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横浜の図書館は…

つねづね「横浜市立図書館のコンピュータ検索は使えねぇ」と思っていた。とくにタイトル検索では、実に正確に入力しないと引っかかってこないことが多いなという印象を抱いていた。それは、タイトルでは引っかからないときに、「蔵書していないはずがない」と確信して、著者名で検索するとヒットするということがしばしばだったからである。

で、また本日も一件あった。今回の場合は、主タイトルの<>がついていないとダメだったのである。またこの<>も〈 〉(山括弧)でないと探し出してこないということがわかった。まず私は<>で入力し、<>を外して入力し、いったん方針を変えて著者名で入力したら件の図書がヒットしたのである。そこで、確認のために、山括弧を使って入力したらヒットしたのである。もちろん副タイトルのみで入力してもヒットしなかった。<>と山括弧を使い分けることができる人は誰だ! これはもう印象ではない。タイトルなど記憶が曖昧な場合もあるのだから、もう少しなんとかならないものだろうか。やっぱり、この図書館システムは、じつは「借りて欲しくない」「使って欲しくない」という意識が底流しているように感じられる。朝から「オコちゃん」のわしこである。
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図書館の個人情報

貸し出し記録などの図書館の個人情報は残すことがなく即座に消去されるらしい。そのことを知ったのは、ある絶版本が紛失した(おそらく不正に持ち出された)ということがあった時である。某女史が件の絶版本を県立図書館から借り出して返却した後にことは起きた。利用者情報がすでに消去されていて、その後に借り出した人を特定できないと知らされたのである。詳しい状況は記憶のなかに紛れてしまったのであるが、たまたま県立図書館で働いていた人も私も、某女史がその絶版本を提供してくれた勉強会(主催はわしこ)に出席していたため、私にも問い合わせがあったからである。というか、私には手に入らなかった絶版本を資料として借りてきてくれたのが、某女史だったというわけである。図書館における個人の利用記録が残されているのは非常に不愉快であるが、それにしても、このような事案があることを想定してシステムを構築すべきであろうとは思う。

ところが、期せずして図書館の個人情報が見え隠れすることもある。昨日借り出したペイターさんの著作に貸し出し情報記録と資料情報の検索結果が挟まれていたのである。ペイターさんの著作など手に取る人などいないと思いこんでいた私は無知にも程があるが、2014年1月に書誌情報を入手したことがわかる図書館からの伝票(?)が一枚、2013年5月にK図書館から発行された貸し出し情報が一枚挟まっていた。こちらの方は、図書カードの下4桁まで記載されていて、本来ならば、利用者本人が廃棄すべきものであろう。

13年ペイター氏は同時に『ドン・リゴベルトの手帖』『われらが歌う時 上』『日露戦争史 2』を借り出している。ペイターとともにこのような読書生活を送っているとは、どんな人なのだろうとちょっと興味がわく。私が推理作家ならばこれをネタに何か作品を書きたいところだ。たかが貸し出し記録、されど貸し出し記録。

ああ、図書館の本に…

ああ、前回のエントリを訂正しなくてはいけない。なんとなれば、あんなことをいった私が、図書館の本に付箋を貼ってしまったのである。 だって、コピーするのだもん。あのペイターさんの著書(翻訳)が図書館にあることがわかって、とりあえず手に入れたのだ。何回読んでもわからないし、とりあえず、コピーできるところはコピーしとかなきゃという思いに駆られて、付箋貼りました(もちろんコピーは一部で、全部はしません)。すんません。なるべく早く作業を終了して、のりの成分が付着し本体を劣化させないように努力します。

コンピュータだって不具合が起こることもあるということがわかった今日。一悶着あり。

図書館の本は…

私は自分所有の本の扱いは丁寧ではない。むしろ雑に扱うというほうが正しい。広げたままにしたり、また、そのままひっくり返しておいたりもする。書店カバーはつけないし帯もとる(書名が解らないと困るからである、もちろん)。付箋や書きこみも思いのまま。場合によったら、ボールペンの調子が悪く、ぐるぐると試し書きがあったりする。何回も読んだ本には色違いで下線や傍線が引いてあったりするのもご愛敬だ(そして、自分の記憶の悪さに自己嫌悪にも陥ったりする事もある)。

しかし、テレビを見ながら読書する事はあっても、食べながら本を読んだりはしない。とはいえ、何かの拍子に近くにおいてあった飲み物が倒れたりして、ということはある。したがって、滅多にない事であるが、たまに人に借りた本の扱いにはけっこう気を遣う。まずは、カバーを掛けてからの読書となる。自分の本の中に紛れ込まないように読書中の置き場所にも気を配る。そんなわけで、ずいぶん前の事になるが、私が貸してさしあげた本(自著でした)に誇らしげに付箋を貼っているのを見せられたときには「びっくりぽん」だった。彼女は図書館の本にも付箋を貼り、その後、その部分を記録しておくのだそうだ。へー、そーなの。

このところ、エンタテイメント系の本はほぼ100%(といっても無理はあるが)図書館で借りる事にしたので、図書館の本を読むことが多い。これがほんとに不潔で汚い本ばかりなので辟易している。おり皺、いわゆるドッグイヤーといわれるのもで、ページの端をおってあったり、シミがついていたり、食べ物のかすや意味不明のものが挟まっていたり、不愉快な事甚だしい。

横浜市立図書館は人口比に対して図書館の数も少ないし、一人あたりの資料費もおそらくたいへん低い部類にはいるだろう。「横浜って素敵!」って思う事もないではないが、税金は高いし、文化度も低く、ほんと住みにくい。

中学校の図書館

2週続けて行った東横線沿線にある私立中学校の「英語でのおはなし会」が終わった。「わしこの英語塾」としての本格的な発表会でもあり、それぞれにたいへんな思いをしたけれど、楽しく意義深い経験であった。協力してくださったN先生に感謝。ありがとうございました。

それにしても、すばらしい学校図書館であった。私は、レファレンスコーナーにあった『国歌大観』『希臘語辞典』にまず度肝を抜かれてしまった(『国歌大観』を生徒が使うことはまずないだろうが)。広さは公共図書館の小さい分館レベルなのに(もっとこぢんまりしていたかも)、レファレンスコーナーの充実ぶり! 確かに中学校の図書館であるから「学習」のための資料が重要であることは了解できるが、9類だってほかと比べて決して遜色ないのだ。伺うと、書籍の年間予算は200万円だそうだ。中学校だけの予算だから、決して多い方ではないという(私立のなかではということです)。

また、1年生には週1回「図書の時間」が設けられていて、彼らは1年をかけて「図書館の使い方」から始まる「図書館の資料を活用するための教育」を受けるのだ。自分の中学校時代の図書館の貧しさを思いだすと羨ましすぎて、ため息がでてしまう。

おりしも、昨日の夕方大きくニュースで取りあげられたのは「新潟県の中学校司書の図書館蔵書転売・横領事件」だった。数年間にわたっての「転売・横領」が、学校司書が変わってはじめて発覚したそうである。夫は、「如何に学校図書館を教師も使っていなかった事の証明だ」というが、確かにその通りであることが、ニュースで流れた映像からはっきり解った。

新潟県の当該図書館は人の気配のない、ただ本の入った書棚がずらりと並んでいるだけの図書館であった。図書館にはおきまりの、書棚につけられた分類コードすら見えなかった。つい数時間まえに目にしてきた、人に使われ、愛情をかけられて育てられている図書館とは大違いであった。私が2週にかけて伺った図書館の書棚の横には、生徒たちを読書に誘うために、さまざまな情報が貼られていた。『はらぺこあおむし』の各国語版タイトル(20ヶ国語はあったように記憶している)。「センダックが亡くなったことを知らせた新聞記事とセンダックの絵本の紹介」など、さまざまな分類の棚に、それに相応しい情報が提供されていた。

図書館は人がいて図書館であるし、人に使われて図書館になるのだ。

図書館システム

横浜市の図書館予約システムが1月から新しくなった。欲しい本が揃わないし(絵本が揃わないことが多い)、人気の本はいつ廻ってくるかわからないので(『船を編む』は800人ぐらい待っている。私はとっくに買って読んでしまったけれどね)、研究書系は、自前で買って線を引きまくったり、書きこみをするし、洋書はないしで、正直、私にはあまり有益ではない。しかし、それでも、たまに確かめたいものがあって、アクセスすることがある。

新しくなった予約・検索システムが使いにくいことこの上ない。「予約」したつもりが、予約されていなかったり(いや、システムの不備かもしれぬ)、続けて検索したいのに、画面が戻らないとか。いろいろ不都合があり、いやもう、こりごりだ。夫に訊いてみたところが、彼も同様な感想を持っていた。

事によっては、あれか? 横浜市はシステムを使いにくくして、図書館利用を抑えているのか? という嫌味の一つも言いたくなるのよう状況である(旧システムも必ずしも使いやすいわけではなかった)。ほんと、困る。何とかしてくれー。

公開講座(学校図書館活用授業入門)

昨日は、非常勤で出講しているY大学の公開講座「学校図書館活用授業入門:情報リテラシーを育てる」に参加した。講師は、帝京大学の鎌田和宏先生である。第一講目の講義では、小学校の教師であった鎌田先生の豊富な実戦経験や、先進的な図書館活用教育を実践している学校の事例を紹介して頂きながら、「図書館活用教育の意義や具体例」を伺った。

現場の教師が図書館活用教育の経験がないし、また、「知識伝達」が教育であるという認識がまかり通っている現状では、組織的に、あるいは学校ぐるみで「図書館活用教育」に取り組むことが困難であり、「図書館活用教育」を具体的にイメジすることは難しいだろう。しかし現在は、PISAの事もあり、ようやく文科省レベルで図書館活用教育の必要性を認識してきているようだ。

<読書は、児童の知的活動を増進し、人間形成や情操を養う上で重要であり、児童の望ましい読書習慣の 形成を図るため、学校の教育活動全体を通じ、多様な指導の展開を図ることが大切である。このような観点に立って、各教科において学校図書館を計画的に活用した教育活動の展開に一層努めることが大切である。>

上記は学習指導要領の総則であるが、この記述からも、文科省のスタンスが窺えるし、教科書(国語)にも図書館利用を意識した教材が掲載されている。どうやら、この辺から「図書館活用教育」の突破口が開ける可能性があるのではないかと思われる。横浜市も公立の小中高、特別支援学校(全501校)に学校司書配置の予算措置を取ったということがニュースになった。図書館には、まずは人がいないと機能しない。平成25年度は、「学校司書の配置」に6900万円の予算が計上されていて、平成25年度は125校に学校司書を配置し、平成28年度までに全校に配置するとしている。この予算が妥当かどうか、雇用形態はどうなるのかが(無資格のボランティアに丸投げされたらどうなることか!)まったく見えてこないのは問題であるが、風が吹いているとは感じられる。

講座の二講目は、情報リテラシーを育てるための「ワークショップ」が行われた。資料を読み、そこで得た情報をどのように「表現」(レポート、プレゼンテーション)につなげてゆくのかという訓練である(情報の可視化と対話)。さまざまなレベルの方法があるが、昨日のワークショップは「情報カード」を使ったものであった。とても興味深い訓練であったが、受講生の一人であった現場の教師からは、現状とのあまりのギャップに戸惑いを思わせるコメントが出てきた。

門前の小僧の私は、夫にくっついて先進的な図書館活用教育の実践に親しんでいるので、違和感を持たなかったが、図書館の資料を使った情報リテラシー教育の段階をシステマティックに知らなければ、想像もつかないレベルの教育だと感じられたかも知れない。また、一つ一つの教科授業が有機的に結びついていない現状では、前途多難であるとさえ感じたかも知れない。

情報カードの素材として使われたのは「南方熊楠」であった。彼については、在野の研究者であるという程度の認識しかなかったが、鎌田先生の熊楠への愛情あふれるお話から、熊楠について知りたいという欲求が芽生え、今朝方、本をポチリと注文してしまった。鎌田先生と書いているとなんだか別人のことを語っているみたい。我が家ではいつも「鎌ちゃん」である。

図書館の本

松岡正剛の『千夜千冊』を2冊図書館から借り出した。ほぼ『広辞苑』が2冊である。紙袋の底が抜けそうだった。

今日から学園祭休暇である。夫も島根へ学校視察に出かけ留守なので、松岡正剛週間になるだろう。ふ・ふ・ふ。

「うまい!」

本を読んで「面白かった!」と感じることはたびたびあるが、「うまい!」と膝を叩くことはめったにない。ミステリだって嫌いじゃないし、東野圭吾などは「面白い」とは思うものの、今まで「うまい」とは感じたことはない。トリックや伏線が複雑に絡み合い、細部にまで緻密に計算された物語を読まされている感があって、読者の側の謎解きや推測など最初から許されないと感じながら読むからだろうか。

久しぶりに「うまい」と思わず呻ってしまった作品にであった。門井慶喜の『おさがしの本は』(光文社文庫)である。ビブリオ・ミステリに分類されるらしい。

舞台は、N市立図書館のレファレンス・カウンターである。図書館などとは縁もなさそうな短大生が「シンリン太郎」についてレファレンスを求めてくるところから、第1話「図書館ではお静かに」は始まる。「なんだ、鴎外のことではないか」と「ふふふ」と笑ってしまった私はもう作者の掌にのせられている。さまざまな蘊蓄が嫌味なく語られる中で、こちらの期待を心地よく裏切ってくれる。さすが、レファレンス・ライブラリアン。

さらに、市議会文教常任委員会で図書館廃止論者の館長(市長のブレーン)に対して、主人公の和久山孝彦が説く図書館必要論は非常に説得力がある。これは図書館学徒必読の小説であろう。

図書館を廃止しようという首長が登場したり、『太陽の季節』の例の場面についての記述(剽窃ではないらしいが、例の場面は先行例があるのだ。知らなかった!)など、私は途中から痛烈な石原慎太郎批判と読んでしまったが、誤読ではないだろう。多分。それとも、現在、図書館の廃止を考える(存在意義を疑う)首長など累々といるのだろうか? 

1664人待ち!

ブックモービルが敷地内に来てくれるようになって、ほぼ1年半経った。いろいろあって毎回利用できる訳ではないが、急がない本や仕事以外で読みたい本などは、ブックモービル「はまかぜ号」に頼っている。車に乗っている本は3000冊程度であるが、リクエストで本を取り寄せてもらえるのでなかなか重宝している。本代が減ったという明らかな数字は出ていないし(そう願いたい!)、ことによったら駄本(ひまつぶし)のリクエスト率があがり、結果的に時間を無駄づかいしているだけかもしれないが…。いずれにせよ、ありがたい。

というわけで、宮部みゆきの新刊『章暮写眞館』をリクエスト中である。なんと、1664人待ちである。この作品は、中央図書館の73冊の複本所蔵、分館17館の20冊所蔵をあわせて93冊がいまやフル回転しているということになる。でも、読めるのは何年先だろうか? 順番が回ってくる前に文庫になってしまったら悲しい。そしたら、文庫に手をのばしてしまうではないか。 

にわかに横浜市立図書館の状況に興味がでてきたので、少し調べてみた。まず、リクエスト率が一番高い本は、村上春樹『1Q84』(book1)で3097人待ち状態である。また、この本は、中央図書館と分館をあわせると100冊所蔵しているということだ。みんなそんなに村上が好きなのか、と少々驚きである。しかしこれはおそらく、メディアの華々しい広告戦略が功を奏した結果なのかもしれない。「そろそろ格安で『ブックオフ』に山積みされるのでは」というのは知人の弁である。

さて、横浜市の人口は368万人である。市立図書館の予算は、今年度14億6533万円で、そのうち「図書館資料の収集・整理」「図書館資料を管理するための書誌データの作成」「利用者の調査研究支援等」に使われる「調査資料事業費」は2億4200万円である(昨年は2億6500万円)。この2億円あまりのお金がすべて書籍・資料代に使われる訳ではないだろうが、単純計算すると、横浜市民一人あたり、約66円ということになる。計算間違いではないかと思ったが(ゼロが沢山つく大きな数字は大の苦手)、やはり、間違いないようだった。66円って、この数字が安いのか高いのか、そちらの専門ではない私にいは解らないが、「一人66円でも、塵も積もれば山なんだな」という思いと、「市民一人あたりの図書費がたった66円だなんて、バカにしてるんじゃないの」という思いが交錯しあっている。

推理小説に出てきた「ヤバイ」司書

相場英雄の『みちのく麺食い記者・宮沢賢一 奥会津三泣き因習の殺意』(小学館文庫)に、とんでもない公共図書館員が登場する。エンタテイメント小説にいちゃもんをつけるのも如何なものかとも思うのだが、細部に正確さやリアリティがあってこその「フィクション」であろう。

そこに登場する痩せた中年の女性司書は、主人公の宮沢賢一に郷土資料室(書庫)に案内し、目当ての資料の閲覧者を教えてしまうのである。

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司書は書物の表表紙についた整理番号を見た。
「この本を閲覧した人をデータベースで検索しましょう」
司書は棚の間から出ると、書庫の入り口近くの古いパソコンのキーボードに向かい、整理番号を打ちこんだ。(p152)
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このようにして、彼は殺人事件に関する重要な情報を手にするわけだが、これは、図書館人として禁忌行為である。さらに、この女性司書は(司書と書いているぐらいだから、専門職であるとの知識は作者にはあったのだろうが)、禁帯出の本まで貸し出してしまう。

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「この本、お借りできませんか?」
「書庫の本は原則貸出禁止です」
「そうですか……」
「でも、記者さんなら特別にお貸ししてもいいですよ。ただし、予備の本が一冊しか保管されておりませんので、丁寧に扱ってください」
 司書は素早く書籍をめくり、ページに抜けや破れがないかを確かめた、その後、頬を赤らめながら、本を宮沢に差し出した。(p154)
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この司書がなぜ頬を赤らめたのかというと、彼女はこのダンディな宮沢に参ってしまったからである。なんと、私情で、「原則貸出禁止」の本を貸してしまうのである。あーあ。

何かを判断するときには自分の限られた知識や情報の中でするしかないが、この図書館員像から自ずと作品の価値も知れる。宮沢賢一も浅見光彦の二番煎じのようだった。

学校図書館の改造

「学校図書館の改造」に関するDVDを立て続けに2本見た。両方ともごく短いもの(鶴岡のものは20分程度、島根のものは47分で4校収録)であるが、ポイントを突いていて、「子どもたちの来る学校図書館」とはどのようなものなのかがはっきり解るようにつくられている。

レイアウトや本の整理などといったハード面に関するリニューアルは、経験者のアドヴァイスが不可欠であり、DVDなどの視覚情報もたいへん有効であることはいうまでもない。しかし、私の興味をひいたのは、図書館改造に「誰が」関わるのかという点であった。

私が見たDVDではどの図書館も、校長を始め教師が一丸となって、棚を動かしたり、取りつけたり、本を整理していた。中には、子どもたちが本の整理に関わっている姿もあった(鶴岡市の小学校)。自分たちが身体を通して関わった図書館に興味をもつのは当然といえば当然。棚の整理をしながら、教員たちは、今まで目につかなかった本の存在に気づき、「使える本」として認識されたかもしれないし、子どもたちは、自分たちが整理し、配架した本に愛情を感じたに違いない。「本の住所」にも興味をもった事だろう。

何から何まで「おんぶにだっこ」で、だれかさんに「丸投げ」したとしても、結局、相変わらず「使われない図書館」のままではないだろうか。いちばん恩恵を受ける人が関わる事の大切さがいたいほど伝わってくる。

島根県の学校では、どんなに小さな学校(全校生徒37名)でも、専任の学校司書が配置されていて、活き活き活躍していたのも印象的だった。学校図書館は人がいて、開かれているからこそ価値がある。

そういえば、私が小学校のころ、母が「図書の整理と修理」の仕事に意欲を燃やしていた事があった。PTAの活動の一環だったのだろう。しかし、図書館そのものが「開かずの図書館」だったため、彼女の意欲も無駄に終わってしまったと記憶している(整理・修理の作業は、どうやら一時的な「行事」で翌年に持ちこされる事はなく、また、整理されたり修理されたりした本を子どもたちが手にすることなく、図書館は閉じられたままだったからだ)。残念な事であるが、多くの学校図書館に関しては、あれからほとんど進歩していないことこそもっと残念だ。

<私が見たDVDの書誌>

●柳田昭彦制作。五十嵐絹子シナリオ。『学校図書館ビフォー・アフター物語 山形県鶴岡市立藤島小学校:映像と資料、学校図書館リニューアルの実際』、日向工房。
●島根県教育委員会制作。『学校図書館大改造:教職員の協働による学校図書館の整備』。

配架?排架?

図書館の図書や資料を書棚や特別な場所に並べることを「ハイカ」というが、私はずっと「配架」と表記すると思っていた。しかし、「排架」と表記することもあり、こちらの方がより人口に膾炙していることをきいた。いや、「排架」のほうが正しいとされているらしい。特殊な専門用語であるという理由からか、この意味での「ハイカ」という語は、『日本国語大辞典』には採用されていない。

手元にある図書館関係の書籍を確認してみたところ、「排架」が一件、1998年に出版されたときには「排架」を採用し、2009年の新シリーズへの移行に当たって改訂された版では「配架」を使っている例を一件見つけた。

「排架」ではなく「配架」という言葉を使うことを意識的に提唱しているグループの存在もあるらしいことも解った。英語では shelving という語が使われている。shelfというごく普通の名詞を動名詞化して使っているわけで、特殊性を感じさせることはないが、『リーダース英和辞典』には、shelfの動詞として「(書物などを)棚に入れる」という語義は与えられていない。しかし、shelving という言葉から、本を棚に入れる行為をイメジすることは難しくない。

白川静先生の『常用字解』では、「排」という字は「二つ並んでいるものが、他の一方を儕(お)すの意味」、「おす、おしのける、はらう、のぞく」のほか「ならぶ」という意味に使うとあり、「排列」という言葉もあるわけで、間違いとはいえないだろう。けれども、「排架」といわれると、私は、「排」という字から「排除」「排撃」を連想してしまい、図書館員が、ぎっちりと詰まった書棚の本を押しのけて、別の本をぎゅうぎゅうと押し込んでいる姿すらイメジしてしまうのである。

『日本国語大辞典』によると、「排列」も「配列」も両方使えるとされているが、歴史的には「排列」という語の方が早い段階で使われていて(初出は『正法眼蔵』)、「配列」が使われ始めるのは、20世紀にはいってからだということが解る。

小学校へ

読み聞かせボランティアに出かけている小学校へでかけた。学校図書館について、校長先生始め関連の先生方の理解を深めていただくための「プレゼン」が目的である。

大学教師として日頃感じている学生の読書力や日本語力の問題、読書の意義について軽く触れつつ、子ども時代の読書の大切さについてお話しし、小学校の図書館を整備し、子どもたちに「読書の場」を提供するために理解と尽力をお願いした。いくつか資料を持っていったが、とくに、『こうすれば子どもが育つ学校が変わる』に提示されていることを中心にお話しした。

最初は、校長先生も私も緊張していたのだが、途中、校長のテンションが「フッ」と変わり、『こうすれば…』の図書館のレイアウトにじっと見入っていることに気がついた。彼の中で、「学校図書館」がイメージされ動き始めた瞬間だった。スペースの確保など困難な問題は立ちはだかっているが、校長先生が学校図書館について何か「ひらめき」を感じてくれたことがよくわかり、その点では、今日の訪問は成功したといえる。これは、五十嵐絹子さんが朝一小に赴任したとき、「図書館を本のレストランにします」と宣言し、まず、カフェカーテンを取りつけたエピソードが効いたらしい。

誠に残念なのは、図書主任の女性教諭の姿勢である。第一声が「何をしたらいいのか、お母さんたちがいってくだされば、こちらはそれを検討してできるか、できないかお伝えします」というものであった。明らかにこちらの意図を誤解している。彼女は、学校図書館の本質的なあり方を考えるつもりはサラサラなく、実務的な点でのみ処理しようとしているようだった。また、「子どもたちは、年間平均何冊ぐらい本を読みますか?」という私の質問に対しては、「統計は取っていません」と怒ったような口調で答えるのであった。別に、学校を批判しているわけではなく、現状を把握したいための質問であったのだが、それがお気に召さなかったらしい。

いや、「何か」がお気に召さなかったというより、PTAの母親たちが何かを求めて学校にやってくることがお嫌いのようで、「イヤイヤオーラ」が出ていた。この教師は、子どもたちがどれほど本を読んでいるのかについて具体的に把握していないにも関わらず、使える学校図書館があるからこそ子どもたちは読書するのだという話になると、「子どもたちは本を読んでいます」ときっぱりおっしゃる。ほんとかなぁ。この学校は、図書資料が図書館と廊下の学年書架とに分散されていて整理が行き届かないのである。この理由についても、別の女性教諭が「本は身近にあるのがいちばんいいから」とおっしゃった。「学校図書館」っていちばん身近な図書館じゃなかったけ?

「先生方も図書館をお使いですよね」と水を向けると、「当然です、授業の準備のためには他の図書館(公共図書館)にも行ってます」とおっしゃる。ほんとかなぁ。まぁ、とにかくこちらのひと言ひと言に突っかかり、ご自分が非難されていると感じてしまわれる人らしい。困ったもんだ。「大学の先生だかなんだか知らないけれど、偉そうにやってきて(私は昨日はとくに低姿勢)、専門家だからとうるさいこといわないで頂戴。まったく。仕事がふえるわ!」てなもんだ。

最後には、夫からということで校長先生に差しあげた『こうすれば子どもが育つ学校が変わる』を是非是非読んでくださいとお願いしてきた(「一杯やりながら読んでください。元気が出ます」と言って)。読んでいただけるとうれしいのだが。

人もいないし、金も出せない(横浜市は学校図書館整備について大きな口を叩いているくせに小学校の学校司書については鐚一文も金を出す気がないそうだ)、ないないづくしであるが、希望は捨てないぞ。

ボランティアの責任

小学校での「読み聞かせ」ボランティアについてのお話。

ボランティアのメンバーの一人が「ドタキャン」をして、お世話係さんがピンチヒッターを捜していると聞いたので、「お休み」にしてあった16日は返上しなくてはいけないかと、思っていたのだが、そこはどうやらやりくりがついたようだ。

しかし、この人は(例の人です)、前学期にも「娘がお産だから」という理由で、「ドタキャン」があった。今回の理由は、「母親の怪我」らしい。確かに、「怪我」という突発的な出来事では、仕方あるまいと思うのだが、一週間に一回、しかも、朝のほんの短い間の「読み聞かせ」にも時間がとれないのだろうか? と少々、不思議に思った(往復の時間の余裕を見ても45分で終了)。精神的にそれどころではないのかもしれないが、しかし、私は、そこに「無責任さ」を嗅ぎとってしまうのである。

「できるときにやるのがボランティアでしょ」という開き直りである。ボランティアだとしても、いや、だからこそ、心して参加すべきではないかと、正論をぶつけたくなってしまった。

えきさいてぃんぐー!

「読み聞かせボランティア」にゆくことになった小学校の図書館はやっぱり「開かずの図書館」だった。「読み聞かせ」のある金曜日だけは、ボランティアの便宜のために開けてあるが、日常的に貸出がなされている図書館とは思えなかった。子どもたちに読まれない資料や本はまるで「死んで」いるようで、書棚に押しこめられている本の気持ちを思うと忍びなく、悲しかった。

低学年の先生は、図書館からめぼしいものをピックアップし、教室の外の空間の本棚に学級文庫として設置しているようであるが、となると資料や本が学校全体で共有できない(でも低学年はまだマシらしくて、高学年の学級文庫は「悲惨」(お世話係さんの言葉)だそうだ。しかも、図書館には「目録」らしいものも目につかなかった。本の整理はどうなっているんだ! ボランティアの要請を受けて購入した本や新刊本は「別置」になっている。図書館に人が常駐していないとは、こういうことになるという「モデル」のような図書館であった。これは、校長の許可を得て、記録写真を撮っておくべきかしら。「パソコンルーム」と称されている部屋の一部も(壁のまわりには本棚がある)、机の上にだらしなく事典類が積まれていた。

ボランティアの打ち合わせが先日あり、途中、校長先生が挨拶に来たが、彼は新任(中学校から異動)で、国語の教師のくせに「読書嫌い」で、本は読まないのだそうだ。各学年3クラスの18学級なのだが、司書教諭は配置されていないらしい。その点について、校長に確認したかったのだが、さすがにはばかられた。「図書係」の先生は、去年に引きつづき2年目であるとのことであったが(かつては毎年変わっていたという。もちろん打ち合わせにはいらっしゃらなかった)、専科の先生にお願いしているあたり、この小学校の図書館に対する姿勢もうかがえるというもの。読み聞かせは、学習支援隊として位置づけられているようだが、実際は、ボランティアに丸投げ状態のようである。

しかも、ボランティアの姿勢が、<各自、読みたい本を読みましょう(資料参照)>というものである。私と同じ子どもの保護者でない新参のおばさんが、「自分の読みたい絵本がすでに読まれてしまったときには、時をおいてもう一度読んでいいのか」「自分の読みたい本が読めなければやりがいがない」といったときには、とうとうキレた私である。「自己実現のために読み聞かせはするべきでない」と。というわけで、自己紹介では自ら自分の職業をバラし(しばらくはおとなしくしているつもりだったのに)、たとえボランティアであろうとも、一人の人間としての読書生活の中で「読み聞かせ」を捉えること、「自分の好きな本」ではなく「子どもの心によろこび」を伝える本を読むべく、私たちは勉強しなくてはいけないのではないかと、ぶち上げてしまった。

そんなわけで、ボランティアのお世話係さんの依頼を受けて、早速「勉強会」をすることになった。しかし、いちばん熱心に勉強していると思われるお世話係さんでさえ、ちょっと話のついでに出た作家の作品すら知らないことにびっくりした。斎藤敦夫さんのお嘆きというかお怒り(『母の友』)がよーくわかる。また、彼女のお話によると、この小学校ボランティアはまだレベルが高い方なのだって。では、そうでないところはどんな状態なのであろうか。想像するだにおそろしい。

石井桃子さんが『児童文学の旅』に、彼女が日本の困難な状況を語るたびに、みんなは"How challegeable! " "How exciting! "といって励まされたとお書きになっていたが、私もこの「ちゃれんじゃぶるでえきさいてぃんぐー」な状況をよろこびとし、ひとつひとつ積みかさねてゆかなくてはいけない。

ところで、このことが原因なのか定かではないが、自己紹介のあと「ふわっ」という感じがして、何となく血圧の上昇を感じ、頭痛がきた。翌日になってもその「感じ」は直らず、おそるおそる血圧を測ってみたところ、血圧計は尋常でない数値を示していた。びっくりして(医者は大嫌いで行きたくないのだが)、敷地内のクリニックに行った。医者には「救急車もの」と脅かされて、薬を処方していただいた。いまは落ちついているのだが、さすがに「こわくなった」わしこである。最近は、<学生からのハラスメント>とでもよぶべきものにずいぶん悩まされていたこともあるので、ストレスがたまっていたのね。

●最近、アダルトサイトからの品性下劣なコメントが少なくなりましたので、試験的にコメント欄を再開したいと思います。

石井桃子さんと児童図書館

このところ石井桃子さんの著作や石井さん関連の著作を集中的に読んだ。その中でとくに問題意識を刺激されたのは、『ユリイカ<特集石井桃子:100年のお話>』に掲載された松岡享子さんの「石井桃子さんと子どもの図書館」である。

松岡さんは当該評論で、石井さんの業績はさまざなな点から論じられているが、石井さんと子どもの図書館活動の関わりについて言及しているものはほとんどないとして、石井桃子さんが日本の児童図書館の歴史に果たした役割を、きわめて的確に説得力をもって述べている。松岡さんは、以下のように書く。

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[石井桃子さんは戦前にも子ども文庫の開設(白林少年館)を試みているが、彼女が]図書館についての認識を深め、かつら文庫の開設を決意したいちばんの契機は、やはり1954年から55年にかけて、ロックフェラー財団の研究員として、欧米を視察したときの体験にあると思われる。
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この視察(ある意味での留学だと思われる)については、『児童文学の旅』(岩波書店)に詳しいが、財団の研究員としての渡米が決まったとき、石井さんはまず、戦前から交流があったバーサ・マホニー・ミラーさんと連絡を取ったのである。ミラーさんは、合衆国ではじめて子どもの本の専門店を開き、のちに、子どもの本の書評誌である『ホーンブック』を発行した見識のある女性であるが、当時、ミラーさんは石井さんの北米での視察のアレンジを一手に引き受けたのである(実は、このことでALAがむくれるということも起こるのであるが、なんだかALAの権威主義的な部分が見えて、傍目にはちょっとおかしい)。

この視察旅行で、ミラーさんのアレンジで石井さんが出会った人々というのがすごい。主な人たちだけをあげてみると、アン・キャロル・ムーア、リリアン・スミス、エリザベス・ネズビット、メイ・マッシーなどで、そうそうたる顔ぶれなのである。

この人たちは、アメリカにおける児童図書館の創生期をつくった人々で、石井さんの渡米時には、ほとんどの人が70歳を超えており、すでに現役を退いていたことと思う。とはいえ、子どもの本や図書館などについては継続的に活動していたことだろうから、自分たちの経験や理想や情熱を惜しみなく石井さんに伝えたことと推測できる。

石井さんは、いわば、アメリカ児童図書館を作った綺羅星のような人々が、最後の光を放っていた時代にアメリカを訪問したといえるだろう。この視察旅行が大きな契機となって「かつら文庫」の開設に至るのである。石井さんは、かつら文庫の記録である『子どもの図書館』で以下のように述べている。

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[欧米では]児童図書館というものが、よい創作活動を推進し、またその結果を本にする出版事業の支えになり、さらにまた、その本を直接子どもの手にとどけるという三つの仕事を一つでひきうけている、べつのことばでいえば、この五十年間、子どもの示す反応から学びながら、本の指標を高め、それを堅持してきたのは、児童図書館の大きな功績だということをみてきました。(『子どもの図書館』。p4。)
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たとえば、メイ・マッシーは、児童図書館員を経て、ALAで『ブックリスト』の編集に携わり、その後、請われて、ダブルディ社、ヴァイキング社で子どもの本の編集を手がけている。彼女の編集した本は「メイ・マッシーブックス」と呼ばれ、エッツ、ベーメルマンス、マックロスキーなど絵本の古典とされているものが多く含まれている。

まさに、児童図書館が「三つの仕事を一つでひきうけて」いた時代を石井さんはつぶさにみてきたといえるだろう。そして、石井さんは、その視察旅行で得た「宝物」を文庫活動や翻訳というさまざまな形で、私たちにあますことなく与え続けてくれたのである。私たちは、石井桃子さんにいただいた「宝物」が何であったのかをきちんと知り、彼女の志をさらに次の世代にわたすべく、守ってゆかなくてはいけない。

石井桃子さん、どうぞ私たちをお守り下さい。

かつら文庫訪問記

E-ラーニング大学の学生さんと連れだって、荻窪のかつら文庫を訪問した。文庫開館50周年を記念して(そして、おそらく石井桃子さんの101歳をお祝いして)、3月2日、3日の2日間だけ特別に一般公開されたものである。

奥の部屋には、作品「3月ひなのつき」のモデルにもなった、犬養道子さんのお母上から文庫の開館記念に贈られた、一刀彫りのおひな様が桃の花を従えて飾られていた。二部屋の文庫の幅20㎝の本棚の所々には、手作りの品(おいもなど)や小さなネコたちが置かれていて、楽しいくつろぎの空間が演出され、オルセンやカリジェのリトグラフや原画がさりげなく飾られているのも素敵だった。「こんな文庫で子ども時代を過ごしたかった」というのは参加者全員の共通の思いであった。訪問者は私たちを含めて女ばかり(若い女性もちらほらいたが、ほとんどはおばさま、おばあさま世代であった)。

「丸福」で荻窪ラーメンを食べたあと、吉祥寺に出て、二軒の絵本の店「トムズボックス」、「おばあちゃんの玉手箱」で絵本をさがし、井の頭公園入り口にある「ドナテロウズ」で休憩のあと、「井の頭公園駅」まで公園を散歩し、「東急東横線」で横浜まで帰ってきた(途中下車二人)。

<本日の収穫>
●「こどものとも」「かがくのとも」のバックナンバー
●K子さんおすすめの『あっちゃんあがつく:たべものあいうえお』(リーブル)
●子どもにうけるとK子さん太鼓判の『ずら~りカエル:ならべてみると…』(アリス館)など

学校司書の仕事は…

あるブログで、朝暘第一小学校の元学校司書である五十嵐さんの活動に対する批判的な書きこみを読んだ。彼女の不読児童にたいする働きかけは「司書の仕事ではない」というものである。また、彼女の活動については、「辛口某児童評論家Aさん」も私的なおしゃべりのなかで同様なことをおっしゃっていたということだ(「Aさん」て、K子のことか)。

というわけで、『夢を追い続けた学校司書の四十年』(五十嵐絹子/国土社)から「不読児対策の実践レポート」の部分を再読した。確かに、五十嵐さんの取り組みは、一般論で議論できるものではないし、違和感を感じる人もいるだろうとは推測できる。しかし、再読してみて、この「児童評論家」のAさんにも(「児童評論家」って何だ?)、また件のブログを書いたり、コメントをつけている方にもちょっとがっかりした。彼らは、仕事として学校図書館に関わっているように思われたが、「学校図書館の役割をきちんと理解しているのだろうか?」という疑問を持ったのである。また、学校経営の中枢に「図書館」をすえる朝暘一小の教育の実践の本質的なことを理解しているのだろうかという思いももった。

「学校司書」は公共図書館の司書ではない。学校図書館の仕事は、「読書」と「学習」の両輪の車を動かすことが求められる。したがって、学校司書に求められるのは、楽しみのための読書の提供だけでなく、学習支援を含めた視点からの読書指導も同様に求められるのだ。したがって、五十嵐さんが「不読児童対策」に頭を悩ませたり、あるいは、一人一人の子どもにかなり踏みこんでゆくのは当然のことだと思う。といっても、これは「学校図書館を学校経営の中枢に据える」という朝暘一小の教育方針があるからこそ可能にもなるのである。

最近多くの学校で学校司書や司書教諭が任命(?)されているが、ほとんどの場合、兼任だったり、事務職的な扱いであると聞く。残念なことではある。そういった雇用形態の学校司書では、学習指導にまで深く関わり、一人一人の子どもと関係をとり結ぶ、いわば教師的な役割を果たすことは難しい。いや、司書教諭が配置されていなかった頃の学校司書は、学校司書であっても、五十嵐さんようなはたらきを求められたであろうことは、想像に難くない。

公共図書館の司書は、子どもであっても、彼らの人格を尊重し、個人情報を重視するから、最近では、司書自ら声かけをすることが少なくなっていると聞く。しかし、学校司書は、学校における子どもの生活の一部として、彼らの読書生活を保証しなくてはいけないのである。時には、児童、生徒の学校生活を豊かで実り多いものとするために、彼らの「私的生活」にまで踏みこんでゆかなくてはいけないだろう。同じ「司書」であるのに、学校司書と公共図書館の司書は、アプローチや関わり方がまったく違うのだ。

学校現場に携わる司書は、自分の役割を正確に認識して、ご自身の力を遺憾なく発揮していただきたいし、また、学校関係者や学校経営者も、学校図書館と学校司書の重要性を認識して、正規採用の学校司書、兼任ではない司書教諭の採用に最大限の努力を払っていただきたいと思うばかりである。

「読み聞かせ」や「語り」が得意なだけでは、学校司書としては「片手おち」であろう。

図書館と図書館員(2)

つっこみどころは満載でも、しかし、いくつかの大事な情報はある。アメリカでは図書館員のほとんどは、白人女性として描かれていて、マイノリティや男性は少ないこと。また、図書館員のイメジは、世話好きで親切、つねに利用者の役に立ちたいと思っている人として書かれている。イメジであるから、現実とのギャップはあるかもしれないだろうが。

笑ってしまうのは、このようによいイメジで図書館員が書かれるのは、「本」を買うのは図書館員だからで(悪口を書いたら、図書館に入れてもらえない? しかし、あまりにもナイーヴなご意見)、また、作家はふつうの人より図書館や図書館員に接することが多く、彼らをよりよく理解できるからだし、図書館員自身がこのような本を書いているからだという。これらは、すべて彼女の意見ではないが、こういったものを紹介するあたり、彼女のスタンスも解る。

通時的に見てくると、仕事の内容はほとんど変化していないが(レファレンス、読書相談、ストーリーテリング、貸出業務、選書、受入業務、目録作成など)、かつては(1945年頃まで)「よい本を利用者にわたす役割を果たしていた」図書館員像が、「利用者が楽しむことができる本を探す手伝いをする」図書館員像に変わってきているという。なるほど。また、仕事の内容は変わらなくても、業務を支えるテクノロジーが大きく変化したので、新しいテクノロジーを使いこなす図書館員像が生まれたという。なるほど。

検証した35冊のうち、タイトルに「図書館」とついている作品でも、「図書館員」について言及しているものはたった4冊だけだという事実から、一般的に利用者に奉仕する人間よりも、図書館にある資料がより重視されているのではないかという認識が示されている。

しかし、『ビーザスといたずらラモーナ』を読むと、ビーザスが自分のよく行く図書館の児童図書館員を心から慕い、信頼しているエピソードが書かれているのだが、残念ながら彼女の検証した35冊には入っていないし、私の絵本コレクションにある図書館を舞台にした作品も一冊として検証されていなかった。

日本の子どもの本のことはあまり詳しくないので、明言はできないが、やはり、アメリカの絵本や物語で図書館や図書館員が出てくるのは、日本に比べて圧倒的に多いように思う。図書館や博物館は、宇宙的な空間と時間を包括しているから、ファンタジーの舞台にもなりやすいだろう。

最近翻訳された『としょかんライオン』に登場する図書館の館長、ミス・メリーウエザーは、この論文で検証された典型的で古典的な図書館員が一ひねりされていて面白い。女性が館長で、男性が「ヒラ」というのは、PCか。

図書館と図書館員(1)

E=ラーニング大学では、今年度から「スクーリング」形式の授業も担当している。全7回(一単位)のうちすでに2回を終了したが、この準備がなかなかたいへんなのである。テキストはあるものの、授業は、テキストを読んだことを前提に構築するので、アイディアをひねり出し、文献を読み、整理し、原稿をつくり、といったことに思いのほか時間がかかっている。基本的には、リアル大学の講義の授業と同じなのであるが、インターネットを通じ各地に散らばっている学生にも配信されるのである。数からいったら、ネットの受講生の方が圧倒的に多い。むしろ、リアル学生は「ゼロ」ということもあるらしい。

学生がいない状態で、授業をするなんてことは、「考えられない」し「ありえない」し、「いや」だったので、何人かの既習者にもぐりをお願いして、何とか今のところは「ゼロ」状態は避けられている。ありがとうございます!

と、前置きが長くなってしまったが、2回目の授業では、「子どもの本に書かれた図書館員」という、つっこみどころ満載の論文を「ネタ」に、図書館や図書館員について話した。これは、The Image and Role of the Librarianという論文集に収録されている"Librarians in Children's Literature: 1909-2000"というものである。

ほぼ100年を網羅しているわりには、検証した本が35冊で、しかも「子どもの文学」といっておきながら、フィクションとノンフィクションをまとめて議論しているし、数多くの対象書籍から選んだ35冊の判断基準も書いていないのである。また、35冊のタイトルを見ると、そのほとんどに「図書館:library」「図書館員:librarian」という語が含まれ、選書のいい加減さもかいま見える。(続く)

図書館の書誌情報

かつて図書館は、自分たちの書誌情報をそれぞれ独自の「目録」として所有していた。コンピュータの出現によって、書誌データを共有するという発想が生まれ、目録作業が一気に機械化され、集中化された。世界最大の書誌ユーティリティであるOCLCは、現在7000万の書誌データを有し、世界の教育機関、図書館に提供している。そのOCLCと日本で代理店契約を結んでいる紀伊國屋書店とのパートーナーシップ20周年を記念しての講演会が開かれた。

オハイオにあるOCLCには、10数年前に夫の海外研修にくっついて、門前の小僧ながら、お世話になったことがある。そんな経緯があったので、「おまけ」として参加させていただいた。

早稲田大学の元総長で、その図書館長時代には、OCLCとともに和書のデータベース化にとり組んだ経験を持つ奥島孝康教授のお話をとても興味深く伺った。早稲田大学100周年記念行事として、新しい図書館を作るために奔走し、100万冊の書誌データを紀伊國屋書店と連携してコンピュータ化したお話。その後の書誌データの蓄積と共有化については、まさに見識の勝利である。また、その跡を継ぐ図書館長も、奥島精神を受け継いでいるのがよくわかる。私立大学の図書館長というと「名誉職」的なイメージがあるが、このように見識のある図書館長のいる早稲田大学の図書館をうらやましく思った。

ところで、OCLCのヴァイス・プレジデントであるスピーズ女史のご主人が図書館によせる短い詩を披露してくださった。彼の許可を得て、ここに再録します。

Librarian's Dream

A Few Words on Paper;
A Book
A Few Books on Shelves;
A Library
A Few Libraries in the World;
Universal Understading

図書館員の夢(わしこ訳)

紙に書かれた言葉が
本になり

棚に並べられた本が
図書館をつくり

世界の図書館が
私たちの知をつくる

学校司書の実践記録

現役の学校司書である五十嵐絹子さんの実践記録『夢を追い続けた学校司書の四十年:図書館活用教育の可能性にいどむ』(国土社)が出版された。五十嵐絹子さんは、先進的な図書館活用教育で知られる鶴岡市立朝暘第一小学校の学校司書である。

この著作は、平成14年に「学校図書館大賞」を受賞した朝暘一小の図書館活用教育を学校司書である五十嵐絹子さんの目からつづった記録であり、また、五十嵐さん自身の学校司書としての歩みの記録でもある。「たいへんだったけどいい思い出」として書かれているのではなく、「子どもの学びの質を高めるために・・・教育創造のヒントとなり、子どもたちの明るい未来へ向けて、進んでいく力や励ましに」なってほしいという思いに支えられたためか、書きづらかったこともあるだろうに、丁寧に誠実に筆が進められ、そのお人柄もうかがえる。

学校という組織の中で、学校司書という位置はきわめて微妙である。図書館に閉じこもってばかりいないで、午前中は職員室で事務の仕事を手伝うように言われたこともあったらしい。鶴岡市では昭和41年から大規模校に限って学校司書を配置している。確かにこれは、現実のほとんどの学校の状況を見る限り、たいへんうらやましいことである。しかし、学校司書が配置されているからといって、ことはそれほど簡単ではなかったことが、このエピソードからわかる。教師の学校図書館に対する理解や知識がなければ、図書館は十分に活用されないのだ。朝暘一小の活動がここまできたのは、校長主導のもとに全校的にとり組んできた結果であると思うし、五十嵐絹子さんの地道な働きかけと図書館に対する真摯な思いが実を結んだのであると思う。

この著作は、いまあちこちで育っている学校図書館運動へのうねりに光をあて、励ましをてわたしてゆくだろう。それは、この著作が子どもに対する信頼と「読書があなたの人生を支えるのだよ」という熱い思いがほとばしる謙虚なメッセージにあふれているからだ。

学校図書館研究会

夫主催(妻料理人)の学校図書館研究会に「おみそ」で参加させていただく。でも無知をさらけ出して、一番いいたいことをいっているのは私かもしれない。すまん。

『学校図書館研究』に掲載された「『学校図書館の手引き』作成の経緯」という論文の報告がK先生よりなされる。これは、敗戦後、アメリカ主導のもとに行われた「教育改革」の流れの中で、「学校図書館」を作るための『手引き』が作成された事情を丁寧に追ったリサーチ・ペーパーである。この『学校図書館の手引き』作成の事情を知ることは、日本における学校図書館制度が確立してゆく歴史を知ることにもなる、らしい。

私にとっては、はじめて知ることばかりであったが、学校図書館の事情や学校図書館の認識は当時(1947年)と変わらないことについてはたいへん残念に思う。図書館を活用した教育がどのようなものであるのか、いま、ようやく一部でその重要性が理解され、実践されはじめたばかりなのだから、『手引き』の編集委員や文部省が理解していたとも思えないのである。

学習センターとしても読書の場を提供する場としても、学校図書館は充実させなければいけないと思う。私が小学生だったころの学校図書館は、ほとんど「開かずの部屋」だった。高学年になったときに<ナルニア国物語>やリンドグレンの作品にであったのは、読書教育に熱心な担任が自分のポケット・マネーでそろえてくれたからだったと思う。ただし、岩波少年文庫にであったのは、あの薄暗いほとんど開館することのなかった学校図書館だったような気がする。あのころ、いつも図書館が開いていて、学校司書がいてくれたら、私の人生もちょっぴり変わっていたかもしれない。

<本日のメニュー>
●アボカド・ワカモーレソース/クラコット
●ゴーヤとプチトマトのサラダ
●スモークチーズの豚肉巻き焼き(やきとりMのパクリ)
●鶏もも肉の自家製味噌焼き/野菜添え/玄米ご飯
●白ワイン/紅茶/ワインゼリー

最近、手を抜いてガーリックラスクを作っていないなぁ。K先生より自家菜園の野菜を頂きました。ありがとうございます。

児童書すべてそろえます!

神奈川県大和市の図書館が550万円をかけて、出版一年以内の児童書をすべてそろえるという新聞記事を読んだ。ただし、再刊、新装版、漫画、学習参考書、ゲーム攻略本などは除かれるという。その数は、約3000点だそうだ(「asahi.com 神奈川」から)。子どもの本をたくさん購入することで、選択の幅を広げ、読書のよろこびを見つけてほしいとのねらいがあるらしい。

「児童書すべて」を購入しても、子どもたちの「読書ばなれ」を阻止することができるのかどうか、私にはよくわからないが、失礼ながら、あまりのナイーブな発想にびっくりしてしまった。また、この事業は、今年度のみとのことで、来年度以降も継続するかどうかは未定だという。一年だけの、一回性の事業になる可能性もある。いったいこの図書館の蔵書構築はどのような理念のもとに行われているのだろうか。また、来年度以降もこの事業を続けるとしたら、図書館のスペースが問題になってくるのは必至だろう。

児童図書館員の役割は、大きく三つある。①すぐれた本を選ぶこと②利用者を求めて行動すること③読書のよろこびをさまざまな手段で伝えること、である。これは、リリアン・スミスの時代から変わることのない基本中の基本である。「選書」の放棄は、児童図書館員の質を下げることにもなり、結果的には、図書館の価値をそこなってしまいかねない、と思う。図書館が購入する本の予算を増やすというのは、たいへんわかりやすいアピールの仕方だ。「ああ、よくやっている」と納税者(市民)からも評価されることであろう。しかし、それでよいのだろうか。

「児童サービス論」を学ぶ学生をみていて、気になることがある。「資格」を取ることにのみ目がゆき、子どもの本を心から楽しんでいない。それどころか、読書の習慣すらない学生もいる。ごく軽いハウツー本や情報本を読むことが「読書」だと勘違いしている学生もいる。骨太で歯ごたえのある作品が読めなくて、ギブ・アップしてきた学生もいた。こういった学生には、未来を担う子どもたちの読書生活をまかせるわけにはいかない。

税金の使い道はいろいろあるだろう。いつも財政不足で買いたい本も買えない図書館にとっては、「おとな買い」の「全部買い」はうれしいことかもしれない。でも、私には、それは図書館員の役割を放棄しているようにしかみえない。子どもの本のプロである児童図書館員を増やしたり、再教育するためにもお金を使ってほしい。

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