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新作

鹿の王

とうとう出ましたね。あああ、読みたい。しかし、仕事の準備がおろそかになるから、しばらくは我慢。
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バーズオール、続編を読む

バーズオール『夏の魔法』の続編 The Penderwicks on Gardam Street を読んだ。『夏の魔法』で紹介された一家のその後の物語である。四人姉妹の日常やガーダム通りの近隣の人たちとの生活が、子どもの視点から語られてゆく。父親の再婚問題を中心のプロットとして、とくに長女のロザリンドが驚き、戸惑い、ほかの姉妹を巻きこみながら、父の再婚相手を見つけることで、問題を解決してゆくさまが語られる。

そう、「解決」という表現がふさわしい。前回も指摘したが、この作品は「童話的」なのである。つまり、子どもの葛藤が提示されたとしても、深く心に分け入るような書き方はされていない。目指すは、ハッピー・エンディングなので、物語は、予定調和的にしかるべきところにソフト・ランディングする。それが心地よい。

例えば、ロザリンドを中心に「パパとイアンサくっつけ作戦」を展開する後半部分などは、当然のことながら、すべて子どもの視線、子どもの立場からの書き方がされているので、リアリティに欠ける(おとなの事情もあるだろうに、すべて子どもたちに都合よく事が進む)。あるいは、イアンサのコンピュータを盗み出そうとした男を捕まえた後のやりとりなどは、あまりにも牧歌的といわざるを得ない。こういった場面を疑問なく楽しめるのは、だれだろう?

その点を考慮に入れると、日本語訳の装丁は、おしゃれでおとなしい。YAをターゲットにしているのだろうが、作品の書き方、表現方法から考えると、さらに下の世代を取りこむ本作りを考えた方がよいかもしれない。小学校4年生ぐらいの子どもが楽しめそうなテクストであり、問題の扱い方である。あるいは、21世紀にこういう書き方ができるのかという驚きもある。

とはいえ、今回もテクストは、インターテクスチュアルで様々なテクストが複層していて、興味深い。

『夏の魔法』を読む

ジーン・バーズオール『夏の魔法:ペンダーウィックの四姉妹』(代田亜香子訳/小峰書店)を読んだ。四人姉妹といえば『若草物語』が一番に思い浮かぶが、この『夏の魔法』は、なかなか見事に『若草物語』を下敷きにしている。

ペンダーウィック一家(父と四人姉妹)が大邸宅(アランデル屋敷)のコッテージを一夏借りることになった。その屋敷には、孤独な少年が、母と暮らしていた。その少年と四人の姉妹の関係の構築がストーリーを構成している。四人の少女の書きわけも、うまいと思う。マーチ一家のお隣のローリー少年は、頑固な祖父と暮らしていたが、お屋敷に暮らす孤独な少年ジェフリーは、「めちゃくちゃお高くとまった」母親と暮らしている。この少年と母親との関係が作品の重要なプロットになっている。

『若草物語』がアメリカ市民戦争を時代背景にもち、ハリスの<ヒルクレスト・シリーズ>が第一大戦下のヨーロッパ(特にイギリス)を舞台にしていたことが大きく意味を持ってたことを考えると、この作品では、舞台設定や時代という空気が希薄だったのには違和感がある。これは私自身の思い込みなのかもしれないが、大きなお屋敷の描写や庭造りに執心するジェフリーの母親の生活(ヴィクトリア時代の上流階級の女主人を連想させる)がとても英国的で、しばしば、ここは「マサチューセッツ州だぞ」と自らに確認させたことが数回あった。小説というより童話的な雰囲気を持った作品だと感じた。

『若草物語』ではジョーと類似する、三女のジェーンが物語を通して、自分自身の物語を作っているのが、その作品の内容が物語とシンクロナイズしいるのは、最近のお約束であるかと思う。

石井桃子論

昨年の掲載に引き続く『新潮』での尾崎真理子の「石井桃子論」(石井桃子の図書館)を読んだ。そして、「石井桃子と戦争」も再読。「石井桃子の図書館」を読んで、前回の「石井桃子と戦争」がより見えてきたところがある。山本有三のもとで、「日本小國民文庫」の編集に携わり、その後、時局に流される形で(尾崎の言葉を借りるのならば「受難のように巻き込まれた戦争協力」)、時代を一人で生きてゆく石井の姿には胸をつかれる。そして触れられたくなかった、敗戦前後の東北での農業活動が意味するもの。

同じころ、村岡花子はきな臭くなるなか、「ラジオのおばさん」を辞め、ひっそりと、しかし、東洋英和で薫陶を受けたカナダの宣教師教師や友人たちの友情に答えるべく、灯火管制のもと『赤毛のアン』の翻訳に取り組んでいる。村岡とて文学者として「日本少国[ママ]民文化協会」に名を連ねているのだけれど。しかし、村岡には夫があり家族があった、たぶん経済的には支えられていただろう。また、多くの日本人とは違い、彼女は「鬼畜米英」を相対化できていたのではないか。

セルズニックから繋がって

ア★マゾンのサイトでセルズニックがアンドリュー・クレメンツの作品に挿絵を提供していることを知り、読書の合間に3冊読んだ(読書の合間に読書って何だ!)。 Frindle, The Landry News, Lunch Money, である。日本語訳は講談社から。読者対象は小学校4、5年生程度。結末が少々ご都合主義的で誇張されているところが気にかかるが(「誇張」は、アメリカ文学の特徴のような気がするが)、どれも面白く読んだ。アメリカの児童文学作品はYAを中心に読んでいたので(ニューベリー賞の受賞作品はYAにシフトしていると見てもよいかもしれない)、この人の存在は知らなかったが、とても人気があるそうだが、それもよく解る。

とくに私は The Landry News が気に入った。地味で目立たない女の子が、自分の作った壁新聞で教師批判をすることから物語は始まる。批判された教師(かつては優秀な教師として表彰されたこともあるが、今ではいわゆるM教師)は、その記事に憤慨するが、それを乗りこえて、クラス新聞を作る生徒を支援しながら、子どもによりそう教師になってゆく。その中で、「真実」はどう語られるべきかということがクロ-ズアップされる。

子どもたちの自主的な活動に対して、センサーシップを発動させ、そのことを利用してM教師を辞めさせようと画策する校長にリアリティがあった。問題の本質をすりかえて権力を発動するあたりはニヤリとしてしまった。しかし、現実には、問題を表面化させないために、決断を先送りし、責任を回避している管理職のほうが多いのかもしれない。

『Wonderstruck』を読む

ブライアン・セルズニック原作、スコセッシ監督の映画『ヒューゴの不思議な発明』は主要なアカデミー賞を取る事ができなかったようであるが、それでも、話題になっていたから、原作『ユーゴの不思議な発明』も注目されたにちがいない。フランス語ではHを発音しないから、英語原作の本でも、フランスが舞台になると日本語に訳したときには「ユーゴ」となり、主人公の名前が作品と映画で違っているというのが気になる。しかも、アメリカ人は「ヒューゴ」と発音しているし、子どもにはややこしいことこの上ないだろうが、そんなややこしさも、「言葉」への興味へと導くこともできるのであれば、面白いことだろう。

むかし、「チャールズ(Charles)」が「シャルル」になり、「ピーター(Peter)」が「ペーター」になり「ピョートル」になることを、世界史の資料集を見ていて気がついたときのワクワクした高揚感は忘れない(世界史の授業はホントにつまらなかったが、あの資料集はながめているだけでワクワクしたものだ)。その後、「イヴ・サンローラン」が「エヴァ・セイント・ローレント」と実際に知人が発したときの驚き、ありがたみが少し減じたような気もしたのだ。基本的に原音主義を取る日本となんでも英語式に発音してしまうアメリカ(イギリスも?)と、どちらがどうなど判断できるわけもないのだが、あちらで本を探したり、人の名前を口にするときにはかなり大変だった。「ボーボワール」が「ボビエール」で、「サンクト・ペテルブルグ」が「セント・ピータースバーグ」なんだから。原音主義だからといって、正確な発音ができる訳ではないし、固有名詞は難しい。閑話休題。

セルズニックの新刊 Wonderstruck が出ていることを知り、一気に読んでしまった。これが面白いのである。前作と同様、絵と言葉で語られてゆく物語である。1977年のミネソタに住む少年ベンの物語が言葉で、1927年のニュージャージィに暮らす少女ローズの物語が絵で語られる。この二人の物語がどう結びつくかというのがメインの物語であるが、その謎も含めて重層的な物語で、読後、ボーとなってこちらに帰ってくるのが少し時間がかかった。久しぶりの感覚である。しかし、1.3㎏の本は重たかった。

松井るり子さんのブログ

『ふしぎなふしぎな子どもの物語』(ひこ田中/光文社文庫)によせた松井るり子さんの見解(「るり子の日記」)に激しく共感する。彼女は、「本もマンガもアニメもゲームも、媒体が違うだけで子どもに物語を提供する点で同じ」というひこ田中さんの見解に、「素材感が違うのでは」と疑問を呈している。

わたしはゲームをやらないし、アニメも見ないので、それぞれのメディアについてはまったく語る術を持たないのだが、彼の刺激的な著作を読んで以来、気にはなっていた。FFがだいすきな同世代の友人にたずねてみたところ(彼女は読書家である)、「すべて自分でクリアする限りにおいては、自分のなかで物語を作ることができる」というようなことを言っていたが、仲間たちとの情報交換や「クリアブック」などに頼っている限りは、「物語をつくることはできないだろう」ということであった。自力で解決してはじめて眼前に物語が立ちあがるということか。

わたしが暮らす集合住宅の玄関ソファーにたむろしながらゲームに興じている子どもたちの姿を見る限り、彼らが物語を手にしているとは思えない(もちろん外からでは解らないが)。

授業の準備

来年度の3年生ゼミのテーマは「魔法使いの物語」である。中心は「アーサー王伝説」に登場するマーリンになるかと思うのだが、創作も視野に入れて課題図書資料をつくるための読書に励んでいる。いつものことであるが、「芋づる式」に本を読んでいるので、気がつくとどこか遠くに出てしまうのが難点。今回は、タイトルに触発されてWitches を読み、そこからダールにはまってしまった。ずいぶん昔に読んだ『おばけ桃の冒険』が初めてのダール体験だったと記憶しているが、この道に入るとかえってダールは(専門家からの評判が悪いので)敬遠していたのである。したがって、『チョコレート工場』をのぞいてはほとんど初体験といってもよい、と書いたところで、英語のレシテーション教材や「英語で語り」の講座で使った Revolting Rhymes がすこぶるつきにおもしろいことを思いだした。

Matilda もよかった。「魔法使い」の物語ではないが、マティルダの起こす「奇跡」と「魔法」がつながり、これも課題図書に入れてもいいかなと思い始めている。物語に「ページターナー」的要素があるし、速読教材としても使えそうである。しかし、ダールは今日図書館から届く(はまかぜ号)はずの The BFG でいったん中止としよう。でないと授業の準備が追いつかない!

昔話のアンソロジーでは、Ruth Manning-Sanders の A Book of Wizards がおもしろかった。邪な魔法使い、智に長けた魔法使い、ユーモラスな魔法使い、貧者に変装した魔法使いが出てくるが、中でも私は、"The Silver Penny""Rich Woman Poor Woman""Kojata"などのお話が気に入った。「貧者に変装して…」というのは、オーディンの流れをくんでいるような気がする。日本だったら「弘法大師伝説」か。

"Kojata"が気に入ったので、「また芋づるじゃん!」と自分自身につっこみを入れつつ、ロシアの昔話もまとめて読んでみようかと…。

斎藤惇夫『哲夫の春休み』を読む

ようやくリクエストの順番が回ってきて、『哲夫の春休み』(岩波書店)を手に取った。中学入学を控えた哲夫少年が父親の故郷長岡を訪ねる旅の中で不思議な体験をする(子どもの時の父や父の祖母にであったりする、少年が過去の一場面と交錯する)作品。

先行作品のテクストがそこここにちりばめられ、また斎藤惇夫の饒舌体が駆使された物語テクストが読者を不思議空間に引っぱってゆくが、それ故の冗漫さが読者を選んでしまうかもしれない。「自分の過去を見つけることで今の自分を意味づける」というのが作品の狙いだろうが、子どもの哲夫やみどりは自分の父親や母親の過去に出会い、よりそうことで自分を見つけるという構図になっている。この作品は斎藤惇夫による『トムは真夜中の庭で』のオマージュとも読める。

作品の成立には、彼自身の息子さんの夭逝があったという。痛い体験。

先週は、「サンライズ出雲号」に乗って島根に出かけてきた。全くの観光であったつもりが、当地では先進的な活動をしている学校図書館を見学したり、学校図書館関係者と懇談したり充実した時を過ごした。また、大田(おおだ)市の市会議員であるIさんの案内で、夫が小学校時代(ほぼ3年間)を過ごした場所にも連れて行っていただいた。感謝。

島根県は「子ども読書県」構想もち、すべての学校に専任の学校司書の配置をめざしている。そして、その成果は着々と上がっているようだ。ただ一人、ただ一つの学校だけの業績ではなく、行政が関わることの重要性を感じる。しかし、行政の意思の裏には、すぐれた学校図書館の存在があったに違いないだろうが。

『Lantern Bearers』読了

ほぼ1年をかけて1章ずつ読み進めてきたサトクリフのLantern Bearersを読了した。アクイラが敵方を助けた事を告白する最終章はやはり感動的である。「日没の時代に生きている我々が、灯を次の世代に渡すのだ」というニンニアスの言葉は、現代にも鮮やかな価値を放っている。夜明けを迎える次の世代に何を手渡すことができるのだろうか。しみじみ考えた。

つい先日、ベンチに座って地下鉄を待っていた女老人(複数)が、電車が入って来たとたん、列にもつかず、扉の真ん中に陣取り、おりる人を押しのけてまで先に乗りこんでいった場面に遭遇した。降りようとしていた女子高校生はあっけにとられていた。私もびっくりしたが、そのあと怒りが噴出した(怒りは血圧に悪いと知りつつ、押さえることができなかった)。あのとき咄嗟に、ババたちの首根っこをつかまえて「降りる人が先!」と言ってやればよかったと思った。その時間の地下鉄はいつも空いているのに。

歳をとってくると、他人のことなど目に入らなくなり、自分のことしか考えられなくなると聞いたが、そんな風になるまで私は生きていたくないと心から思うのであった。

<読了打ち上げメニュウ>
自家製レバーペースト
マグロとアボカドのサラダ
煮豚とゆで卵
切り干し大根の煮付け
鹿肉のシチュー

レバーペースト、サラダ、煮豚はわしこ謹製。飲み物は赤いワインを2本。次回からは、The Silver Branch に入る。

YA月間

期末レポートのためにYA課題図書リスト(21冊)をつくり、未読作品を粛々と読んできたが、ようやくそれも昨日『ライオンとであった少女』(ドハーティ)を読んで終了した。厳選したつもりでも、思いがけずがっかりさせられる作品もあり、なかなかハードであった。

新刊よりもやはり読みつがれている作品、定評のある作家の作品に軍配があがったが、最近の作家では、ジョーン・バウワーに注目したい。翻訳の場合は訳者の日本語表現力がその作品の質を大きく左右することを身にしみて実感した。

好みもあるだろうが、斎藤倫子さんの日本語には好感を持っている。

『みんなワッフルにのせて』

ポリー・ホーヴァートのニューベリー賞(オナー)『みんなワッフルにのせて』(白水社/2003年)を読んだ。

作品の舞台はブリテッィシュコロンビア州にある小さな町であるが、いかにも、アメリカ合衆国的な物語だ。また、日本ではYAにくくられ、落ち着きのある装丁で活字も小さいが、ネット上でみる原書影や「中身!検索」で原文を判断する限りでは、YAに括るのはどうかなと思う。一つの判断基準でしかないが、主人公は11歳の少女だし…。

アメリカ(合衆国)のリアリズム作品は、いい意味で「リアリズム」を突き抜け、「ほら話」や荒唐無稽な作品に仕上がる面白みがあるが、この作品もそんな雰囲気を持っている。しかし、どうも、しっくりこないのは、なぜなんだろう。

柏葉幸子『魔女モティ』を読む

『魔女モティ』(講談社)を読んだ。怒りにまかせて家出してきた紀恵(キー)が、黒猫に導かれて魔女モティの娘となり、クレッセント島で過ごし、自分の抱えている問題を了解し自分の家に戻るという「行って帰る」形式の一次元的ファンタジー。ライトな設定でありながら、扱っているテーマは「家族」で、離婚、ネグレクト、虐待についても触れられている。ただし、主人公が抱えている問題はさておき、それ以外に提示される問題に関しては、取って付けたような印象は免れない。

会話の不自然さ、流れの悪さでたびたび読み返し、立ち止まって考えたりして、思いのほか読みにくい作品であった。とくに日本語の明晰さに欠ける。「○○が言った」という件が、当の会話のあとに来ることが多く、そのたび流れを止められ、途中からイライラのしどおしであった。これは、会話に個性がないこと、また、読者が想定する流れとの間にギャップがあるということであろう。



柏葉幸子『ミラクル・ファミリー』(短編集)を読んだ。お得意の一次元ファンタジーである。また、「語る」ことが「騙る」ことにも通じるということを見せてくれ、文句なしに楽しかった。しかし、そのタイトル故に期待した「ミミズク図書館」は残念ながら、完成度も低く今ひとつの出来だった。

角川文庫での再刊なので、巻末に井辻朱美の解説「照らされるような読書」がついているが、これが鋭く秀逸。「救われているのに『痛い』。痛いのに、あたたかく、救われている」のは、井辻さんのおっしゃる「詩」と「実話」の両方を包含しているからであり、だからこそ、読者の着地点が「そのまま新しい本の中になる」のだろう。引用はすべて「解説」から。

山本容子のカヴァーも好き。

『Number the Stars』を読む

ロイス・ローリーのブログで、トルコの学校(Tarsus American College) で、Number the Stars を授業で使ってはいけないという視察官からの指示があったことを知った。理由は、作品のテーマや政治的意義が小学生にふさわしくないというものらしい(詳細はロイス・ローリーのブログエントリー Troubling letter just received と Turkey leftovers を参照のこと)。

作品は、アンマリー(10歳の少女)の視点から、1943年のナチのコペンハーゲン侵攻とユダヤ人排斥を語ったものである。歴史小説ではあるが、作者によるあとがきによると、作品に語られた出来事はすべて史実に基づいているという。人間の尊厳はどこから生まれるのか、そしてそれをどう持ち続けるのかということを考えることのきっかけになるすぐれた作品である。

先日、石原慎太郎が新党立ちあげに際して、「若い奴ら(50代も含めて)は、日本に対する危機感がない。日本のことを憂えているのは我々だけだ」というような傲慢な発言をしていたが、私は、慎太郎なんかに任せたらとんでもない方向に進んでゆくだろうと怖れている。「九条」の歴史についてきちんと認識しているわけでもない輩が、「九条改正」と考える人もいるのだから「九条堅持」を表明すべきではないなどと発言し、他の人の発言を排斥しているような時代なのだ。しかし、あくまで本人は「善意」のつもりであるから質が悪い。善意の欺瞞の嘘くささを感じるのは私だけか。

歴史的事実が隠されてゆくとどうなってしまうのか、それもやはりロイス・ローリーの The Giver によって語られていた。The Giver Number the Starsも子どもたちには是非手渡したい作品であると私は強く思う。このような作品が読まれないことこそ重要な問題として考えるべきだろう。しかし、「子どもたちにうけるために赤く髪を染め、図書館には子どもが読みたい本をまず入れるべきだと考えているあの人」は、ロイス・ローリーの作品なんかは「文化プレート」が違ってしまった過去の作品だから、もう、読まれないし、読まなくていいなどと考えているのだろうか?

『The Giver』を読む

ロイス・ローリーの The Giver を読んだ。極度に画一化された近未来の「コミュニティ」にくらす人びとは生活のすべてを管理されているのだが、自分たちは「守られて」平穏にくらしていると思いこんでいる。「コミュニティ」はあらゆる面で均一化されていて、太陽の陽ざしも、季節も、色も何もない世界である。家族ですら「ユニット」としてつくられたもので、個を尊重して生きることが許されない社会での物語が展開される。

独り立ちの時をむかえたジョナスが「受けつぐ人(the Receiver)」として任命され、人類の記憶を「受けつぐ人」として訓練が始まったときから、次第に真実が明らかなる。しかし、その真実を知るのは、ジョナスとthe Giverとよばれる記憶を伝える老賢者だけである。記憶を受けつぐことによって、ジョナスが感情を深化させ現在の状況に疑問を感じても、理解できる人は老賢者をのぞいてはいない。

記憶を持たず、感覚や情動の深化がない人間には想像力を持つことができないという恐ろしさに震撼した。しかも、想像力を持たなければ、いまある「生」すら批評することのできないのだ。

物語納めと物語初め

新しい年の訪れを言祝ぎ、みな様のご健康といっそうのご活躍をお祈り申し上げます。

2009年の「物語納め」は、富安陽子の『クヌギ林のザワザワ荘』(あかね書房/1990年)であった。まさに読み納めにふさわしい、しみじみとよろこびを感じる事ができた作品だった。一つ残念なのは、主人公の科学者であり豆腐職人の矢鳴先生の挿絵が、私のイメジと違うのである(挿絵は安永真紀)。表紙にはザワザワ荘の前で、矢鳴先生とアズキトギ、水の精がワインを飲んでいる場面が描かれているが、その先生の姿はとても豪放磊落な感じを受ける。しかし、私の中での矢鳴先生は、もう少し線が細くて、浮世離れしている感じなのだ。

そして、「物語初め」は、コルネーリア・フンケの『どろぼうの神様』(WAVE出版/2002年)であった。ネタ晴らしになってしまうので詳しくは触れられないが、後半部分の魔法的な「不思議」を発端にして始まる結末に若干不満が残ったが、楽しい物語である。描写過多によるもたつき感は相変わらずだったが、これは彼女の特徴的なスタイルであろう。運河が張りめぐらされたヴェネツィアの町や「有翼のライオン像」に烈しくあこがれをかきたてられた。矢島翠の『ヴェネツィア暮らし』(平凡社)を読んでいると、バルバロッサや彼の持つ骨董店などが実際にあるのではないかという気すら起る。この作品は、リアリズムの要素とファンタジーの要素を合わせもつドイツのメルヒェンの現代版である。

サトクリフ読書会

ほぼ一年がかりで読んできたThe Sheild Ringを読了した。昨日は、恒例の「終了時うちあげ」であった。普通だったら、まずおしゃべりが始まるところだが、昨日は、おしゃべりもなく、ランチもとばして粛々と読みすすめていった。拍手で読了を祝福し、午後2時頃からワインと持ち寄りの料理をいただきながら、えんえんと盛りあがった読書会であった。

Yさん持参の、<鴨のオレンジソース煮><トリッパ>、Oさん得意の<野菜と鶏肉の煮染め>、そして、私は<イカトロ沢庵><サーモンとホタテのサラダ>を作った。さて、ワインは何本あいたでしょう?

2010年は、心も新たにThe Lantern Bearersに取り組む。

Oさんより、布団の中でも暖かく本が読めるという「袖だけジャケット」をいただいた(手作り)。これは、優れもの。ありがとうございました。

Sun Horse, Moon Horseの日本語訳と<もしも映画になったら>のキャスティングでも大いにおしゃべりを楽しんだ。OさんもYさんも小栗旬ラブのようだ。

図書館の本

ほぼ2週間に一回、わが陸の孤島にも自動車図書館が巡回してくるようになった。ありがたいことである。今週の水曜日に届いた4冊を読了。

荻原規子『RDGレッドデータガール:はじめてのお使い』、斉藤洋『ギリシア神話』2冊、井上ユリ他編『米原万里を語る』である。自動車図書館に常備されている本ではないので、すべてリクエストで取り寄せてもらったものである。PCからリクエストができるのでかなり便利である。しかし、先日は、『水神』上・下巻を同時にリクエストしたにもかかわらず、「下」が先にまわってきたため(電話で申し込まないとこういうことになるらしい。ほとんどの人が順序よく読みたいのだと思うのだが)、上巻は○マソンで購入することになってしまった。この顛末については、ここでも書いた気がする。システム的な問題なのだろうか、いずれにせよ、実際的ではない。

『レッドデータガール』はおそらく何巻にもわたる大河ファンタジーとなるであろうその1巻目のため、物語としては大きな動きはなく、物語の枠組みと登場人物の紹介に終わってしまった。2巻目は今のところY市立図書館では68人待ちなので予約はしていない。斉藤洋の再話による「ギリシア神話」も面白かった。アテナを語り手にして、神々や英雄の勇勲を語り、時々ほの見えるアテナ本音がなかなかに面白い。

ドナ・ジョー・ナポリ

ドナ・ジョー・ナポリのBoundをようやく読了した。これは、シンデレラが元話になっている。しかもシンデレラ物語のルーツと言われる「葉限」(『酉陽雑俎』)を使っていて、中国(明)を舞台にしている。

著者の「あとがき」によると、「時代設定」「舞台設定」「民族設定」の三つの点で、オリジナルとは違っているということだが、とくに「纏足」を巧みに使っているのが効いている。主人公が最後に自立してゆくのがさわやかだ。継姉が、徹底した悪役でなく比較的曖昧な存在なだけに、むしろ継母との葛藤に目がいってしまうので、結末は、この継姉の行く末が気にかかってしまう。

岩波書店子どもの本情報

岩波書店発行の『図書』と小冊子『やかましネットワーク』が送られてきて、新しいラインアップにほくほくしている。

まず、サトクリフの『王のしるし』が少年文庫で新たに登場する(10年1月刊)。ずいぶん長いこと絶版になっていたのだが、最近、サトクリフの作品がつぎつぎ少年文庫で刊行されていたので、「ひょっとして」と思っていたのが、現実になってうれしい。サトクリフ読書会の1冊目の作品であったから、個人的にも喜ばしいし、感慨がある。

また、レアンダーの『ふしぎなオルガン』が来春新版として刊行されるという。これも絶版になって久しいが、うれしい復刊である。私はこの童話集に収められている「魔法のユビワ」を語りにまで昇華させたくて、古い古い英語版を苦労して手に入れたことがある。

「アーサー・ランサム全集」が少年文庫に入るのだそう。これも、めでたい! 『やかましネットワーク』編集後記によると、神宮先生がこの仕事を始められたのは、なんと30代半ばのことだそうだ。

『グリーンフィンガー』を読む

卒論指導の流れで、ポール・メイの『グリーンフィンガー:約束の庭』(さえら書房)を読んだ。明らかに、『秘密の花園』に対するひとつの批評であり、続編であると感じた。挿絵も美しい。

『秘密の花園』は、その結末でメアリーの影がかすんでしまというフェミニスト的不満が聞かれることがあったが、この作品はそれに対するひとつの答えを提示していると感じた。ここから照射してみる『秘密の花園』はどう見えるか? それについて何を基軸にするかで、面白い卒論が書けるような気がする。

授業後の「おたのしみ会」(女子ばかり)で、『小公女』がテレビドラマ化されることについて、みんながみんな、舞台設定(日本)や時代(現代)について不満を持ち、なおかつ、自分たちが読んだ『小公女』を汚されると感じているのがわかって、興味深かった。

『Otto The Silverhand』を読む

友人のお嬢さんがニューヨーク旅行中に古書店で探し求めたOtto The Silverhand をいただいた。ありがとうございます。早速読みはじめたが、面白くて、仕事もそっちのけで一気に読んでしまった。

中世のドイツが舞台である。領主達が群雄割拠し、略奪が繰りかえされる中世に、あたかもその時代のエトスを否定するかのように生きたひとりの青年の話である。<聖と俗><やさしさと残酷さ><正義と不正><善と悪>などわかりやすい二項対立のなかを物語は進んでゆくが、オットーのやさしさ、穏やかさ、寛恕の精神の過程がもう少し丁寧に描写されていたらと思うのは無い物ねだりか。

著者自身による、中世の雰囲気をたっぷり盛り込んだイラストレーションがすばらしい。残念なことに日本語版は絶版だそうである。

祝『The Mark of Horse Lord』読了

昨年の5月から読みはじめたローズマリ・サトクリフのThe Mark of Horse Lord をとうとう読了した。毎月2回、ランチをはさんで、ほとんど1日がかりの精読タイムであった。1回に1章ずつ、音読し、日本語に訳してゆくというごく平凡な「輪読会」である。

児童文学だからとサトクリフの英語を甘く見ていると、しっぺ返しを食らう。彼女の英語は、土台をきちんとくんで丁寧に時間をかけて建てた家のような文章にも思われる。緻密な構成とその表現に苦しめられたこともしばしばだった。なんといっても、地勢や風景描写、古代の風俗・習慣など、私たちの限られた想像力ではイメージしにくい場面が数多くあった。

本国イギリスでは「読める」子どもが少なくなってきたと聞いたことがあるが、日本では、数年前にちょっとしたブームが起きた。しかし、このブームも子どもたちにむけられたものというより、往年のサトクリフファンに差しだされたもののようだ。

『第九軍団のワシ』をはじめとする<ローマン・ブリテンもの>が新しく岩波少年文庫版で出されたが、子どもに手渡す前に、まずは、教師や図書館員にじっくり読んで欲しいものだ。

というわけで、先日は読書会終了後、「読了飲み会」とあいなった。「途中で挫折するかもしれないと思った」ほどだったから、読みきったあとのワインは格別の味がした。

次回からは、The Sheild Ring である。こちらは、「ノルマン人の征服」を時代背景にした、湖水地方に侵攻していたヴァイキングの話(らしい)。

カニグズバーグの『The Mysterious Edge of the Heroic World』を読む

翻訳が出ないうちに読みたいと思っていたのだが、ようやく、カニグズバーグのThe Mysterious Edge of the Heroic Worldを読了した。読みはじめたら、面白くて、やめられなくなってしまった。カニグズバーグらしさが随所にあらわれている秀作である。

作品は、すでに『ムーンレディの記憶』というタイトルで、日本語訳が昨年11月に出版されたことをネットで知ったが、このタイトルはどうだろうか? 自分が人間としての尊厳を守れるかどうか、その「境界」に踏みとどまることができるかどうかが、タイトルにあらわされた"the mysterious edge"なのだと読めたのであるが…。

一枚の絵をめぐる謎を解きほぐすという推理小説的な趣も面白いが、その謎を解きほぐすことによって、ナチの時代が浮かびあがり、その時代に生きた人が強いられた人生やその悲劇が、声高ではなく淡々と語られる。もちろん主人公は二人の少年であるが、主人公にも劣らない存在感を持った二人の老婆はすごい。



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