スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「オイディプス王」語り

学生に紹介する前にかつて作ったテクストに手を入れようと、『100分de名著 ソポクレス オイディプス王』を購入。しかし、読む暇もなく先週の木曜日にそそくさと紹介するのみとなった。時間もなく(途中でベルが鳴るし)、早口での紹介だったので、当然の事であるが語りの場を作る事もできず、ひどい出来だった。お話の枠組みを紹介できた事でよしとせねばならないという不満足さは、自分のふがいなさを責める事になった。しかも、泥縄で読んだ件のテレビ番組のテキストがとてもよかったので、なんとか時間を作るべきであったという、新たな悔いがうまれた。「北欧神話」を扱っている授業でリベンジを図ろうかしら。

もう一度じっくりテクストに手を入れる事にした。どなたか、「オイディプス王」の語り(まがい)はいりませんか? いらないよね。
スポンサーサイト

「舌切り雀」から始まって

わしこの英語塾では、日本の昔話を語りにふさわしいやさしい英語に直すことも、塾の柱の一つである。11月からは「舌切り雀」に取り組んでいたが、今月でようやくたたき台となる英文を完成させた。

「舌切り雀」は、日本10大昔話には必ず取りあげられるお話であるが、私自身は「欲はかくものではない」という教訓が刷り込まれてしまっていたせいか、それほど好きになれないお話であった。途中で我慢できなくなったお婆さんが葛籠をあけてしまうと、おどろおどろしいモノが襲いかかるのも怖かった。ちゃんと家まで持って帰れば、お爺さんがもらったものと同じようなお宝が出てきたのかもしれないと、幼な心に夢想したこともなんだか思いだしてきた。

「舌切り雀」は、お婆さんが目を丸くして、腰をぬかしたところでやや唐突に終わるのであるが、どう終わらせるのかという議論から、皆の関心は「お爺さん、お婆さんのその後」に移っていった。「お婆さん、死んじゃった? 死んでもいいかもね。意地悪婆さんだから。」「いやいや、お爺さんが迎えにきたよ。やさしいから。」「お爺さんは、これ幸いと若い嫁さんもらったんじゃないの。お金もあるし。」などなど、勝手な意見が飛びだして面白かった。

「舌切り雀」は、明らかに「隣の爺型」のお話で、この手のお話は、欲深者が懲らしめられて終わるのであるが、「ねずみ浄土」(おむすびころりん)や「こぶとり」などと比較すると、「終わった感」がなく、なんとなく落ち着かない。結末についていろいろ意見が飛びだすのもうなずける。

Sさんは「お婆さんが気の毒だ」という。なぜならば、「あのお話は、妻妾同居のお話だから。お爺さんが雀をかわいがる事を厭うのは当然だろう」という。そうか、そういう風には考えなかったけれど、そう読む事だってできる。生きてきていろいろ体験してきたからこその解釈でもある。

そう考えてみるとなるほど、日本の昔話には、女性の哀れや悲しみをテーマにしたものがあるなと気づく。農家の嫁はその働きに適うほど食べることすら憚られて、こき使われていたのだろう。コマネズミのように働く「食わず女房」が当然のこととして求められた。そして、本来の労働に見あった食欲を行使すると、「山姥」や「鬼」として周辺に追いやられてしまったお話が「食わず女房」である。充分に食べることなくこき使われた女の怒りが見える。

「三輪山伝説」を原型に、最終的には「意に染まぬ結婚」「導具としての女」への異議申し立てが「猿婿」や「蛇婿」からすけて見える。

シンデレラ・サイクル

木曜日の「英米児童文学」で、「シンデレラ・サイクル」と称して「シンデレラは何をもってシンデレラか?」というテーマで授業を展開した。ペロー、グリムの「シンデレラ」の相違はもちろんのこと、「イグサの頭巾」「ネコ皮」など、一見(一読)「シンデレラ」とは分類しにくい作品も紹介した(とはいえ、AT分類にはきちんとシンデレラ話型とされている)。「粟福米福」「イグサの傘」を語り、「ネコ皮」は英文でさらっと読んだ。

その後、ERICでシンデレラ・サイクルの絵本などを紹介した論文(というよりむしろ書誌)を見つけ、さっそく★マゾンをのぞき、購入することにした。エド・ヤングが最古のシンデレラといわれる「葉限」を絵本にしていることも発見した。さて、どんなふうに料理されているのか楽しみである。

ペローの「シンデレラ」をどう料理して絵本化したかという絵本も楽しいが、それぞれのお国柄がしのばれる『エジプトのシンデレラ』『アイルランドのシンデレラ』なども興味をそそられる。しかし、件の論文には、私がアメリカやカナダで見つけたお宝「シンデレラ絵本」が何冊か欠けていたし、シンデレラを基にした物語やおとなのための著作に関しても徹底的に網羅しているとは言い難い。

しかし、授業を終えてからいろいろ発見するというのも、「泥縄」(というより「泥棒を逃してしまってから、縄の素材を探しに行く」)式のように見えて情けないが、「昔話の絵本化」というテーマでの授業をする予定もあるのだった(こちらは、司書科目)。

パドラック・コラムの「北欧神話」再話

今年度の英文科2年生の「演習」ではコラムの Nordic Gods and Heroes を講読している。久しぶりにじっくり読みながら、またもやコラムの再話にワクワクしている。神話を専門に研究しているわけではないから、ちゃんと『エッダ』を読んだことはないけれど(英語訳をさらりと)、北欧神話には強い魅力を感じている。神々がドワーフたちからの贈り物として手にする「ミヨルニル(鎚)」「ドラウプニール(腕輪)」やカラスの「フギン」「ムギン」やオーディンの放浪の旅やユグドラシルに貫かれたその世界観などのことを思うと心がいたく、かつ、心弾むのはなぜだろう。

ギリシア神話も好きだ。けれど、白鳥に変身したり、黄金の雨となって女性を求めるあの女好きなゼウスよりも、片眼を犠牲にしてまで人間のために知恵を授かったオーディンの孤高性とストイシズムにより深く共感する。

多くの神話や伝説は、ゲーム・クリエイターらによってバラバラに解体されてしまったいう苦言を耳にするが、いやいや、本編の面白いこと。かなりのゲーマーだった学生が、オリジナルの物語のおもしろさに心奪われ、文学のよろこびを再認識したという経験を話してくれた。物語のおもしろさを感じていれば、大学生になっても活字に戻ることが可能であるとの認識を得た。

『銀の匙』を中学校の3年間でじっくり読むという授業を展開した、もと灘中学校・高校教諭だった橋本武先生に取材した『奇跡の教室:エチ先生と『銀の匙』の子どもたち』(小学館)を読んだ。このような授業が「奇跡」とされることに、今の教育の問題が透けて見える。

文中のコラムで、著者、伊藤氏貴が、斎藤孝へ「『銀の匙』以外でじっくりと読んでいきたい本は?」と問いかけているが、斎藤孝は小学生には『坊っちゃん』、中学生には『罪と罰』、高校生には『ツァラトゥストラ』をと答えている。「こいつ、ホント、何も解ってねぇ。★★か!」 と思ってしまった。しかも、彼からは現代文学を読んでいる気配を感じられない。

小野和子。『みちのく民話 まんだら』、北燈社。

小野和子さんの『みちのく民話まんだら:民話のなかの女たち』をユーストで購入。小野さんが採集した佐藤やちよさんの語る「猿の嫁ご」とその「あと語り」を目にして、すべてを読みたくなったからだ(いまさらながらだが)。予想に違わず、誠実で真摯な本。

一つ一つの話につけられた「あと語り」に教えられ、示唆されることが多く、自らの蒙昧を恥ずかしく思う。愚か者話の「うめにうぐいす」によせられた「あと語り」を読むと、なぜ私が「エパミナンダス」に抵抗を感じるのかがよく解る。大切な1冊。

ところで、小野和子さんは、『とどろく雷よ、わたしの叫びをきけ』などの翻訳者であったことも判明した。

魔女と魔法使いの物語

このところずっと魔女と魔法使いの物語を読み進めてきた。昔話には魔女が数多く登場する。例えば、グリムの中の魔女(Hexe)を調査した野口芳子さん(『グリム童話と魔女』/勁草書房)によると、「…二〇話が女性、五話が男性ということになり、約八割を女性、二割を男性が占めていることになる。これは現実の魔女裁判での犠牲者の男女比とほぼ一致している」ということである。しかし、この二〇話の中には「ラプンツェル」は含まれてはおらず、この話は魔女以外で魔術を扱う「女の魔術師」(Zauberin)に分類されている。また、「ホレおばさん」は「魔女」にも「女の魔術師」にも分類されていない。

「ラプンツェル」も「ヘンゼルとグレーテル」も「ホレおばさん」も「魔女(witch)」として考えたいと思っている私には、この著作については学ぶところ大であるが違和感も残る。名称で分類が難しいのであれば、役割で分類してみてもよいかもしれない。すると、羽布団を振ると雪を降らせる力を持つホレおばさんは、魔法的な力を持っているという点では「魔女」かもしれないが、自然を司る(雪を降らせる)という点に注目すれば女神の流れをもつ存在である。

つまり、かつては豊穣の女神や人間の守護神として崇拝の対象であった存在が、キリスト教の普及によって「魔女」として周辺に追いやられ、処罰の対象になっていった歴史が窺えるのだ。「悪い」魔女の対極には「マリア」がいるのだろう。

魔女というのは多様な存在であるために、ぬらりくらりと定義の枠からすり抜けてしまう。歴史的にも文学的にも、魔女というのは周辺的でアナーキーな存在で、つねに権威に挑戦してしている。その点で、魔法使い(wizard)よりずっと魅力的にも思われる。そういう意味では、悪い魔女の呪いを解くような「よい」魔女のお話は、おもしろさに欠けるように思う。

中学生のお話会

今年度3度目の中学生のためのお話会をすることになり(15日)、そのうち合わせをした。事前にいろいろ資料集めをしてはいるのだが、やはり、持ちよったものを、声に出して読みあいながら議論し、検討してゆくことが大切であると感じた。今回は、「アニマシオン」的なものも取り入れてみようと意気込んでいたが、これは見送りとなった。

絵本を2冊、お話をいろいろとりまぜて4つ程と考えている。おかしいお話、しんみりしたお話、短いもの、長いもの、いささか「こちゃまぜ」かなとも感じるが、その中で一つでも子どもたちの心に響けば良しとしよう。

途中から、韓国のりこちゃんが宿題をもって参加。私たちがお話を読みあう中、黙々と漢字の練習に励んでいたが、そのうち「黄金の髪」(チェコスロバキアの昔話)に次第に引きこまれてゆく様子が読み手としてなんだか楽しかった。彼女は、アン・ジョナスの『光の旅かげの旅』にひどく感動していた(「この人天才!」)。この姿こそ私には感動的であった。さて、本番まで時間がない。暇を見つけて練習しなくては。

フィリップ・リーヴの『アーサー王ここに眠る』を読む

フィリップ・リーヴによる「サーサー王物語」の再話、『アーサー王ここに眠る』(東京創元社)を読んだ。ゼミ(3年生)で、サトクリフが再話したアーサー王伝説 The King Arthur Trilogy を読んでいるので関連書籍が出版されたとなるとほっておけないのである。

物語は大変面白く読んだ。いろいろ語りたいこともあるが、井辻朱美さんのあとがきがこの作品の特質をとてもよく紹介していると思うので、ここに紹介したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

物語を本来の騎士道ロマンスに寄りそって語るか、その裏の歴史的実像をえぐりだすか。これまでのアーサー王関連は大別すれば、そのどちらかのスタンスであったように思われます。ところが今回ご紹介するフィリップ・リーヴの作品はそのどちらでもなく、その上をゆく作品といえるような気がします。(訳者あとがき)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

吟遊詩人のミルディン(マーリン)が、歴史的存在としての「暴君時代に生きた小物の暴君(本文p359)」アーサーを、いかにして伝説的人物に仕立てあげるのかという過程が、ミルディンの弟子グウィナの視点で語られているのである。私はとくにこの作品の「メタ・ナラティヴ」的な要素に深く興味をそそられた。

人間くさいアーサー王の姿を語りつつ(アーサーの苦悩などの内面については推し量ることしかできないのであるが)、それを「物語」にしてゆく意志と過程に惹かれた。

しかし、井辻朱美さんの「訳者あとがき」があまりにも的確、明晰であるので、こんなふうにブログを書くことが無意味であるような気もしている。

読書記録

テレビなどでは連休後半が始まったと報道しているが、私の気分では、「ようやく連休が始まった!」という感じだ。というわけで、積ん読状態であった語り関係の本をまとめて読んだ。

●松谷みよ子。『現代の民話』、中公新書。
●兵藤裕巳。『平家物語:<語り>のテクスト』、ちくま新書。
●兵藤裕巳。『琵琶法師:<異界>を語る人びと』、岩波新書。
●武田正。『雪国の語部:置賜地方の民俗誌』、法政大学出版会。

兵藤氏の『琵琶法師:<異界>を語る人びと』は、『平家物語』を語った琵琶法師の誕生、意義などを一般読者にもわかりやすいことばで伝えてあって、示唆されることが多いものであった。『平家物語』は盲僧によって語られたのであるが、「なぜ盲僧なのか」「盲僧というある意味異形の人間(身体的に刻印を受けた人間)が『平曲』を語る意味」「琵琶法師の宗教的、呪術的な役割が、時代が下がるにつれて、芸能に携わる職能集団に変わってゆく歴史」などが説得力を持って説明される。さらに、『平家物語:<語り>のテクスト』は、前作を補いつつ(とはいえ、出版はこちらが先)、「歴史」が「歴史物語」に変容してゆく有様がつぶさに検証され、知的好奇心が刺激され、蒙が拓けるよろこびを感じさせる。

「語り」関係の書籍では、『昔話の語り手』(野村純一編)をはじめとして、洋書(英語)が数冊待っているが、連休中の読了をめざしてがんば。

テキスト終了!

2年生の基礎演習は、サトクリフ再話による『イリアッド』を読んでいたのであるが(The Black Ships before Troy)、昨日ようやく読了した! 秋学期に入ってからは音読をやめて、担当を決めてひたすら「読み」に徹してきたからだろう。128ページと比較的短いし、アラン・リーの美しい挿絵もふんだんに入っているので、そんなにたくさんの英文を読んだわけではないだろうが、それでも、1冊あげたという達成感はいい。これが、学生の自信につながっていっててくれるとうれしい。

「書いてあるとおりに訳せ」「うしろから訳さない」「そのまま読むこと」と口を酸っぱくして注意をしてきたことが少しは効果が顕れたかしら。文法訳読式の英語教育にはそれなりの意義や効果も認められるが、高校までの彼らのほとんどは、「うしろから訳す」ことを教えられて大学に来る。うしろから訳す<チシャネコ訳(©わしこ)>では、英文を読んだり、書いたりする感覚が育たないのである。「書いてあるとおりに読めば解る」ということを解るためには時間がかかるのだ。これは、悪しき日本の英語教育の伝統である。

来週からは、やはりサトクリフ再話による『オデュセイア』(The Wanderings of Odysseus)を読む。ところで、これらのサトクリフの作品には日本語訳もあるにはあるのだが、日本語が雑で乱暴だし、時たま誤訳もある。残念。

宿題の成果

某大学の「昔話の残酷性」についての講義をさらに深めるために、学生に宿題を出した。「あなたが残酷であると思う昔話を探してくること」というものだ。授業はテキストを読んでいる事が前提となっているし、テキストには参考文献も提示してある。また、ここ2回の授業では、いくつかの昔話を紹介していた上での「宿題」であった。

学生様は宿題を忘れていたのだろうか? ひょっとして、どうでもよいと考えていたのだろうか? 出てきた昔話には、「アンデルセンのお話」(創作だって!)、「因幡の白ウサギ」(日本の神話ですっ。)、「土地の伝説」(伝説と昔話は違うって前回講義したばかりじゃん!)と並んだ。強者は、かつてテレビアニメ「日本昔ばなし」(あの市川さんと常田さんの声が人びとの郷愁を誘った)で見たという作品をあげてきた。「舌切り雀」「かちかち山」をあげてきた学生ですら、もう一度当該の話を読み直したという形跡はみえなかった。

宿題が出たら、まず、自分のノートを読み直し、テキストを探し、自分の書棚を探し、足りなければ図書館に行くのではないのだろうか? あまりのいい加減さに、わたしは怒ってるぞ。

「オイディプス王の悲劇」リベンジ

「オイディプス王の悲劇」を再話して、火曜日のクラスで「語り(まがい)」をすると先日このブログに書いたが、「その後」の報告をしておこう。

ちくま文庫の『ギリシア悲劇Ⅱ:ソポクレス』と里中満智子の漫画を参考に、なんとか20分弱の長さの物語に仕立て上げ、何度か声に出して修正しながら、火曜日の授業で紹介した。ところが、「語り」の真っ最中に遅刻者が大きな音をたてて飛びこんできたのである。学生も私も一瞬何が起こったのかわからず、ぽかんとしてしまった。私のつたない「語り」でも学生は集中していたのだろうと思う。私は、どこからか引き戻されたような感覚があり、すぐには言葉がでなかった。

ぶちこわされた雰囲気は元に戻らず、私もテンションを取り戻すことができずに、「乱入」以後は、何とか読み終えたという状況で、私的にはさんざんの出来であった。

とても悔しい思いをしたので、木曜日の「英米児童文学」の授業で、リベンジをはかることにした。この時は、火曜日とはうってかわって、ときおり廊下を通る人の足音が聞こえるほどの静寂のなかで語ることができた。2回目はまずまずの出来で、いちおうのリベンジは果たされたが、もう少し物語を修正したいという欲が出てきた。というわけで、さらに文献を読み進んでいるところである。また、蜷川幸雄演出、野村萬斎主演のdvdも手に入れたので、こちらも参考にしようと思っている。

授業の準備がどこか違う方向に進んでいるような気もするが、「とりあえず進むしかない!」 のだろうか?

オイディプス王の悲劇

英文科2年生の基礎演習は、『イリアッド』をサトクリフが再話した、Black Ships Before Troyを読んでいる。本は大判で持ち運びには少々難有りだが、アラン・リーの挿絵が美しく、また、サトクリフの端正な再話は、原典講読教材としてもなかなかにすぐれている。

人名や地名に馴染みがない学生も多いので、その都度、人間(神さま)関係やその人(神)にまつわるエピソードを紹介したり、地図で確かめたりするので下調べもたいへんだが、関連分野の読書など授業の準備が楽しい。最近では、専門の研究者による入門書がなかなかの優れもので、自分の学生時代と比較すると羨ましいぐらいだ。

大学1年生のとき、「西洋文学入門」で「ギリシア悲劇」を読んだが、いざ、プレゼンとなると、日本語の文献などほとんど見つけられず、みんな同じ参考文献を使っていたことを思いだした。まぁ、こちらの力不足もあるが、あのプレゼンは活気がなかったなぁとうっすら思いだした。自分があまりにも「ガキンチョ」で、物語そのものが理解の範囲をこえていたし、悲劇の「不条理性」についても訳がわからなかったと思う。

それにしても、一部のファンをのぞいては最近の学生は、「ギリシア神話」についても「日本神話」についてもあまりにも知らないのでびっくりしている(自分のことは棚に上げて)。「アキレス腱」「ナイキ(運動靴)」も「ギリシア神話」がソースであるなどと、こちらとしてはとても恥ずかしい話を枕にもってきても、意外に感動(?)されてしまうので驚いた。

というわけで、先週ほとんどの学生が「オイディプス王の悲劇」について、きちんと知らないことを発見したのである。そこで、今日の授業では、オイディプス王の説明ではつまらないだろうと思い(誰が?)、物語に昇華させるべくテキストを作り、「語り(まがい)」に挑戦することにした。「仕上げをご覧じろ」といいたいところだが、15分ぐらいに抑えようとすると肉づけが難しい。

「ギリシア神話」の参考書として文句なく楽しめるのは、阿刀田先生の『ギリシア神話を知っていますか』、『ホメロスを楽しむために』(ともに新潮文庫)である。ところが、これは文庫本なので、ちょっと油断しているとすぐどこかにまぎれこんでしまうのである。いまも、『ギリシア神話を知っていますか』の書誌事項を確かめようと捜しに行ったら見つからなかった(涙)。阿刀田先生の<知ってますか><楽しむために>シリーズは、どれを読んでもおもしろくおすすめである(『コーランを知っていますか』は未読)。

閑話休題。

で、もう一冊のおすすめ入門書は、西村賀子さんの『キリシア神話:神々と英雄に出会う』(中公新書)である。

わしこの英語塾

語りの仲間たちを中心に「わしこの英語塾」をはじめて、そろそろ1年が過ぎた。昨年、英国へ「語りの旅」に出かけるにあたって、日本の昔話を英語で語ろうという目的で始まった会である。最近では、自分たちの勉強のためにと、短い英語の物語をさらにやさしく書き直す練習や英語の発音やリズムの練習もプログラムに入れている。

インプットも大切だということで、ノルウェーの昔話「太陽の東 月の西」を英語(ダーセント再話)で、ようやくのことで読みきった。20世紀初頭に再話されたダーセント卿の英文は、受講生のみなさんには、さすがに古風で読みにくかったようだ。物語の源流にはギリシア神話の「キューピッドとプシュケ」の残響があり、類話もヨーロッパの昔話には多く見つけることができる。「語る」ためには少しばかり長いとも思われるが、壮大でリリカルな物語である。

ところで、メンバーの中にとても絵の上手な方がいらっしゃる。というわけで、私は明日、「読み聞かせ」の導入(クラスの雰囲気によっては、すぐ物語を読むつもりだが)に使う予定にしている「へんなひとかぞえうた」の食べ物の絵を描いていただいた。さすが! 「牧師さんの後ろ姿」が「さといも」に変わってゆく姿は、みんなから拍手喝采! STさん、ありがとうございました。私が自力で描いたのは、「イチゴ」「ゴマ」「ようかん」「きゅうり」「まんじゅう」である。

STさんに描いていただいた「にぼし」を見て、「太刀魚?」といったのは、我が家のだれかさんである。

「語りの場」について

野村純一先生の『昔話の旅 語りの旅』(アーツアンドクラフツ)を読んでいて、私が漠然と抱いていた「伝承の語りの場」の実際について、いかに無知で甘い認識しかなかったのかを思い知らされた。恥をさらすようで気がひけるのであるが、「伝承の語りの場」の実際について、これほどきちんと伝えているものを読んだのは初めてである。

とくに雪深い国では夜の「囲炉裏端」は労働の場でもあり、そこで、昔話が語られていたことはよく知られている。しかし、その実際は、私などがぼんやりと想像するような「ほのぼのとあたたかい」ものではなかったのである。野村先生は次のように述べる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
…家の爺さまや婆さまに語ってもらった昔話の多くは、とろとろとした囲炉裏の火の思い出や、暖かい寝床でのごくやさしい語り口に直結する。それはそれでまったく自然な昔話への回想であって、結構である。しかし、昔話とはたとえそれがひとつ家の子供たちの中にあってさえも、必ずしもすべてが一様にまどかな夢への誘いにあったわけではない。(中略)も少し年かさの子供の中に残る話の記憶は、囲炉裏端に縄をない、煙にむせながら草鞋を編んだ父親や、雪焼けした若勢からの力強くも放縦な語り調子に結びつき、はたまた、単純この上ない葉のしのウラとり仕事の中で、やみくもに襲ってくる睡魔を払うために求めて語られた気味の悪い話や、腹を抱えて笑いころげる話の数々に辿り着くからである。(p14-15)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

学習するとは、さまざまな知識や情報を整理することでもある。この「さまざまな知識や情報」というものが、現在の私たちには実は、すでに整理され、まとめられたものであることが多い。「昔話の場」について書かれたものもそうだろう。つまり、情報や知識としてまとめられてしまった時点で、それらはすでに、具体的な一つ一つの事柄が抜けおちてしまっていることも当然あるのだ。一つの枠組みを認識する中で、さらに、一つ一つの具体を見つけなくては意味をなさないことを改めて知らされた。

比較的手軽に私たちの目に入る笠原政雄さん(『雪の日に語りつぐ』)や鈴木サツさん(『鈴木サツ全昔話集』)の語りにしても、笠原さんや鈴木サツさんの「同時代」を復元しているわけではなく、彼や彼女の人生の終着点近くにきてからの、夾雑物が排除された「過去へのまなざし」から生みだされているものである。それでも、『雪の日に語りつぐ』や『鈴木サツ全昔話集』には、昔話だけではなく、彼らが生きた日常の「語り」が収められているのは意義深いことだ。

私たちはかつてそのほとんどが「生産の場」に立ち会い、その労働を糧として生きることを許されてきた。しかし、現在では、生産者である人よりも消費者である人のほうが圧倒的に多い。日本の昔話は生産者であった日本人が語ってきたものであるから、消費者である日本人が理解できないものもある(例えば「猿むこ」「さるかに」など)。しかし、さまざまなレベルでの具体を丁寧に掘りおこすことによって、その溝は埋めることができるだろう。埋めていかなくてはいけないのだと思う。

続デイヴィッドの語り:「雪女」について

「スコットランドの語り」コンサートのあと、デイヴィッド、美緒さん、H先生、学生と一緒に、「やきとり屋」さんでささやかな打ち上げをした。そのとき、彼に「雪女」について訊ねてみた。やはり、デイヴィッドの「雪女」は、ハーンの『怪談』に収録されている「雪女」を基にしているとのことだった。

私は、率直に、デイヴィッドの「雪女」には「怒り」が全面的に表現され、違和感を覚えたことと、自分の解釈(雪女の諦観、悲しみ)についてお話しした。最初は、デイヴィッドは、とまどっていたようだった。なんといってもハーンに対する信頼があったからこそ、彼は「雪女」を語っているのだろうから。あらためて、ハーンの結末を読んでみると、雪女が箕吉を殺さなかった理由は、子どものためであったことがはっきりと書かれている。しかも、私が読んでいたように、雪女の箕吉への愛については言及されていない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それは、私だったのです。私は、あのときあなたに言ったはずです。もし、あの晩のことをひと言でも口にするならば、あなたを殺すと。いま、ここに眠っている子どもたちがいなければ、すぐにでも私はあなたを殺してしまうでしょう。さて、今となっては、子どもたちの面倒を見てもらわないわけにはいかない。もし、あなたが子どもたちをないがしろにすることがあれば、私は、あなたにも相応の仕打ちをすることでしょう。

彼女の叫び声は、風の音のようにだんだん小さくなっていった。そして、彼女も白い霧となっていったのである。霧は天井の梁にうずまきながら、煙突を抜けてゆき、女は、再び現れることはなかった。(わしこ訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私に言わせれば、日本に長く暮らし、日本人の妻をめとったハーンでさえ、「雪女」のエッセンスを読めていなかったように思う。確かに、ハーン版「雪女」は解りやすいし、因果関係もはっきりしている。私が、読んだような「あいまいさ」や「アンビバレンス」とはほとんど無縁と言ってもよいだろう。しかし、私の話を聞くとデイヴィッドは、私の「語り」を聞きたがったので、私は、日本語で最後の部分を語った。すると、彼は、「失望」「痛み」「悲しみ」を「雪女」に発見してくれたのである。これは、私にとっては、大きな驚きであり、よろこびでもあった。デイヴィッドは、新たな「雪女」を作ると言ってくれた。また、伴奏の「さくら」に関しても、私たち日本人が持つ「さくら」のイメージが、「雪女」にふさわしくないことを理解してくれた。

「でも、日本人聴衆を対象にしていない時には「さくら」を伴奏につかってもいいのではないか」と私が言うと(なんといっても「さくら」と日本は緊密に結びついているから)、彼は、「とんでもない。日本人が違和感を感じるのであれば、それはどこに持っていっても「偽物」である」とおっしゃった。デイヴィッドのお話に対する真摯で誠実な姿勢は深く心にしみた。

ところで、「雪女」における、諦観や悲しみがこのように、比較的容易に理解されるとは思っても見なかった。というのも、ぱたぽんさんが「デイヴィッドの語り」のエントリーでコメントをつけてくださっているように、ある種の(「つる女房」など)昔話は、ヨーロッパ人には理解しがたいということを、昔話研究者の小澤俊夫先生がおっしゃっているからだ。「つる女房」の結末は、西洋人にとっては「終わり」という感覚をもつことができないらしい。「救済の成功」が語られないからだというのが大きな理由である。

しかし、スコットランドの昔話である「あざらし女房」は、異類婚の宿命として、「つる女房」と同じように、海の国(異類のふるさと)へ帰って行く結末を持っている。デイヴィッドが「雪女」についての日本人的な感覚を理解してくれたのも、「あざらし女房」をもつ文化の出身だからかもしれないと感じている。とすると、小澤先生の「西洋人は「つる女房」が理解できない」というご意見は、西洋すべてに敷衍して考えることができるのかと、新たな疑問もわいてくる。

異類婚については、ずっと気になっているので、さらに、いろいろ考えてみたい。小澤先生のご意見に興味がある方は、『外国の昔ばなし研究者が見た日本の昔ばなし』(小澤俊夫編/昔ばなし大学出版会)が参考になるかもしれない。ただし、ざっと再読してみたところ、「つる女房」についての言及を見つけることはできなかった。

注:デイヴィッドの語る「あざらし女房」は、異類の女房がひとりこの世を去るという結末を採用していないところが特徴的である。人間の男は、女房のとともに、いったんはふたりで暮らしていた海の国から戻ってくる。ふたりがまた人間の国に戻ると死んでしまうことを承知の上で戻った理由は、ふたりの末娘が子どもをもうけたので、どうしてもその子を祝福したかったからだ。その後、ふたりは、あざらしの姿のままなくなって発見されるのである。

スコットランド語りの世界

昨日、「スコットランド語りの世界:デイヴィッド・キャンベルの語り」コンサートを無事終えることができた。100名を超えるお客さまを迎え、会場はスコットランドの炉端となり、聴衆は、お話が醸す「魔法」を堪能した(と思う)。

事前に「5分前着席」を呼びかけ、「語り」に先立つ「ミニレクチャー」が始まると同時に入場を制限したことも、雰囲気作りに大いに役立ったのではないだろうか(主催者挨拶では、携帯の電源をoffにすることもお願いした)。さらに、解説や説明は、語りの始まる前に集約し、「語り」だけの世界を楽しめたこともよかったように思う。

この会が成功したのは、聴衆のみなさんに拠っていることが大きい。雰囲気が作られたとしても、お話を楽しんで聞いてくれる聴衆がいなければ、「語り」は成立しないからである。昨日のよき聴き手のみなさんには心からの感謝を申し上げる。ありがとうございました。

大きな「ぽか」はなかったと思うが、誰しも「記録」のことなど思い至らず、現場を伝える写真がないのが、少し残念である。しかし、語りの場に、記録が目的であったとしても、人がうろうろしていたら、聴き手どころか語り手の集中力を欠いたかもしれないと、今となっては、よかったのではないかと思っている(直前にICレコーダーでの記録は準備していただいたのであるが)。これも、カメラ嫌いの私や先端機器嫌いのH先生ならではの怪我の功名かな。

デイヴィッドのスピーチ原稿は、事前にいただき、準備は整えていたものの、彼は、原稿を読むということを嫌い、ミニレクチャーの内容は、予定のものとは大幅に違うものとなったので、通訳係の私が緊張し、少々あせってしまったのが反省点か。しかし、ミニ・レクチャーといっても、「語り」にも似た彼独特のパフォーマンスであり、ゆっくりお話くださったので、みなさんにとっても解りやすかったのではないかと思う。

<お話>

●「女たちの望むもの」(「アーサー王伝説より」)
●物語詩「詩人トーマス」
●「あざらし女房」

デイヴィッドの語る「あざらし女房」は、我々がなじんでいるものと少し異なるものであった。このお話は、「羽衣伝説」によく似ているのであるが、デイヴィッド版は、さらに悲しみを誘うもので、うるうるしてしまった。

スコットランドのストーリーテリング

昨日、少し早めに学校に行き、「スコットランド語りの世界:デイヴィッド・キャンベルの語り」を告知する看板を作った。原稿を作ったり、倉庫のカギを借りたり、倉庫に行って看板を持ってきたり、原稿を拡大コピー機で大きくしたりなど、私たち(私と常勤のH先生)にとっては、「肉体労働」だった。だって、縦3メートルぐらいの「ブツ」をあっち、こっち持ち運ぶのだもの。

できあがった「スコットランド語りの世界」立て看板は、その労働の密度とは、情けないほど反比例するシャビーな出来だった。しかも、今回のコンサートは、なぜか、いつの間にか某研究所が絡んできての開催となったのである(某研究所は、予算を消化できていないという事らしい)。まぁ、私としては、開催できれば問題はないのだけれど、「主催者挨拶」とか、いろいろ考える事もあるのだ。

で、某研究所のどなたかが、あのシャビーな看板を見て、見るに見かねて作り直してくれないかなと、ひそかに思っている私である。金は出すけど、仕事はしないのかなぁ。

というわけで、一般聴講のみなさんにお伝えします。正門に看板はあれど、全然目立っていません。1メートルぐらいの至近距離にいかなければ、見えません。何のための看板か!(涙)

正門を入ったら、ひたすら前に進んで、「パレット・ゾーン」をめざしてください。しかも、会場の「アートホール」は、現役の学生も余りよく知らないのです。「アートホール」は、「パレット・ゾ-ン」の奥にあります。どうか、時間に余裕を持っていらしてください。

あぁ、大きなポカをしなければいいのだが…。

語り手の椅子

カメラ嫌い、写真嫌いの私が、はじめてブログにアップした記念すべき写真です。おかげさまで無事に帰ってきたものの、放りだしたままのカメラをPCに取りこんで、リアル写真を注文してくれたのは夫でした(ありがたや!)。しかし、そこから先は自分でやらなくてはと、何とかがんばってみました。やったー!

これは、湖水地方にあるタフィー・トマスのストーリ-テラーズ・ガーデンにある「語り手の椅子」です。私たちが訪問した時には、あいにくの雨模様で、語りを聞いたり、紙芝居を楽しんだのは屋内だったので、ここでゆっくりお話を楽しむことはできなかったのですが、記念に写真を撮りました。

これでようやく旅行記が書けるというものです。
20070726063123.jpg

最近の読書(昔話)

E=ラーニング大学の授業で「昔話」に関するレポート課題を出した。昔話分析、類話比較、昔話解釈などさまざまなアプローチがあるが、受講生は四苦八苦のようで、「再提出」に嫌気がさして「だんまり」を決めこんだままの学生もいる。出してくれなきゃ単位出せないんですけど…。

昔話に関しては、小澤俊夫先生の「昔話大学」「昔話大学再話コース」で学んだことが「財産」(授業のネタ)となり、さらに継続的に自分でも文献を読んできたつもりである。最近、授業で『古事記』について話したこともあって、三浦佑之先生の著作に集中的に触れ、たくさんの刺激をいただいた。なかでも、『昔話にみる悪と欲望:継子・少年英雄・隣のじい』(新曜社)は、わくわくしながら読んだ。とくに、英雄譚を扱った章は秀逸で、神話の英雄が昔話の英雄に変容(矮小化)してゆくという考察は説得力があった。

また、「笠地蔵」や「こぶとり」についても、共同体の秩序や意識という視点を照射することで、昔話の新しい側面が見えてくるのは刺激的であった。神話を専門にされている三浦先生ならではの視点であるし、『古事記』そのものへの関心もさらに広がった。

研究や講義が先人の知の蓄積があればこそ可能であるということが、昔話関連の本を読むことで再確認できた(つまり、講義の種本がわかるってことです)。日本の昔話関連書籍の一部を記しておく。

●稲田浩二編著『昔話の年輪80選』筑摩書房
●武田正『昔話の発見:日本昔話入門』岩田書院
●三浦佑之『昔話にみる悪と欲望:継子・少年英雄・隣のじい』新曜社
●吉沢和夫『民話の心と現代』白水社


「ちくりんぼう」を語る

一年生のクラス(大学生です)で「ちくりんぼう」を語った(読んだ)。笠原政雄さんの『雪の夜に語りつぐ』(福音館書店)に収録されているものだ。

この作品は「三枚のお札」の類話で、その起源は、『古事記』の「イザナギの黄泉の国訪問」のエピソードにまで遡ることができる。笠原さんの「ちくりんぼう」のおもしろさは、なんといっても、「グレート・マザー」あるいは、「母なる自然」を連想させる山姥にある。頭の中にはムカデやトカゲがちょろちょろしていたり、小僧のおしっこを「つうつう」飲んでしまったりする山姥である。笠原さんと同じ新潟県出身の池田チセさんが語る「三枚のお札」の山姥はそこまでしないし、こちらのほうが人口に膾炙していると思う。しかし、私はこの笠原さんの語る山姥が好きだ。昔から、山姥が出てくる話が好きだったこともあるが、笠原さんのこのお話を知った時から、さらに「山姥」について考えるようになった。

ところが、この話を「きもい」「変態」といって、片づけてしまう学生がいる。「きもい」といってそこで思考を停止してしまったら、何の発見もないのだが、これは、昔話の言葉への過剰な反応であるとも思われる。さいわい、先日の一年生は「おもしろい」「イメジがはっきり頭の中にうかんだ」と楽しんでくれた。ただし残念なことに、彼らにはほとんど昔話体験がないことが判明した。とくに、語ってもらった経験のある学生は皆無であった。

最近、さまざまなところで「語り」の場がひらかれていると聞くが、実際には、まだまだなのだろう。今からでも遅くないと思い、今年の一年生には「物語」にたくさん触れることができる授業をめざしている。

●池田チセさんの語りは、『おばばの昔ばなし』(水沢謙一著/野島出版)に収録されている。

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

月別アーカイブ

最近のコメント

プロフィール

わしこ

  • Author:わしこ
  • 無断転載ご遠慮ください。
FC2カウンター
最近の記事
カテゴリー
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。