもっているのだが、今日は、『どんなかんじかなあ』に何かを感じてくれたらしく、聴きいってくれているのが解った。終了後には書名と出版社を確認された。あざといとは思うが、先生に受ける本もたまに混ぜると良いかもしれない。失礼ながら、子どもに喜んでもらう絵本を見つけるよりも、先生を「落とす」絵本を見つける方が楽だったりして(苦笑)。

久しぶりに学校図書館に足を踏みいれたが、使われていない図書館特有のよどんだ空気を感じた。

「エパミナンダス」には

「エパミナンダス」は、「おいしいおかゆ」と並んでストーリーテリング初心者が、まず最初に取り組む作品の定番中の定番といえるかもしれない。何しろ東京子ども図書館発行の「おはなしのろうそく」シリーズの第一巻の一番目に収録されている作品でもある。本のタイトルも『エパミナンダス』だ。

このお話を一番最初に聞いたのはもうずっと昔のことである。ことによったらまだ学生の頃だったかもしれない。小澤先生の主宰する「昔話大学」のお話の講師として活動している(いた? 本業で偉くなってしまったらしいし…)M・N女史が、H市で「ストーリーテリングの会」を立ちあげたときにお手本として語って下さったのだと思う。あるいは、別の機会であったか、いずれにせよ、M女史からはじめて聞いたお話である。しかし、M女史には申し訳ないが、その時私は、これをおもしろいと感じる事もなく、自分の心の持っていきどころがなかったように記憶している。あの時はこのお話を「おもしろいお話」「よいお話」と思わなければ、自分にはこの場にいる資格がないのだろうかとすら感じてしまった。以来、この「エパミナンダス」にはずっと違和感を持っていたし、私にとっての鬼門の作品であった。

ところが、今年度は「異文化表象」をテーマにした授業で、このお話を語る機会を2回持った。自らが作品を語ることで、違和感はますますつのり大きくなった。授業での眼目は、絵本化された「エパミナンダス」に伺える、明らかな黒人蔑視の視線を確認することで、そこから出発して「異文化表象」につなげることにあった。

「語る行為」のなかで、私は、自分の立ち位置がきまらず、つねに不安に駆られながらどっちつかずのまま語り終えた。結末も楽しいものではなかった。つまり、母に言われたことを無批判になぞるだけのエパミナンダスにも同化できず、かといって、そんな子を「あたまががないねぇ」と言う母親にも心をよせることができなかったからだ。テクストは簡潔で昔話の描写のようにすっきりしているて構造も単純なため、かえって語り手がエパミナンダスからもおかあさんからも距離をとって語ることが難しいのかもしれない。結局、後味の悪さだけが印象に残る作品となった。しかし、この作品が語り初心者の定番となっているのは、簡潔なテキストと解りやすい構造のためであろう。

子どもたちはどう感じるだろう? バカ正直に母に言われたとおりの行動を取るエパミナンダスの失敗を予測して、「エパミナンダスはバカだなぁ。」と半ば同情的に彼の失敗を受けとめるのだろうか? 同じような作品に『くんちゃんのはたけしごと』という絵本があるが、この作品にも私は抵抗感をもっている。イノセント(無垢で無知)な子どもをいたぶっているとしか思えないのである。

「エパミナンダス」とは珍しい名前だと思っていたら、どうやら、実在した人物らしいということが解った。古代ギリシアに生きた軍人で新しい戦術をもってスパルタ軍を破った功績を持つらしい。こちらはEpameinondas と綴り、スペリングに若干の違いがあるが、作者のサラ・コーンにこの軍人のことが頭にあったとしたら、わざわざ高名で珍しい名前を持ってきて茶化す意図があったのだとも推測できる。

しかし、絵本といい物語の内容といいこの作品はもっと議論されてしかるべきだと思うが。 

中学校でお話会

K中学校の文化発表会の催しの一つとして「お話会」の準備をしてきたが、昨日ようやく終わった。司書教諭から「お話会」の依頼があってから、ほぼ3ヶ月、先月初めに図書委員さんを対象にした「プレお話会」を経ての本番であった。

今月に入り、プログラムを最終的に決め、時間を見つけては、相方と練習を重ねてきたが、一人でも練習はしなくてはいけない。しかし、一人で語るというのはなかなか辛いものがあるので、授業のはじめに学生に聞いてもらったりしながらの準備期間であった。残念ながら最上の出来だったとはいえないし、勢い込んで早口になってしまった、最後を噛んでしまった(悔しい!)などの反省点は多々あるが、楽しい時間であった。

11時30分からほぼ1時間、合間に人の出入りはありながら、述べ100名以上の中学生がお話を聞いてくれたそうである(担当の先生がきちんと数えていてくれた!)。なんと、前の座席に並んで座っていた中3男子数名は、始めから終わりまで「いつづけ」てくれたのである。全体的に男子生徒が多かったのが印象的であった。

相方のKさんの「食わず女房」が絶品であった。

<プログラム>
絵本『みんなおなじでもみんなちがう』
お話「手なし娘」(『子どもに語る日本の昔話』)
お話「三つの金曜日」(『天からふってきたお金』)
絵本『フレデリック』
お話「食わず女房」(稲田明子再話)
お話「不思議なオルガン」(レアンダー)
お話「星の銀貨」(グリム)

風邪ひきの学生に囲まれて授業してきた1週間であった。今日はゆっくり休もう。

中学校でお話会

中学校の図書主任(司書教諭)の先生から、子どもたちにお話しを聞かせて欲しいと依頼され、昨日、Kさんと出かけてきた。この地域では、小学校の図書館も開かずの図書館であるが、中学校も変わりはなく(図書館に入ると独特のかび臭さを感じる。授業で図書館を使うこともあるが、貸出は昼休みのみ。雨の日の放課後は、運動部の練習場にもなるらしい)。先生曰く「子どもたちは本を読まないので、何とかしたい」そうだ。

今年は「国民読書年」で、教育委員会から何か「イベント」をするように通達があったらしい。そこで、10月にある「文化発表会」で、一般の子どもたちに「お話会」を開催したいとの依頼を受けたのである。昨日は、これに先立って、図書委員の子どもたち対象の「お話会」を行った。図書委員さんが20数名と6名の生徒会役員の子どもたちが聞いてくれた。

中学生ともなると、感情を出したり、こちらの問いかけにも張り切って(よろこんで)答えてくれることは、かなり難しいと思われるが、彼らの表情をうかがうと、真剣に聴きいってくれたことが解った。少し時間をオーバーしたが、精一杯やらせていただいた。

<中学生のお話会>
『やさいのおなか』
『ヨセフのだいじなコート』
お話「木のまたアンティ」
お話「ひよこのかずはかぞえるな」

絵本も物語も原文にあたって、違和感を感じるところは、語りやすいように直した。『ヨセフのだいじなコート』は最後の部分が、すとんと心に落ちなかったので、原文を参考に直した。また、「木のまたアンティ」は、『かぎのない箱』所収の「アンチの運命」を軸に、「木のまたアンティ」(『子どもに語る北欧の昔話』)とTales from a Finnish Tupaを参考に、語るためにテキストを整え、若干短くした。語り巧者であればスパッと短くしてしまうであろうところも、うるさくない描写の部分はお話しの雰囲気を保持するために意識的に残した。これは、語り手も聴き手も初心者だからだ。

『かぎのない箱』は楽しいお話が沢山入っているが、「アンチの運命」は、なかでも私が気に入っている作品である。しかし、予定調和のきれいさが、中学生にはどうだったのかというのが反省点である。

「木のまたアンティ」を語るために『カレワラ』をはじめとする、北欧関連の書物を何冊か手にしたが、岩波少年文庫版の『カレワラ物語:フィンランドの神々』の日本語がひどかった(私が子どもだったら読み通せなかっただろう。しかし、アマゾンのレビューでは、褒め言葉しかなかったのが解せない。レビュアーは相当頭がいいに違いない)。というわけで、「カレワラ」に関しては、「詩」にはなっていないが、キルスティ・マネキンが子どものために再話した『カレワラ物語:フィンランドの国民叙事詩』(荒巻和子訳/春風社)をおすすめする。少年文庫版は、岩波文庫版の完訳者が手がけているのであるが、専門家であるからといって、子どものためにきちんとした日本語が書けるかどうかという点については、また別の問題であるということがよく解った。

英語に比べて、北欧語人口が少ないのだろう、この『カレワラ』日本語訳をはじめとする北欧文学翻訳の日本語訳がいただけない。フィンランドではないが、青土社の『北欧神話物語』の文章はとてもひどく(原文は英語なのだが)、このような翻訳を出す編集者にも強い怒りを感じている。しかし、英語の翻訳とてすべてがすぐれているとはいえないだろうが(詩人のOH訳の絵本はひどい)、もし、英語翻訳の日本語が『北欧神話物語』や少年文庫版『カレワラ物語』レベルであったならば、多くの人からクレームがつくのではないかと思う。まあ、それだけ多くの人の目に触れ、批評されるということであるが。

今年は男運がいい

「男運がいい」などと書くと誤解を招きそうであるが、おかげさまで(!)、今年は男子学生に恵まれて、楽しく気持ちよく授業が進んでいる。文字通り、「ありがたい」ことである。「予習が甘い」「物語を予測して読んで」「あなたの辞書は、○ぬけ辞書!」などと檄を飛ばしたり、イライラすることもなく、粛々と、しかし、時にはつっこみをもらいながら授業が展開されている。それも、1クラスだけでないのが驚きである。みんなとてもよく予習をしている。何なんだ、この現象は。

というわけで、授業でもストレスがたまらないし、「便所の裏」に呼び出されていじめられることもないので、心安らかに夏休みを迎えられそうである(「便所の裏」事件関連については、あらゆるところで話題にしているので、S・Tさんからは「もう元を取ったでしょ」と笑われてしまったが、いやいやまだまだ使わせてもらうぞ、このネタは)。

男運がいいのは、大学生ばかりかと思っていたら、小学1年生の男運にも恵まれた。先週の「絵本のわかちあい」は、「へんなひとかぞえうた」で盛りあがったが、この歌を知っている男の子が早速唱和してくれ、そのほかの子どもたちも、身体を揺さぶってリズムを取ったり、「○○ちゃん」と「○○食べた」の部分は、思わずという感じで、数え歌に参加してくれた。そして、「もう一回やって」の声がこれまた別の男の子から発せられた。

唱和をしてくれた男の子としっかり目があい、おとなとか子どもなどという関係が取っ払われて、「知ってるの?ありがとう!」「知ってるよ!楽しいね!」と一瞬のうちにつながるという、えもいわれぬ幸福な時を共有した。心から感謝。ありがとう。

しかし、このよろこびのそばから、来年度は、もうこんなこともないのだろうと悲観的になって、来年どころか、来年度のことまで気に病んでしまっている私は、自分でも如何なものかと思うのである。これでは、鬼ばかりでなく、ほかの恐ろしいものにも笑われてしまうだろう。

「じゃあ、読もう。」

昨日の授業で国民読書年を話題にしたところ、受講生の一人からそのキャッチコピーが「じゃあ、読もう。」であることを教わった。「じゃあ、読もう。」って、あまりの言語感覚の貧しさにびっくりしたのであるが(しかも読書を推進しようとしている団体が!)、出版文化事業財団(JPIC)の肥田美代子理事長が、このキャッチコピーについて次のように述べていることをネット上の情報から知った。

「じゃあ、読もう。」というコピーについては「シンプルで能動的、それにいろんな言葉を組み合わせられる。『早寝早起き、じゃあ、読もう。』や、『失恋した、じゃあ、読もう。』など、それぞれに楽しい使い方をしてください」と呼びかけた。(『日本印刷新聞』2009年11月18日)


しかし、私には「じゃあ、読もう。」の「じゃあ」が気にかかる。「早寝早起き、じゃあ、読もう」や「失恋した、じゃあ、読もう」には、肥田さんがおっしゃるような「能動的」な意味合いは伝わってこない。「何もやることがないから」「仕方がないから」、「じゃあ…」というように、ある種の諦観も感じるし、何かのオルタナティヴでの「読書」行為が強調されているように思うのだが。

読書の本質的なよろこびを伝え、さらに美しい日本語での標語はできなかったのだろうか。たかが国民読書年といったって、億単位の税金が使われるのだろろうし、複雑な気持ちである。さらに、JPICのキャラクターに「ヨミネエ」というものがあるということ知ったが、これもねぇ。最近は、どんなものにもキャッチコピーがつくられ、「キャラクター」が跋扈している。そんなことにまで「右に、倣え」をする必要があるのだろうか。

「失恋した、じゃあ、読もう」ではなくて、せめて、「失恋した、だから読む」であってほしい。

「い、ち、も、く、さ、ん」

『ひらがなだいぼうけん』(宮下すずか/偕成社)に収録されている「い、ち、も、く、さ、ん」をペープサートにして、2年生の子どもたちと楽しんだ。夜中にひらがなたちが起きだしてもめるというプロットを持つ物語は、よくできていておもしろいので(文字を覚えた子どもたちにぴったり!)、ぜひ、子どもたちと楽しみたいと考えたのだが、教室では本をそのまま使うのは難しいだろうと、文字の部分をペープサートにすることを思いついた。

少し大きめの本をつくったり、文字のペープサートを工夫してくれたのは韓国のりこちゃんのお母さんで、私は、段ボールなどのブツを用意しただけ。そして、となりであれこれ口を出したり、彼女の手際の良さにうっとり見とれていただけであった(すまん)。しかし、準備も練習もいつもと違って楽しかった。ナレーション部分を韓国のりこママ、セリフと詩とペープサートは、私が担当した。

さて、お話がはじまり、冒頭の詩を読んだあたりで、男の子二人が、もうどうしようもなく笑いころげているのに気づいた。「何かおかしいことをいったのかな?」と思ったぐらいだったが、どうやら、「本を読んでもらうこと」そのものがうれしくてたまらないというふうであった(そのことに気がついた先生が即座に彼らの後に陣取ったのだが…)。お話が終わったあとの子どもたちのキラキラした満足げな表情がうれしく、思わず「おもしろかった?」と聞いてしまった。すると、笑いころげていた男の子の一人が手を挙げて「最後の所がとてもおもしろかった」と即座に答えてくれたのだった。ありがとう!

ペープサートを落としてしまったり、台本が閉じてしまってあたふたしてしまったり、不手際はあったが、まずまずの出来であった。私は気がつかなかったが、やはり別の男の子が「ヤバイ!」と口にしていたことを、あとから韓国のりこママから聞いた。それは、お話がおもしろくて「ヤバイ」ということだよね。

あいさつ

子どもたちと絵本をわかちあうために学校に出かけることがあるが、今日は、その「あいさつ」に強烈な違和感を持った。「あいさつ」は、クラスの当番(日直)が「おはようございます」「ありがとうございました」と発声し、そのあとみんなで唱和するスタイルがほとんどである。もちろん、今日もそのスタイルは変わらなかったのだが、今日のクラスでは、「おはようございます」の前に、当番の「いまから読み聞かせ学習を始めます」というひとことが入ったのである。また、最後には「これで、読み聞かせ学習を終わります」と入った。

「読み聞かせ学習」なのか「読み聞かせの学習」なのか細かい点は聞き漏らしてしまったが、しかし、「読み聞かせ」と「学習」が一緒になっていたのには驚いた。<「読み聞かせ」は、「学習」かい!>と心のなかでつっこみが入ったが、小さい人たちは「そう」教えられているわけだから、疑問を持つ余裕などないだろう。

「読み聞かせ」というアップ・トゥ・ダウンの発想から使われた使役の助動詞が「学習」に結びついたのか、授業の一環として「読み聞かせ」が位置づけられている故か、いずれにせよ、「もやー」っとした不快感を持った。また、「ありがとうございました。また来てくださいね」という唱和の「また来てくださいね」にも、なんだか「言わされている」感が漂っているように感じた。

「絵本のわかちあい」「絵本の読みあい」という言葉には「学習」という語はなじまない。ということは、「わかちあい」も「読みあい」も学校で使われることはないのかもしれない。「読み聞かせ」という言葉を使っているからこそ「学習」とすんなり結びついたのだろうか。「読み聞かせ学習」も「また来てくださいね」も、「指導」という名の下に繰りかえされると「学校の常識」になってゆくのだろうか。とてもこわい。

庄内で:子どもたちと絵本を読む

夫が「子どもの読書を支える会(鶴岡)」のメンバーの一人として、鶴岡市長や市会議員との懇談会に参加するので、新築なった朝暘第一小学校を見学するというのを口実に、私も一緒に鶴岡へ同行した。しかし、事はそれほど「甘く」はなく、「鶴岡に来ることがあったらうちの小学校で絵本を読んで欲しいと」いわれて、たっぷり「賄賂」を頂戴していた元朝暘一小勤務(研究主任)のS先生の新しい勤務先である余目第一小学校の子どもたちと一緒に絵本や昔話を楽しみ、ボランティアのお母さんたちにお話をすることになった。そんなわけで、朝暘一小での滞在時間は45分であった。しかし、図書館まわりはじっくり見学させていただいた。書棚の高さはすべて120㎝に揃えた開放感あふれるゆったりした空間のすばらしい図書館であった。

その後、余目第一小学校に向かった。まず、約60人の1年生にわらべ唄を披露したり、絵本を読んだ。緊張感を解いてリラックスするために「かっぱ」(谷川俊太郎)を紹介し、子どもたちと一緒に声を出して朗唱した。その後、おめでたいわらべ唄「せんぞうやまんぞう」を紹介して『おもちのきもち』につなげ、『せかい1おいしいスープ』、「ついでにペロリ」、『しりとりのだいすきなおおさま』、『うえきばちです』、『ねえ、どれがいい?』と楽しんだ。

『うえきばちです』では、子どもたちはおおよろこびでこわがって盛りあがった。中には、隣の子とだきあって「こわがり」、よろこんでいた女の子もいた。最後に『ねえ、どれがいい?』を読み終わったとたんに、子どもたちが絵本とわたしのまわりに集まってきて、「私これが好き」「この本面白かった」などと教えてくれた。わたしにとってもうれしい時間であった。『うえきばちです』はどんなときでも盛りあがる絵本ではあるが、今回ほど盛りあがったのははじめてかもしれない。あまりに盛りあがって収拾がつかなくなることを考慮して、最近はプログラムの最後に持ってくることが多い。しかし、子どもたちも野放図になることはなく「引け時」を心得ていて、『ねえ、どれがいい?』でも、ずるずると興奮にひたるということはなかった。

その後、3年生、6年生の子どもたちとも絵本を楽しんだり、昔話についてお話をさせていただいたりしたが、年齢が下がれば下がるほど、反応も素直でストレートであるのはどこでも同じである。

私たちが出発する前日まで鶴岡は吹雪き、飛行機どころかJRも動かなかった。冬の鶴岡は今回で3回目であるが、いままで、飛行機が欠航したということがない(台風の時一度、万全を期して直前に飛行機をキャンセルしたこともあったが、結果的に飛んだ)。私はたぶん晴れ女。

子ども時代の読書

昨日は遠足大学の第2回目の課題「子ども時代の読書」のレポートをずっと添削していた。2回目の課題に関しては「添削」などするつもりはなかったのだが、学生からの要望が強いので、添削して返却することにした。約80人分のレポートを2日がかりで終わらせた。(彼らに言わせると、レポートは返却されるどころか、添削などする教師は皆無に近いそうだ。常勤の教員はそれなりの給料をもらっているわけだから、学生のレポート力向上のために何とかして欲しいものだと痛切に感じる。遠足大学はほんと大赤字!)

彼らのレポートを読んでいると、読書好きになるため、あるいは抵抗なく「読書」をする事ができるようになるための共通点が2つ見えてくる。まず、幼いころに(無文字の時代に)物語や絵本を近しい人から読んでもらった経験を持っていること、そして、「自立読書」に進むために、絵本から物語の移行、つまり文字の時代への移行がスムースに行われる事である。また、その子にとってのふさわしい本との出会いの時期もひじょうに大切である。身近に本があること、定期的に公共図書館や学校図書館に通えるというのは、言うまでもない。

こうしてみると、何も目新しい事はなく、昔から多くの人に提唱されてきた事ばかりである。また、親による「読み聞かせ」は、その時間が丸ごとあたたかで愛情に満ちているものとして、彼らの心の底や記憶に残っていることが解った。なかには、自分の核をつくっている具体的な作品を意識している学生も多くいた。これは、美智子皇后、猪熊葉子さん、清水眞砂子さんの著作を参考文献にあげた事が大きいだろうが。しかし、教師の文献の提示方法で、学生のレポートがある程度方向づけられるのは、いいんだか悪いんだか…。

NHK「とめはね!」の再放送を見た。あまり期待していなかったが、上手にまとめてあってなかなかの出来である。主人公の「大江縁」「望月結希」もイメージにあっているし、脇を固める景山先生や柔道部の顧問もよい。そんなわけで、また漫画を読み返してしまった。

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