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「かわいい」禁止令

私は学生に「かわいい」「やばい」禁止令を出している。どんなものにも「かわいい」「やばい」ですませてしまう安易さが嫌いなのだ。「かわいい」「やばい」と口に出した時点で、思考が停止し、さらなる深みには到達しないからだ。何か自分の心に響くものがあれば、そこでじっくりと心の声を聴いて欲しい。

ところで、久しぶりに「これぞ究極のかわいさ」と思われる写真を見つけた。JAFが発行している『JAF』7月号の表紙写真がムチャクチャ「かわいい」のである。リスが黄色い花の香りをかいでいる(と思われる)写真である(「思われる」としたのは、ある人は密を飲んでいるのではとおっしゃったからだ。ただし、私としては香っている思いたい)。絵本『はなをくんくん』を彷彿とさせる写真である。どんな人が撮影したのだろう。きっと、ずっと待って待っていたのだろう。なんだかうれしくなってしまう。ここで、画像をアップしたいのであるが、著作権がどうなのか不安なので、いまは控えている。
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キプリング

Kim、 Puck、 Stalky と読み進めてきたキプリング読書会だったが、先日、Stalky を終了した。キプリングはたいへん手強く、投げ出したいこともあったが、一応の終了を見た。次回からは、ペーターの Marius the Epicurian を読むことになった。こちらも、一文が長く、前途多難な感じがある。大学院で薫陶を受けたいまは亡きM先生のご専門で、亡くなる間際まで翻訳に取り組んでいたと伺っている。院時代には『ルネサンス』を講読したが、あの頃よりもものがわかって、少しは「読める」ようになったと自覚したい。「ペーターは読めねぇ」というのがM先生の口癖だった。

キプリング読書会

Puck on the Pook's Hill 、Kim 、Stalky & Co., と読み進めてきたキプリング読書会。現在四苦八苦している Stalky & Co., もあと2章を残すところとなった。というわけで、次の作品の選択に段階にはいった(とはいえ、月一の読書会であるから、あと数ヶ月はかかるだろう)。いま候補に挙がっている作品は、Marius the Epicurian である。

昨日の読書会後のメニュー。
★ひじきイタリアン
★手作り薩摩揚げ
★ローストポーク&野菜サラダ
★牛丼
★スパークリングワイン、白ワイン、リンゴジュース

薩摩揚げは鰺の身を使った。次回は豆腐を入れて試そうとおもう。味はなかなか。ローストポークは最近はまっている、バルサミコと醤油味。

紀伊國屋書店のステキな「書店ガール」

場所の利がよくないので普段は出かけない紀伊國屋書店に久しぶりに出かけた。棚出し中の書店員が「何かお探しですか?」と声をかけて下さった。彼女とは思いの外、話が弾み、おすすめの本まで聞いてしまった。『晴天の迷いクジラ』(窪美澄)を今月の一押しであると伺い、早速購入。「痛い」けれど、読み応えのある作品だった。ついでに、『思い出のマーニー』の新潮文庫版を購入。また件の書店ガールからは、さらに、映画公開に合わせて、角川文庫版も発売されると聞いた(版権も切れていないのに(作家の死後50年)、複数の出版社から出るとは、どういう理由があるのだろうか?)

本が好きで、さらに書店ガールとして仕事に情熱を持っているステキな店員さんに出会い、とてもうれしい。あの人がいるから、また行きたいと思ったのは、二度目である(むかし、むかし、浜松市の西武百貨店にリブロがあった頃、文学に関してプロと思わせる書店ボーイがいた。彼については、活字中毒の女子学生らも一目置いていたなぁ。)

中学生のおはなし会

恒例の中学生のためのおはなし会(年度末ヴァージョン)が終わった。秋ヴァージョンが11月で、今回が3月初めのという変則的でタイトなスケジュールだったので、準備期間が思いの外少なかったし、練習も十分とはいえない。練習は十分したいが、かといって、語り手(読み手)がお話しになれてしまうと、新鮮なよろこびが伝わりにくくなることがあるかもしれない。その点の頃合いも難しい。

年度末の放課後という不利な条件にも関わらず(しかも3年生不在)、50名ほどの生徒たちが参加してくれたのではないかと思う。開始10分程まえから、続々と男子中学生がとても楽しげな雰囲気で図書館にやって来た。そのうちの一人が私に気づき「この前来たおばちゃんだ!」と第一声を発した。私と目が合うと、「イヤイヤ、おねえちゃんだ」と言いかえ、その後、「おばちゃん」と「おねえちゃん」を故意に間違えて、ノリノリでリピーターをアピールしていた。「どのお話しがおもしろかったの?」とたずねると「おばちゃん、いや、おねえちゃんの声がよかったから、また聴きに来た」と中学2年生にからかわれる、わしこであった。しかし、開始時間が来ると、率先して「始まるから、静かにしようぜ」なんて声かけをしてくれて、なかなか侮れない男子!

「わらべ唄メドレー」には、複数のノリノリ男子の振りがついたり、合いの手が入ったりの想定外の反応に、私は思わず笑ってしまったのであった。しかし、子どもたちの切り替えも素早く、メイン(長いおはなし)である「三本の金の髪」に入ったとたん、場は静まりかえり、聴き手がお話の世界に入っていたのが手に取るようにわかった。

終了後のざわめきの中で、「黒海ってどこだ?」と数人の中学生(これも男子)が本を探しにやってきたこともうれしかったし(「ソチ[冬季オリンピック開催地]は、黒海沿いにあるんだよとの声かけをした)、大きな声で(というのは私たちに聞こえるようにだと思うのだが)、「命の水」がほしいとか、「若がえりのリンゴ」の方がよいという声もあがって、気の利いた(そつのない)お礼の言葉は言えない男子の「かわいさ」を感じた。そうか、そうか、男ってこんなふうにお礼をいったり、おもしろかったって伝えるんだなと思いいたった。不器用、でも、かわいいんだ。

雪が降り始めるなか帰る途中、また別の男子が声をかけてきてくれた。「僕、今日塾行くんだど…歩いて行こうか、自転車で行こうか迷っているんだ」と。うーん。「風邪ひかないで行ってね」という情けない返答しか出来なかった。

「物語」って、人を結びつけるんだ! ありがとう。

中学生のおはなし会

年に2回の中学生のお話会が来週に迫った。今回はわらべ唄も披露しようと練習中だ。「せんぞうやまんぞう」をはじめとして五つをメドレーで紹介する。お話は「金の髪」(旧チェコスロバキア)を二人で。あとは、詩を三つ、絵本を一冊で「言葉」にこだわったプログラムである。楽しんでくれるとよいのだが…。

いま考えていること

動物物語(絵本、物語)に描かれる動物の絵画的表象についていろいろ気になっている。始まりは、「アリスのウサギ」である。彼のチョッキと手袋について考えはじめ、ピーターの青い服にいたり、服を着せていない『あらしのよるに』へと向かったのである。

「服を着る動物たち」をテーマにして、久しぶりに『あらしのよるに』を、授業で学生に紹介したからだ。相変わらず、ここで使われている日本語には大きく違和感を持ち、もう少し「声の言葉」「物語の言葉」を意識すべき文章であると痛切に感じたが、おそらく、ほとんどの読者は「物語のおもしろさ」にひっぱられて気にならないのかもしれない。閑話休題。

あべ弘士の挿絵はファンタジーであっても服は着せていない。<あらし>シリーズも<どうぶつ句会>シリーズも、そこに登場する動物たちは、そのままの姿で出てくる。彼の描く動物が服を着ているところを想像しようとしたが、どうしても違和感がある。なぜだ!

仰天自己紹介

かつて、2度ほど夫に電話をしてきた男性が「★★大学名誉教授の☆☆です」と名乗ったことがあって、失笑したことがある。しばらくは、おもしろネタとして親しい友人に提供していた。「信じられなーい! ★★大学に勤めていました☆☆です」でいいんじゃないのと。

自分が常勤校を持たないしがない「フリーターでドサまわり」の大学教師である僻みからか、そのような「肩書き」を自ら公にする人には過敏になっているのかもしれない。NHKでは、というより、朝ドラ流れで見てしまう「あさイチ」では「★★大学教授の☆☆さん」と紹介して、どうやら意識的に「先生」という呼称を避けているような印象を持っている。まあ、先生でもいいんでないかいとも思うけど、自ら「名誉教授」を名乗る人は「先生」といって欲しいのだろうなと秘かに思ったりもしている。

木曜日の午前中に出かけた「図書館総合展」の講演会には友人の村中李衣が久しぶりにスピーカーとなって、「女子刑務所における絵本の読みあい」の報告をした。とても内容の濃い刺激的な講演であった。その、講演会の閉会の辞を述べた人が「★★大学名誉教授の☆☆です」と自己紹介したのには仰天した。こんなところにもいるんだ。彼の人は女性だった。

詩集

美智子皇后の新たな訳詩集『にじ』『けしごむ』が出版された。まどさんの原文もよいが、彼女の英語のセンスと原詩を読みこむ力が秀れていなければできなかった詩集に違いない。ごくごく短い詩が載っている『けしごむ』も、言葉のよろこびを堪能させるが、「りんご」「さくらのはなびら」(『にじ』)は哲学的ですらある。

スカイツリーからの電波

最近テレビを見ていると、電波の発信が「東京タワー」から「スカイツリー」に、また、「スカイツリー」から「東京タワー」に変わるという状況に遭遇することがある。幸い、うちでは、変更時に多少画面が乱れる程度で問題なく視聴できている。しかし、気になることがある。

画面の上から左にかけて、「★★から電波を出しています」というお知らせが出るのだが、その際に「★★から電波を発射します(発射しています)」という表現が使われている事に気づいた。NHK からだけだと思っていたら、昨日は民放(どこであるかは確認しなかった)でも「発射」という表現が使われていて、おそらく在京局すべてがこの表現を使っていると推測された。

電波は「発射」するものか? 発射するものは、「ロケット」「爆弾」「テポドン」などなどデンジャラス系のものが連想されるが、「スカイツリー」からの電波はひょっとして危険? 冗談でなければ「発射」はやめてくれ。

英語での語り、読みきかせ

先週の金曜日には、5月末に予定されている、東横線沿線にある某有名私立中学校での「英語での語り、読みきかせ」の練習をした。内容は上記の通り、「語り」「絵本の読みきかせ」「紙芝居」「チャンツ」と盛りだくさんである。「語り」も「紙芝居」もすべて、テキストから作った。

「英語の語り」を披露するのは3回目であるが(とはいえ、メンバーのなかにはハワイやタイでの語りの経験者もいる)、コツコツと勉強してきた成果が出てきているようで、なかなかの出来具合である。「語り」の一つは、「頭に柿の木」でこれはタンデム語り(二人語り)でする予定である。柿男のとぼけぶりというか間抜けな雰囲気が重要であるのだが、雰囲気を作るのはなかなかにたいへんである。

私はチャンツのなかにある「歌」に四苦八苦。本番までに練習をつまなくては。「歌は苦手」と弱音を吐いたら、「自分を捨てること!」と引導を渡された。

世は連休モードであるが、今年はカレンダー通りで、休講は月曜日1回だけなのだが、K大学は29日開講、Y大学は6日開講で、両方出講している私は何とも中途半端。

『名作うしろ読み』

斎藤美奈子の『名作うしろ読み』をぱらぱらと読んでみた。この類の本は、最初から丁寧に読まなくても、気が向いたときにいくつか読んで「ふーん。そうなのね」とまた、いつも手に届くところに置いておく方が楽しいと思う。

この「うしろ」はきっと、あの作品だろうなと推測し、あたっているとちょっとうれしい。結構知っているものがあった。ウエブスター(『あしながおじさん』)とか漱石(『坊ちゃん』『三四郎』)とかね。だからなんなんだと言われても困るけれど、見開き一ページで完結しているのはちょっと残念。ただ、もともとは夕刊に連載されていたものだろうから、ヴォリュームは小さいのだ。

メロスが「(勇者は、)ひどく赤面した」(「走れメロス」)ことの原因は、裸であることを指摘されたからだが、それを指摘した「佳き友」は「セリヌンティウスではなく王様であろう」という指摘には脱帽。そうだ「王様」だよ。朗読教室の教材で何回も読んだはずなのに、ぬかっていた。というより、セリヌンティウスであると思いこんでいた。よく読めば、斉藤の指摘の方が正しい。この指摘は、状況を把握している者の余裕から生まれたことがよく解る。

この著作には紹介されていなかったが、私の中で一番印象深い「うしろ」は、「下人の行方はだれも知らない」というものである。これには、ぞっとした。

さっそく、古今東西の子どもの文学の「うしろ」を読んでみたが、安らかに物語を閉じることを感じさせるような「うしろ」が多かった。「めでたしめでたし」を行動で描いている。なるほど。

"having difficulty" が訳せないなんて…

今年の4年生ゼミは「シンデレラ研究」。サヴァティカルの先生のピンチヒッターなので、持ち上がりではない事を承知で(学生たちは余程のことがない限り、ゼミの教師を変えたりはしないのである)、つまり、ほぼ人が集まらないだろうと踏んで、授業内容を決定した。ところが、蓋を開けてみると、引きついだ先生の学生のほかにも移動組がいて(それはそれでよいのだが)、10名でのスタートとなった。

粛々と進むなかで(難しくはないけれど、ツメの甘い奴は、「ビロードってなに?」と突っこまれることになるのだが)、突如、"As her Godmother was having difficulty finding something she could turn into a coachman,...." というところでつまずいた女子学生がいた。しばしの沈黙のあと、案の定うしろから訳しはじめ、「コーチが…」とやり始めた。すかざす、「コーチって?」と私の突っこみが入る。解っていないし、調べてもいない。「シンデレラ」知っているからって甘く見ていることが丸わかりである。甘く見ているどころか、基本的な文法事項も解っていない。"difficulty" は "was having" の目的語だと助け船を出すも、わからない。「目的語の品詞は?」とたずねると、「え? 形容詞?」「副詞?」ときた。たずねているのは私、私に聞かないで! そこで、わたくし<erupt>。「このままだったら、単位出せないよ。困る!」。これって「パワハラ」って言われるのか? しかし、4年生にもなって、この程度の英語も読めないようでは、本当に「卒業認定」なんてできない。どうやってすり抜けてきたんだろう。せめてもの努力を期待するのみであるが。

折も折、昨日は月に1回の<キプリング読書会>であった。なんと、ラテン語のキング先生(こいつが尊大で気に入らない教師なんだが)が、やはり、予習をしてきていないで当てずっぽうで答えた学生に「キレた」場面が出てきた。きちんと解釈した上での「訳」か、いい加減に誤魔化している「訳」なのか、すぐに解るんだぞ! 嫌いなキング先生だが、いやはや、ご同情申しあげた。しかし、キプリングは読みにくい。

<読書会の食事メニュ>
★サーモンサラダ
★新じゃがとベーコンの炒め物
★新キャベツの豚肉巻き(落合シェフのレシピから)
★浅蜊のパスタ(炭水化物を所望されたので…)
★フレッシュ苺のヨーグルトソース

<最近購入した本(ほぼユースト)>
★『こんちき号北極探検記』
★『名作うしろ読み』
★『書店ガール2』(感想は別記)

あさのあつこのおとな向け作品

あさのあつこのおとな向けの作品がどうも読みにくいし、面白味に欠けるという印象を持っている。例えば、『弥勒の月』についていえば、感情移入がしにくいのである。たぶん、作品中の心理描写に違和感があり、ついてゆけなくなってしまうのだ。「読みにくい」「面白味に欠ける」とういう印象が、確信に変わったのは、三浦しをん、近藤史恵、あさのの3人で、同じテーマ(フルマラソンに挑戦する主人公を描く)を扱った『シティ・マラソンズ』を読んだからだ。

『シティ・マラソンズ』に収録されている「フィニッシュ・ゲートから」は、改行の多い文章でテンポ良く進んでゆく。しかし、そのテンポの良さから生まれるギャップや主人公の独白、心理についてゆけない。頭では「主人公は……なんだ」「……ふうに感じているのだ」と解るのであるが、それは、メタ読者としての自分が理解していることで、作品を堪能したいという「もう一人の」読者を満足させてはくれない。

書き手としてのあさのあつこは、内包する読者に向かって作品世界をくり広げていて、「作者の内包読者を意識している読者」はその道筋にしたがってゆこうとするが(そのように読んで欲しいという作者の意識が理解できるから)、本来の読者はそこでおいてきぼりを食うのである。残念。

あさのがおとな向けの時代小説をかくエネルギーの一つには、藤沢周平への思いがあるらしいが、それはそれとして、『バッテリー』のような少年たちの姿をまた見せて欲しいと思う。

ミステリとはいうけれど

<円紫さんと私シリーズ>もとうとう最後の『朝霧』までやってきた。今までのところ、私には『六の宮の姫君』が一番知的好奇心を刺激される。このシリーズも含め、北村薫(m)はミステリ作家ということになっているが、これもあれも、私はミステリとして読んでいないことが、今回の再々読ではっきりした。

本(文学)にまつわる蘊蓄話と言ってしまうと語弊があるかもしれないけれど(最近でいうと『ビブリア古書店』系か)、ある女性(大学生)の文学的成長録とも読めるのである。とくに、『六の宮の姫君』に関しては、その気味が濃くなってきているような気がする。なんといってもこの作品では、主人公(私:名前はなんだっけ?)の卒論の構想が謎と絡んでくるからである。いわば、小説「調べ学習の記録:卒論編」である。では、学生のための「お勧め図書リスト」に載せるべきだな。お勧め図書リストは、年年歳歳、長くなるばかりである。何かを入れるとなると、何かを落とさなくてはならない。それができないのが苦しいところ。あまり長いと、敬遠されるからねぇ。閑話休題。

また『六の宮の姫君』も含めて、このシリーズは「ブックトーク」の要素も大いにある。何となれば、この作品を読んで私は、芥川を読み直そう(新しく読んでみよう)という気になってしまったからである(が、まだ手にとってはいない)。おまけに、菊池寛の「順番」や「義民甚兵衛」などは、描写があまりにも鮮烈で、「読んだ気持ち」になってしまった。これは、「BT」としてはまずいだろうが…。

何で古い本を引っぱり出しては読み直しているのかというと、その理由の何番目かには、「楽しみで読む本を買ってはいけないというプレッシャー」があるからだ。今年度末はかなりたくさんの本を再読したものだ(<覆面作家>も読み直した)。しかし、忘れっぽい私は、北村薫の特徴である作品の細部にこだわる点が、再読時点ですっぽり抜けているので、新たな感覚で読めるのである。

本にだって雄と雌があります!(駄)

サトクリフ学習会の仲間から、『本にだって雄と雌があります』という本があることを聞いて、いろいろ妄想した。実は、あとになって、この書籍が「小説」であることを知るのであるが、ケータイ・メールの短い状況の中では伝わり難く、メールの受取人である私は、タイトルに刺激されてさまざまなことを考えた。

たまたま、北村薫の<円紫さんと私シリーズ>を再々読中だったからか、北村氏は男性であるが、お書きになる本は「メス」ではないかという思いが芽生えた。それから、同じ薫でも、女性の薫さんの描く作品は、きわめて男性的という印象を持っていたので、では、あちらは「オス」なのかという妄想に繋がっていった。

『マークスの山』を読んだ友人が、著者は「男性である」と思いこんでいたことを知ったのも、その印象を強めたのかもしれない。また、『マークスの山』からは、『罪と罰』、そして、エリオットの「文学と伝統」、「インターテクスチュアリティ」、「原型」と連想は広がっていった。

件の知人から廻ってくる本物の『本にだって雄と雌があります』が楽しみである。

中学校でのお話し会

準備期間が短く、どうなることかと思ったが、どうにか昨日、中学校での「お話し会」を終えることができて一安心。観客は中学生が22名、教師ほかおとなの参加者5名。3月のお話し会は、昨年につづき2回目である。実は一昨年にも予定していたのであるが、3.11の地震のために急遽中止になったのである。プログラムは以下の通り。

★詩「とき」(谷川俊太郎)
★お話「金の髪」(コルシカの昔話)
★絵本『光の旅 かげの旅』
★お話「団十郎閻魔」(福島の昔話)
★詩「深く澄んだ目が二つ」(ウォルター・デ・ラ・メア)
★お話「三人の旅人」(ジョーン・エイキン)

ほぼ45分のプログラムであったが、聴き手はみんなお話の世界に入りこんでいるのがよくわかった。また、最後まで、緊張感が保たれ、子どもたちの語り手を見つめる眼差しがが印象的であった。出入りのある文化祭とはまったく違う空気感で、貴重な体験であった。

私は「団十郎閻魔」と「三人の旅人」を担当した。「団十郎…」では福島弁に挑戦した。観客には笑って欲しかったが、残念ながら笑い声が起きることはなかった(最後にニヤリとしたという報告もあったが)。このお話は、共通語での語りよりも気持ちが入って、まるで自分が婆さんになったような気持ちで語ることができた。「三人の旅人」は、既製の翻訳では、語りづらい(読みづらい)ので、原作にあたりずいぶん直した。仲間のパフォーマンスもとてもよかったと思う。

ところで、この程度の記録でも、小学校ではやいのやいの言われるのである。どうしようもないね。

ラプンツェル! ラプンツェル!

いわゆる「たんたん派」(©わしこ)の語る「ねむり姫」と「ラプンツェル」を聞いた(ラジオ)。確かに「たんたん」と語られている。きちんと練りあげられているグリムのテクストだから、つまらないわけはない。でも、面白味に欠ける優等生の語りのようだった。かつて櫻井先生が「★★さんももう少し勉強しないとね」とおっしゃったことがあったが、その気持ちがよく理解できる語りであった。

グリムのお話は、イメージが豊かで、動きがもたつくこともなく劇的で人を引きつけずにはおかない。つまり、昔話はその口承の構造を守ってきちんと語れば、それなりに人を引きつけ、聞かせる。だから、「昔話の語りには、個性も味わいも出すべきではない」(炉端の語り手は素人であったし、かつては誰もが語り手であったから。あるいは演技はいらない)という認識をお持ちなのだろうが、人は「声」を出したとたん、その人の消しようのない個性が飛び出してしまう。そのつもりはなくても。私などは、声が低い上に、語気が鋭い(らしい)から、怒っているようにも聞こえるようだ。本当に「怒って」いるときは、どんなふうなんだと、自分につっこみを入れて見たいぐらいだ。だから、「かわいい声」が出せないし、少女が出てくる話は苦手である。

また、「たんたんと語る」ためには、自分のマックスを知らないと、「たんたん」が解らないのではないかと思うし、「言葉」には否応なく感情はこめられてしまう。また、語尾の微妙な「上げ下げ」で聞きやすかったり、聞きにくかったりする。というよりも、お話から迎えいれられているか(開いているか)、そうでないかの感覚がある。

ところで、老女魔法使いの「ラプンツェル!」の呼びかけは、9㍍の高さにむかって呼びかけているようには聞こえなかった。自分と並行に言葉を投げかけて、まるで、怒っているようだった。そこがとても残念な語りであった。自分のイメージを言語化することが「語り」であるとするならば、9㍍の高さを意識し、そして、そうと聞こえるような「語り」にすべきだと思うのだが。

この英語どう説明する?

キプリングの Stalky & Co. は当時の学生の使った言葉が多く使われているせいかなかなか読みにくい文章だ。それでも当たりをつけてひねり出してゆくのであるが、どうしても腑に落ちないということもある。以下の一文は、英語ネイティヴに質問しても要領を得なかったもの。

'But he's[the Head] awfully fair. He doesn't lick a chap in the morning an' preach at him in the afternoon,' said Beetle.

大意は、<[牧師の]校長先生は、きわめて公正な人間である。いったん罰を加えたら、それでおわり、くどくど根に持たない。>というものである。で、問題にしたいのは、罰の中身なのであるが、P先生の説明によると「鞭を打ったら、説教まではしない」と読むと仰るのであるが、英語で書かれている順序では、「鞭は打たないが、説教はする」と読める。確かに、時系列でゆけば、第1の罰を加えたならば、第2の罰は加えないと読む方が自然なのだが。

Help me!

朗読の発表

敷地内の文化祭で行われた「朗読」の発表会を見にいった。先日、私の「八郎」を聞いてくださったAさんの朗読が目的である。とてもよかった! 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の「極楽編」を語ったのであるが、声の雰囲気、リズム、テキストの読みこみなど理想的な状態で完成していたと思われた。

彼女は「1人で練習していると、煮詰まってしまう」と嘆いていたことがあったが、そのトンネル状態を抜けた上にできたパフォーマンスだった。極楽の平和的でおだやかな、そして、それ故残酷な世界とそこに泰然と存在しているお釈迦様の姿が聞いている私のなかに立ちあがり、蓮の池の情景が目にうかんだ。解釈と声とリズムが3拍子うまい具合に揃った朗読であった。

そのほかに、複数での「魔術」(これも龍之介)が朗読されたが、こちらは、ナレーター(2人)のテキストの読みこみ不足が露呈されていて、残念ながら出来はよくなかった。全体的に「読んでいます感」が濃厚であった。

また、耳で聴いているだけでは理解しにくい漢語系の言葉、カタカナ言葉などを粒立てないでサラッと読まれてしまうと、こちらはストーリーを追いかけることができない。ほとんど全員がずっとテキストに目を落としたままであるので、その聴き手の戸惑いに気づいていないことも悪循環をつくっていたかもしれない。つまり、スピードが速くなるのである。

著作権の問題なのか、朗読のテキストやパフォーマンスでは、夏目漱石や芥川龍之介、新美南吉、宮沢賢治などの作品が使われる事が多いが、彼らは必ずしも「声に出す」ことを意識して作品を書いているわけではない(賢治の作品には「声」が感じられる)。したがって、「朗読作品」として完成させるためには、テキストの徹底的な読みこみや発声、滑舌、アティキュレーションなどの技を磨くべきであると痛感した。自分の朗読や語りを分析するのはとても難しいが、他人パフォーマンスを聴いて学ぶべき点が明確になる。

バレエも朗読(や語り)も地道な努力、基礎的な訓練の積み重ねであるとしみじみ実感。なんだか、教師のお説教のようなエントリになってしまったが、朗読は「声」の芸術(!)であるだけに、誰もがすでに獲得している言葉の力を使って表現できると思われているので、技や才能の差が見えにくいし、その分だけ努力の積みかさねを怠りがちではないかと感じる。いや、怠るというより、自分の声や技術に全面的に頼ることがはじめることが多いが、でも、そうだろうかこという疑問を感じ始めている。

先生のアドヴァイス

先日の「お話会」は全体的な出来が80点。「八郎」に関して言えば、60点だなぁ。今年は昨年と違い、後半に人が集まってくれた。女の子は群れて(2人から数人)行動するので、1人が退出しようとすると、まとまっていなくなってしまい、「さぁ、これからお話が始まるのに」という時に観客が少なくなってしまったのはとても残念であった。

「八郎」は、3年生の男の子たちがとてもよく聞いてくれたのが印象的であった。はじめから最後まで1人でじっと聞いてくれていた女の子に「どれがよかった?」と感想をきくと、「全部よかった! すごかった」と言ってくれ、私たちは努力が報われたと感じた。当日のプログラムは以下の通りである。

              ★★★★★★★

1. 絵本 『地球をほる』(川端誠/BL出版)
2. 朗読 「かしこい百姓娘」(グリムより)
3. 詩  「本のなかには」(エリナー・ファージョン/わしこ訳)
4. 絵本 『このよでいちばんはやいのは』(ロバート・フローマン/福音館書店)
5. 朗読 「八郎」(斉藤隆介/理論社)
6. 絵本  Forever Young
『はじまりの日』(ボブ・ディラン文/ポール・ロジャーズ絵/アーサー・ビナード訳/岩崎書店)

              ★★★★★★★

朗読の先生からは、声を抑えることと、オノマトペをどう読むかという点についてアドヴァイスを受けた。ずいぶんよくなったとは、相方の弁。感謝! しかし、本番では2カ所ほど「つっかえて」しまった。

S先生への手紙…金子みすゞの詩

ご無沙汰しました。早くお便りをしなくてはいけないと思いつつ、「学校図書館と個人情報」のレポートを書くことを優先していました。いいわけついでに、教育出版の国語の教科書も取り寄せていたので、それで遅くなってしまいました。

まず、みすゞの詩の解釈一般についてですが、矢崎節夫氏による「伝記」のなかのみすゞ観に大きく影響を受けているのではないかと思いました。また、学校でもそのような流れの中で解釈がなされているのではないかと推測できました。教師用指導書がないので、じっさいに現場での指導の指針がどのようなものなのかはわかりませんが、「一人のやさしい詩人」(p94)、「もっと深いやさしさ」(p94)、「人のいやがることは決して言わない、やさしい少女だった」(p101)、「この地球という星に存在する全てのものに対し、深いやさしいまなざしを投げかけたものばかりです」(p102)というやさしさの大安売りの記述から、「やさしさ」をキーワードに読ませてゆくのではないかと推測されます。じっさいにはどうなんでしょう。

みすゞの詩は「全てのものに対し、深いやさしいまなざし」を投げかけている詩なのでしょうか? 村中李衣さん(教育出版の監修者でもある山口県在住の大学教員で作家)が、お嬢さんの授業参観で「私と小鳥…」を群読した時のことを書いているのですが、ちょっと引用してみます。

「娘たちの班だけが違っていた。徹頭徹尾ひとりの子が読み通したのだ。そして、他の子供達は机に顔をふせていて、一連めの『私のように』、二連めの『私のように』、そして三連めの『それから私』のところだけ、顔をあげてことばを重ねせてみせた」

教室は笑いの渦だったそうですが、彼女たちは「この詩はみんなで読まんほうがいいと思いました」「みすゞは、『私のように』『私のように』って、ずっと『自分の事』を考えているようなきがするから」「この詩はみんなで読まんほうがいいと思いました。みすゞは、『私のように』『私のように』ってずっと『自分のこと』を考えているような気がするから」「小鳥やら鈴やらの気持ちも声もきこえんから」と発言したようです。この解釈は教師によって「ユニークだね」との一言で片付けられたそうですが、一方では、このような読みを主張する研究者や教師もいるようです。

続けて村中李衣さんは、授業参観で行われた群読は、「選ばれたことばの意味内容に終始し、なぜそのことばを選ばずにはいられなかたという、みすゞ自身のこころのありようにまなざしを向けようとはしていなかったのではないか」「みすゞにとって、童謡を書くということは、『自分の存在をなんとか自分自身で意味あるものと認めていこう』とする祈りにも似た作業だったのではないかと推測される」と発言しています。

その根拠として、比べられているものはつねに「私」とであり、「私」中心の対比がつくられていることが読めるというのです。このレトリックを使い、「私は飛べはしないけれど、早く走れる」「きれいな音を出せないけれど、たくさん歌を知っている」と、よく読むと強い自我がと自己肯定が見えます。

したがって、私には、「わたし」は「みんな」につながる「わたし」ではなく、最後の「みんなちがって、みんないい」の「みんな」は「私たち人間」の「みんな」ではなく、「わたし」と「鈴」と「小鳥」を合わせた「みんな」のように思われるのです。さらに、「はやくは走れない」「たくさんなうたは知らないよ」と強い口調で突き放した感じが引っかかるのです。しかも、その強さを和らげる手段として、小鳥、鈴などのかわいい小さいものを使っているのではないかもと考えられます。このことは、私が参考にした藤本恵さんの講演録にも言及されています。また、彼女によると、「小鳥」のところを「カラス」、「鈴」のところを「鐘」と置き換えて替え歌をつくった学生がいたというエピソードもあります。こうすると、詩のイメージが大きく変わる(笑いの方向へ)ことがわかります。

また、みすゞの詩は調子がよく、よくいえば「読みやすい」「調子がよい」と言われますが、その調子の良さに流されて上っ滑りすることも気になる点です。個人的な好悪かも知れませんが「お空」と「空」に「お」をつけることも、ここだけなんだか「甘さ」を感じます。

みすゞの詩についてはこんなところでしょうか? 勝手な言い分を長々すみません。ご意見を聞かせていただけたらうれしいです。

参考論文
藤本恵。「金子みすゞ:読み物としての童謡」。

お話会練習

今週金曜日に迫った中学校のお話会であるが、一人で練習となるとなかなか進まない。「煮詰まっちゃう」のである。昨夕、大きな新高梨を届けに来てくださったAさん(多趣味な方で朗読もなさっている)をこれ幸いとつかまえて、練習中の「八郎」を聞いていただいた。彼女は、ときどき声を出して笑い、最後には涙ぐんでいた。

「お話がまっすぐ伝わり、情景がうかんできた」との感想を頂いた。「八郎」は、学生の前でも「練習中」であるといって聞いてもらったが、彼らは声を出して笑うことはしなかった。笑わせるつもりで語っているわけではないが、笑ってもらうとうれしい。

Aさんも11月の発表会のために「蜘蛛の糸」の「極楽編」を練習中で、やはり「煮詰まっている」とのことだったので、極楽での語りはどんなものであるかなど、二人で試行錯誤を試みた。そういえば、昨日、誕生日メールをした妹もコンサートの練習中であると言っていたなぁ。彼女はゴスペルで? それともロック? 

まわりの秋はみな忙しそうである。

お話会のプログラム

今月26日に予定されている中学校のお話会のプログラムを調整した。絵本3冊、お話(朗読)2つの作品を決定した。お話は、自分たちが選び持ちよったものですんなり決まったが、中学生相手に絵本を選ぶのはなかなか難しい。事前に何冊か選び出しておいたものから、相方に聞いてもらって選んだ。

最近、私は「ボイス・トレーニング教室」でひさびさに斉藤隆介に触れて以来、また、作品を読み直してきた。なかでも、「三コ」「八郎」の神話的壮大さに心惹かれているので、私の「お話」は、斉藤隆介のものから選ぶことにした。そして、相方はグリムのものを使うことになった。テキストは『子どもに語るグリム童話』(こぐま社)に依拠することにしたが、1カ所、気になる描写があったので、他の版や英語版を検討して、言葉を直して使うことにした。

2つの作品を軸に、導入、転換、終了の流れをつくるものとして絵本を選んだ。今回も、英語で絵本を読むという試みをしようと考えている。

斉藤隆介に関しては、「やさしさ」「けなげさ」の押し売りにならないように、むしろ神話的で、しかも、力も名もない民衆によりそうヒロイズムを表現できたらいいなと考えている。

昨日だったか、由紀さおりが「童謡を歌い、姉と声を合わせるため」、酒焼けの声ではいけないと思い、お酒を断ったというような話をしていたような気がする。これは、見習うべきか。私はいわゆる「カワイイ声」が出せない。

気になる『辺境のオオカミ』の日本語

昨年9月より、<サトクリフ読書会>で読み始めた The Frontier Wolf を昨日ようやく読みおえた。これで、気になっていた箇所や不明の箇所を、日本語訳と対照して確認することできる。ということで、とりあえず、まだ印象が強く残っている最終章の日本語訳をブラウシングしたのだが、猪熊葉子先生の訳文にはかなりの違和感をもった。

じつは、日本語訳に関する芳しくない評判は知っていたのだが、じっさいに読んでみると、猪熊先生どうしましたか? という感じである。ネット上では、「原文でも、状況がとんでいたり、説明的な部分は省いてあったりするんでしょうけど、そのままだと日本の読者には物語の流れがわかりにくくなっちゃう」「こんな読みにくい本はたぶん初めてだと思う」「原書で読んだ人は、原書の方がおもしろかったと言っていた」などという意見がアップされている(引用はすべて「子どもの本に言いたい放題」から。)

日本語訳では、①訳者の解釈が必要な文が直訳調になっていて、わかりにくい箇所 ②物語状況の把握が正確でないために生じる不明瞭な日本語 ③明らかな誤訳と思われる箇所などが散見された。また、こなれた日本語とぎごちない直訳調の日本語が混在するために、読んでいて不自然で、不安定な感覚が生じるのも気になった。訳者が状況をはっきり認識しているときの日本語は読みやすいのに、そうでない箇所では、「?」がたくさんついてしまう。

最終章の第一文は「アレクシオスがすべてを知ったのは次の日の夕方だった(岩波少年文庫版、p351)」と始まるが、これがわかりにくい。前章の最後では、左腕にひどい怪我をしたアレクシオスが、ようやくたどり着いたオナム砦で意識不明に陥ってしまう。それを受けての上記の文である。ちなみに原文は、54語からなる長い文章である。件の日本語は、最初の1フレーズである "The next time Alexios knew anything at all clearly again, it was another evening " を訳したものである。「すべてを知った」というのは前後関係からして明瞭さを欠いている。おそらくここは、アレクシオスが再び意識を取りもどした、ということが書かれていると読むべきであろうが、英文そのものも必ずしも明晰ではない。「次にアレクシオスがはっきりと何かを意識したのは、別の日の夕方であった」というほどの意味ではないかと読める。また、アレクシオスが覚醒したのは「次の日」ではない。

アレクシオスは一週間以上人事不省に陥っていたのであるが、彼が無意識から目ざめたとき、さまざまなことを思い出す。その現実感を伴わない記憶やそれを思いだすぼんやりした様子を、サトクリフは「雲に浮かんでいたようようだ」「雲のはるかむこうの出来事」いう比喩をつかって表現している。比喩は読者がそれとわからなければ意味はないし、とくに子どもの文学では注意が必要だと思われる。その点でも、「雲がやってくる前に起こったことをアレクシオスは思い出し始めた(p352)」と直訳してしまうのは如何なものかと思う。ここでの「雲」は、意識不明の空白のことを示唆しているのではないだろうか。

また、先祖から受け継がれたアレクシオスの指輪についても気になる表現がある。「傷のある古いエメラルドの指輪は指にはまっていたが、ゆるゆるだった。注意しないと、なくしてしまうだろう。とにかくそれははめるべき指にはまっていなかった。だれかがそれを彼のためにはめなおしたのだろう」(p353)

なぜ、「指」としたのだろうか? アレクシオスはおそらく左手に指輪をしていたのであろう。しかし、左腕に大怪我を負ったアレクシオスの治療のためには、それは不都合なので、誰かが右手にはめ直したのではないかと推測される。原文でも "on the wrong hand" とあるのだ。また、エメラルドの指輪には確かに傷はあったが、ここでは "its flamed emerald" とあり、指輪は輝いている。

病床でアレクシオスは指輪をはめた手をかざして動かしている。「指輪の石に日光があたった。そしてその石の奥に小さな緑の火花が散り、そして消えるとまた目覚めた(p353)」。いったい何が「目覚めた」のだろう。もちろん、エメラルドの「緑の火花」が消えたり「目覚め」たりしたのである。しかし、「火花が目覚める」という表現は適切であろうか?

最初の数ページでこんなに気になるところが出てきてしまった。もちろん、さすがと感服した「こなれた日本語」もある。しかし、どちらかというと、文脈から外れていて理解できない表現が多く、文意を伝えきれていないのではないかというのが最終章を読んだ印象である。だから、「三人寄れば文殊の知恵」の読書会でも未解決だった疑問は残念ながら解決できていない。

開き直るわけではないが、翻訳には誤訳がつきものといってよい。また、翻訳者が作品世界に入りこんでしまっていて、客観的に自分の作品(訳文)を批評することが難しい場合もあるだろう。だからこそ、丁寧に正確に厳しく物語を読んで、言いにくい意見も率直にいえる編集者の存在が不可欠なのだ。最初の読者である編集者の責任は重い。この作品の場合はどのようなプロセスを経たのだろう。

サトクリフは必ずしも読みやすい作品を書いてはいない。石を積みあげて強固な建物をつくっていくようなサトクリフの緻密な英語には本国でも読者離れがおこっているときく。しかし、一方では「フェニックス賞(出版後20年後たった作品に与えられる賞)」を2作品で受賞している作家であり、永続的な価値を持っている作品を書いている作家として評価されてもいる。彼女の作品をすべての子どもたちが読むべきであるとは考えないが、確実に読みつがれてゆく作家であり、読みついでゆかなければならない。そういう作家の作品はどんなことがあっても守るべきであると考える。そして「守る」事の意味を考えたい。


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