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ファンタジーとSF

学生からのおすすめ本、ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を興味深く読んだ。ファンタジーは好きだが、SFはあまり読んでこなかった。何故なのか? この作品を読みながら思い当たることがあった。まずは、SFのメタリック感、つまり金属的感覚や計算し尽くされた清潔感や規則性が苦手なのである。さらに、広大な宇宙を舞台にしたスケール感、宇宙物理学的な世界が想像力の限界を超えてしまうのが辛いと感じた。そういえば、松本祐子の<未散と魔法の花>シリーズに出てくる「庭」は非常に金属的で違和感を持ったことを思い出した。
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『図書館の魔女』を…

図書館の魔女

普段より時間がかかったが『図書館の魔女』を読了した。上下巻併せて1500ページ。日本語の本でこれほど辞書を引いたのも初めてかもしれない。読書のイメージとしては、ペルシア絨毯を一針一針紡いでゆくような感じだった。「水槌」の描写や機能、戦いの様子、化け物の風貌、「双子座」の館の様子など、想像力の足りなさや理解力不足の点は「そういうことね」と自らを納得させながら読み進めていった。という事は、模様がはっきり出ていないところもあるペルシア絨毯になったのかもしれないが、おもしろかった。

著者が言語学者という事もあるだろうが、言葉や書物に関する記述には圧倒された。造語(おそらく)も、印欧語だけでなく広範な領域を網羅している事もすごい。作品には、情報を駆使して「知」となすこと、そして、その「知」を政治的(よい意味で)に使って、国際間の紛争を未然に防ぎ、平和的な解決を模索するという物語も読みとれるが、なんとか「戦争ができる美しい国にしたいと画策している」どこかの誰かさんに読んで貰いたいものだ。でも、あの人には読めないだろうなぁ。明確にトールキンの世界を継承している。

というわけで、積ん読本になっていた乾石智子の『魔導師の月』を読みはじめた。『夜の写本師』の人間関係が複雑で敬遠していた続編だったが、読みやすい事、おもしろい事。これも『図書館の魔女』効果である。乾石さんの文章は、直喩、隠喩、擬人法に満ちていて、授業の資料にも使えそうだと、邪なる気持ちも抱いている。

物語三昧

『キラキラ応援ブックトーク』で気になった作品を読んでいる。『シノダ! チビ竜と魔法の実』(富安陽子)、『ポリッセーナの冒険』( ビアンカ・ピッツォルノ)、『天山の巫女ソニン1 黄金の燕』(菅野雪虫)をそれぞれにおもしろく読んだ。

『シノダ!』はシリーズの第1日目ということで、登場人物の紹介や設定の説明もあり、物語の濃く深さという点では少し不満が残った。「ユイにとって、じぶんのママが本当はキツネだということは、それほど大きな問題ではなかった」という第1文には、吸引力がある。次作以降に期待したい。★★★

『ポリッセーナの冒険』は、400ページもの長編であるが、昔話的なライナー構造をもち、テンポよく話が進んでゆくので、長編への入門にはうってつけの作品だと思う。ポリッセーナとルクレチアのコンビもよく描かれている。翻訳とは思われないほどに日本語が自然でわかりやすい。★★★★

『天山の巫女ソニン1』は、巫女修行をしていたソニンが「見込み違い」として俗世へ帰されたところから、物語は始まる。巫女としては使いものにならないとされた少女が、王国の陰謀を明らかにし、救うという筋立ては、目新しいとはいえないが、読ませる。あまりに現代的すぎる言葉づかい(会話)は少々気になった。★★★★

訪問者を示すカウンターがまたあやしい動きをしている。

The Discovery の発見!

毎年この時期になると「子どもの文学」に関わる授業では、「サンタクロース」を取りあげる。サンタクロースはキリスト教の聖人伝説やキリスト教布教以前の伝承の存在を原型にアメリカで完成されたこと。また、サンタクロースの存在やその到来は、キリスト教との関わりはあるけれど、キリスト教の行事ではないことを伝える(あるカトリック教会ではサンタクロースが処刑されたこともあった!)。ツリーの存在にもその根底には樹木信仰が見える。

かつて、北海道(旭川)で開催された「サンタサミット」には、世界中から、10人のサンタクロースがやってきたと聞いているが、このことをふまえると、11人目には、秋田の「なまはげ」を加えてもよいだろうし、「笠地蔵」のお話は、日本のサンタクロース話であるとも捉えることができるのではないかというような話もする。

そして、"A Visit from St. Nicholas"、"Is There a Santa Claus?"、"The Polar Express"などを読んで、時間があるときは、映画版のThe Polar Expressを鑑賞し、「サンタクロースを信じる心」とはどのようなものかについても考えることにしている。

さて今年は、ノーマン・ロックウェルがSaturday Evening Post 誌の表紙を飾ったサンタクロースの絵も見てもらった。彼のイラストレーションには「物語」が感じられて私は好きだ。ロックウェルのサンタクロースも時代を経るごとにずいぶん変化している。初期の頃は、北極地方に暮らすサンタクロースが描かれていたが、その後、人間がサンタクロースに扮している思わせるような絵もある。"Santa on a Train"(1940) や"The Discovery"(1956 :"Bottom Drawer" とするのもある)である。

映画には、その"The Discovery" を表紙にした雑誌が効果的に登場する。主人公の少年が「サンタクロースの存在に懐疑感を持っている」ことを示す場面である(ここは、原作の絵本と正反対である)。ところが、映画のノベライズ版で確認すると、設定は1955年、少年の家はミシガン州グランラッピッズとなっている。これを知ったとき、私は「ありえなーい!」と叫んでいた。なぜって、ロックウェルの"The Discovery"を表紙にした Saturday Evening Post は1956年12月29日号だからだ。

こんな単純なミスを関係者がするだろうか? まさかと思う。ということは何か意図があるのでは。むしろ意図的に時代をずらしたことで、「ありえないこと」を強調しているのであろうか。いろいろ考えているが、これといった決め手はない。

"The Discovery"("Bottom Drawer")とは、箪笥のいちばん下の引きだしにサンタクロースの衣装を一式を見つけてびっくりしている少年が描かれているあの絵である。

柏葉幸子『つづきの図書館』を読む

「離婚歴あり無職」の女性が、伯母の介護をきっかけに自分の故郷に戻ることに決め、小さな図書館に臨時採用がきまったところから物語は始まる。子どもの文学の主人公は★★であるべきだと固定観念を持っていなかったとしても、この作品の主人公(山神桃)はかなり異色である。

偏屈な館長のためか、山神桃さんのまえにすでに3人の司書がやめたらしい四方山市立図書館下山別館は、遠くから見ると、「ツタのからんだサイコロ」みたいなこぢんまりした図書館である。どんなに小さくても図書館は、博物館と同様、時間と空間が凝縮された場所だ。ファンタジーの場としてこれほどふさわしい場所はないだろう。というわけで、この新任の臨時採用司書、山神桃さんにも突然不思議な出来事がおそいかかる。

本を読む側としては、その物語の内容が気にかかるのは当然のことである。「次にいったい何がおこるのか」「結末はどうなるのか」という思いにかられて、私たちは物語に熱中する。ところが、この作品は、本の中の登場人物が読んでくれた人の「つづき」が気になって、こちらの世界に現れでてしまうのである。

本の整理に図書館の二階に上がっていった桃さんは、突然声をかけられる。「つづきがしりたくてたまらん」と。なんと声の主は絵本の中から出てきた「はだかの王様」で、「青田早苗ちゃん」の消息を知りたいという。そして、桃さんは、青田早苗ちゃん探しにのりだす。早苗ちゃんの捜索が終わり、やれやれと一息つく間もなく、つぎつぎと、絵本の中の登場人物が捜索依頼をしてくる。

人捜しの中で、なぜ、その人物を探さなくてはならないのかという必然性が徐々に明らかになり、最終的には、桃さん自身の抱えていた問題も明らかになるという運びは、常套的であるともいえるかもしれないが、ひねりも効いていて、よくできている。また、絵本から出てきた登場者が気にかける子どもたちの抱えている問題が「いま」を映しだしている点では、たのしく読める作品ではありつつ、人間関係の複雑さや関係の不可避性に思い至らせ、考えさせる。だからこそ、おもしろいのかもしれない。

「はだかの王様」をはじめとする個性的な人物造型や登場者と桃さんとのやりとりなどゆきとどいた描写の細部が楽しい。

コルネーリア・フンケ『魔法の声』を読む。

コルネーリア・フンケ『魔法の声』(WAVE出版)を読んだ。

「物語を声に出して読むとその世界が現実になる」というプロットに惹かれて読みはじめた作品であった。主人公の父モーの声によってこの世界に召還されたカプリコーン一味との闘いの物語である。面白い作品だったが、全体的にモタモタしていて、とくに、終章あたりでは雑な読み方をしてしまった。

日本語訳で600ページを超す大作であるが、読み終わったあとはそれほどの達成感もなく、物語を堪能したというよろこびもあまり感じることができなかった。物語を面白くする要素は、そこここにちりばめられていると思うのに、どうも、モタモタした感じから脱却できなかった。続編『魔法の文字』もユーストで入手済であるが、英語訳を読んでみようかなと思っている。

ラウラ・ガジェゴ・ガルシア『漂白の王の伝説』を読む(ネタバレあり)

キンダ国の王子、ワリードは全ての面において申し分なく王子としての品格を備えた男であった。また、彼には「カスィーダ(長詩)」をつくる才能もあった。ところが、王子主催のカスィーダのコンクールを征したのは、ワリードではなく貧しい絨毯職人のハンマードであった。とうとうハンマードが3回目の優勝者となったとき、ワリードは、彼を古文書係に任命し、自分の監視下におき、幽閉しようと考えた。

王子の嫉妬と怒りで、ハンマードが古文書室の膨大な資料を全て整理し、さらに「人類の歴史を全て織りこんだ絨毯」ができたときまで、彼は解放されない。しかし長い時間をかけてついに、ハンマードは古文書を整理したばかりか、王子が命令した「人類の歴史すべてを織りこんだ」絨毯さえも完成させる。ところが、それはハンマードの命を奪うことにもなったのである。

この作品は、一人の人間を破滅させたワリードの贖いの旅の物語である。「漂白の王」と名乗ったワリードが、自分の運命に従い「おとしまえ」をつけるために、失われた絨毯を求めて砂漠を放浪する旅が描かれてゆく。

キンダ王国の王子ワリーダにはモデルがあり、作品には、実際に前イスラム時代の詩人たちの詩句も使われ、事実にもとづく要素とフィクションの要素がごく自然に絡みあって物語られるが、ファンタジーだという。しかし、この『漂白の王の伝説』は、私にとっての「他者」であるアラビア半島を舞台にしているせいか、ファンタジーとも思えず、物語世界全体が実在感を持って迫ってくる。

スペイン人作家のジョアン・マヌエル・ジズベルトが『イスカンダルと伝説の庭園』という作品で、やはりアラビアを舞台にした作品を書いているが、訳者の「あとがき」を読むと、「なぜ、アラビアか」というあたりの事について触れられていて興味深い。


「詩人トーマス」と「タム・リン」

スコットランドの語り手であるデイヴィッド・キャンベル氏が語るお話の一つが「詩人トーマス」(バラッド)であると聞いた時、「タム・リン」を連想して、「トーマス」と「タム・リン」を混同している事を指摘された。確かに、「タム」というのは、Tomのことではあるけれど、しかし、バラッドとしては別物のこの二つが、なぜ私の中で結びついていたのだろうか不思議だった。

それは、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『九年目の魔法』のためであった。この作品は、「詩人トーマス」と「タム・リン」を下敷きにした物語なのである。しかも、私は、章の始めに引用されている二つのバラッドをきちんと判別して読んでいなかったため、「銀の鈴のついた馬」もタム・リンの乗った「白馬」と一緒にしてしまい、自ら混乱を招いていた事も解った。情けない。というわけで、久しぶりに『九年目の魔法』を再読した。

これが何ともひどい翻訳で読めたものではない。結局、原書を取り出して、わけが解らず、意味の通らないところをチェックしながら読んだためにずいぶん時間がかかってしまった。なぜか「読まなきゃ」というオブセッションに捕らわれていたので、読みきったが、そうでなければ早々に放りだしていた事だろう。気になって、「グーグル」で読者の感想を探したのだが、「読みにくい」という感想は、ざっとながめたところ一人だけだった。えっ! 物語を楽しんだみなさんは、辛抱強いというか、寛大というか、私が「わがまま」なのか?

まず、最初から、日本語の使い方にひっかかったのだ(これは、以前読んだ時にも同じことを感じていた)。

「足をベッドの向こうに振りおろして荷造りを続ける前に、頭の上にかかった額を見上げた」(1994年初版一刷り、p13)

「足を振りおろす」って。確かに"swung"という言葉は使われているが、「振りおろす」なんて訳す必要はない。このように、英語の表現に引きずられての不自然な日本語はそこかしこにある。

「その人の手は大きかった。巨大で、長い指の列の下にたたみこまれ、こちらの手はまったく見えなくなった」(p27)

えっ? ここは、主人公の少女が、見知らぬ人に手をつながれる場面なのであるが、私には「長い指の列」を想像する想像力がない。悲しい。「大きな手につつみこまれ」あるいは、「大きな手に捕まれて自分の手が見えなくなってしまった」と書いては駄目なんだろうか。

「その日のうちに、お祖母ちゃんとニーナはポーリィが壁に釘を打ちこみ、横になった時に見えるよう、ベッドの上に額を飾るのを手伝ってくれた」(p55)

?????と疑問詞がついてしまう。まぁ、いいたい事はわかるけれど、申し訳ないが、こんな日本語を500ページも読まなくてはいけないなんて、私にとっては苦行でしかない。最近は2分冊になって出版されているらしいから、読みにくいところが直されている事を期待したいが、いかがであろうか。

ウィン・ジョーンズの英語は、そんなに難解だとは思われないが、彼女が紡ぐ物語世界は、かなり複雑で、知的遊戯にとみ、ぼんやりしていると取り残されてしまうことがある。そうでなくても、物語そのものが不可解な事も多い。そんなウィン・ジョーンズをこんな日本語で読まされるのはかなわない。時間をかけて読書したのに、物語を読んだ満足感、異界に遊んだよろこびが感じられない不毛な読書であった。

さて、「詩人トーマス」を下敷きにした物語をもう一冊みつけた。『吟遊詩人トーマス』(ハヤカワ文庫/アマゾンユーストで購入)である。今日はこれを楽しんで、お口直しといきたいところだ。

サー・ランスロットをキャスティングする

リアル大学の「三年生ゼミ」は、サトクリフの「アーサー王物語」の再話を読んでいる。1章、2章は精読し、その後は、章ごとにグループで要約を発表してもらっている。しかし、半期で終わらせたいと企んでいるので、すべてを読みきるのは難しい。

昨日は、"Sir Lancelot of the Lake"を何とか読みきった(ことにしよう)。じつは"Lancelot and Elaine"を読めばよかったと思ったのだが、後の祭り。来週は、みんなが楽しみにしている"Tristan and Iseult"である。これは、本来の「アーサー王物語」にはなく、後になってつけ加えられたものだそうだが、やはり、外せないだろう。

というわけで、昨日の「湖のランスロット」は冒険に次ぐ冒険でいささか冗漫になり、眠気も出てきたところで爆弾を落とした。

「ランスロットって誰のイメージ?」

ランスロットは、眉毛も口元も左右のバランスをひどく欠いた個性的な顔の持ち主でありながら、なぜか女性には好ましく思われていて、グネヴィアとのむくわれない恋(不倫か?)も、読みどころの一つである。

私が「どんな顔?」と言ったとたん、教室には活気がみなぎり、口々に名前が挙がった。「オダギリジョー?」。すみません、わからないです。「阿部寛を崩したような顔」という私の発言は、幾人かの同意をいただけたようだ。

さて、サー・ランスロット。誰をキャスティングしますか?

上橋菜穂子『獣の奏者』Ⅰ・Ⅱを読む(1)

上橋菜穂子さんの新作、『獣の奏者』Ⅰ(闘蛇編)、Ⅱ(王獣編)を恵贈いただいた。またもや、夜明け前から読みはじめ、一気に読んでしまった。あわせて約700ページである。読む人をあきさせず、ぐいぐいとひっぱってゆく物語の力とテーマの重厚な普遍性が絶妙なバランスをたもっている。骨太で哲学的思考をうながす内容なのだが、「物語のよろこび」をも堪能することができ、ここに来て、今年一押しのファンタジーが出てきたようだ。

けっして人に馴れず、また馴らしてもいけない獣とともに生きる宿命の少女・エリン。(『闘蛇編』帯より)

王国の陰謀に果敢に立ち向かう少女・エリン。獣を操る技を身につけた彼女が選んだ未来とは?(『王獣編』帯より)

「少女と大きな野獣」というと、アニメ『風の国のナウシカ』やル=グインの『帰還』が想起されるが、深さの面で『ナウシカ』より、さらに深く、物語のおもしろさの点では、『帰還』にも勝るのではないかと思う。いまは、読了した高揚感が強く、物語を客観的に述べることなんて無理なので、とりいそぎ、エリンの誕生を報告し、祝福したいと思う。

物語に没入しながらも、付箋を貼りつつ読んでいる私の姿を見た夫に「こんなときにも研究者魂が抜けていない」と揶揄される。

その後、『闇の守り人』を再読し、一昨日から上橋ワールドにどっぷりつかっている。

Gedo Senki ル=グインのHPより

ル=グインの公式HPに映画『ゲド戦記』の感想がアップされた。彼女がこの感想を書いたのは、アメリカでのちいさなプレミア試写会のあと吾郎監督に求められた感想の一部が、彼のブログで公にされたことが原因らしい。しかも、吾朗監督は自分に引きよせる形で「都合よく」彼女の言葉を紹介したのである。"Did you like the movie?"と問われて、彼女は次のように答えたという。

Yes. It's not my book. It is your movie. It is a good movie.

この"Gedo Senki"と題されたエッセイで、ル=グインは、試写会後のきわめて個人的な関係の中でなされた言葉のやりとりの真意を、ひじょうに冷静に述べている。"No"と異議を唱えるには、ふさわしい場でもなければ、言葉を尽くすほどの時間もなかったのは、お互い了解していたであろうに。

駿監督が映画作りに関わるということで、映画化を認めたにもかかわらず、作品には彼がまったく関わっていないことについての失望や怒りも感じられる文章だ。期待していただけに、彼女の失望感が痛い。私としては、<『シュナの旅』原案 宮崎駿>の意味がようやくわかったような気がする。何とか「駿」の文字を入れることで、つじつまだけは合わせようというむなしい努力だったのか。

内容についても、無意味に垂れ流されるお題目と映像の一貫性のなさへの疑義、アレンの父殺しに対する疑問、アニメーションの見せ場が「暴力シーン」の多用についての批判と「肌の色」への疑問など、私は彼女の感想にとても納得できる。

第二次創造物としての映画のあり方は認めているものの、作品とその読者への敬意が払われていないという言葉に、スタジオ・ジブリは、どう応えるのか。じっと見ていようと思う。

映画『ゲド戦記』<ネタバレ>

重い腰をあげて、映画『ゲド戦記』を鑑賞してきた。評判が今ひとつなのは承知の上で、それでも、宮崎吾朗が、あるいは、スタジオ・ジブリがル=グインの<ゲド戦記>シリーズをどう読んだのかを知りたかったからだ。結論を急ぐと、残念ながら、彼らには<ゲド戦記>は読めていなかった、ということだ。<ゲド戦記>の転換点となった『帰還』の主人公であるテルーを登場させたにもかかわらず、彼女の存在意義をまったく理解していないかのような作りであった。それは、最後の場面に象徴的に表われていた。

作りについてならば、いいたいことはもっとある。まず、セリフと絵がばらばらで、それぞれが活かされていない。テレビのコマーシャルでしつこいほど流れていた「命を大事にしないヤツは大嫌いだ」というフレーズが、ありえないと思われるような場面で、テルーによって唐突に発せられた。内心、テルーがそんなこと言うか、と不快感を覚えた。

そのほかにも、場面にふさわしくないメッセージ性のある言葉がうつろに響いていた。「死を受け容れてこそ、自分の生と向きあい、かけがえのない人生を生きることができる」というメッセージがお題目のように垂れ流しにされていたのも、空虚感をつのらせた。語るのではなく、映像の世界で「見せる」ことこそが、映像化することであると思う。その点でも明らかに失敗していた。

映画館では、夏休みとあって小学生も多く見かけた。この子どもたちは、映画を楽しんだのだろうかと疑問にも思った。「核」になる物語も明確ではなく、物語性も希薄だった。見せ所は、やはり「闘い」や「魔力の映像化」の場面で、確かにそこにはアニメのおもしろさがあった。急激な視点の変化や処理は、『ロード・オブ・ザ・リング』のサウロンの眼などを連想した。『ロード・・・』といえば、クモの館の高い塔やアースシーの町並みにもその残響を感じたのは、私だけだろうか。

クモといえば、原作では男性なのに、映画では女性だった。その風貌や振る舞いは、「セレット」あるいは「アカレン」を連想させる「魔法使い」として造形されていた。しかも、アースシーには女性の魔法使いはいないという設定であるにもかかわらず、だ。この辺も、読めていない、というか、軽々に「男と女の対決」を持ちこんでしまったのだろう。また、クモの破滅はクモの真の名を明らかにすることでなされるべきだった。

最後までわからなかったのは、アレンが父を殺した理由である。アレン自身にも「わからない」が、「自分の中の凶暴さ」が父を殺したと言わせていたが、これもあまりにもお粗末だ。父の殺害によって、アレンが「影」を出してしまうわけだが、その必然性はあったのだろうか。父殺しは、「影」を出すための手段としてしか思えないのである。

確かに、この作品は、息子「吾朗」が、父「駿」を象徴的に殺したからこそ生まれたのであろうが、こんなに軽々しく「父殺し」を描いてしまう、制作者たちの心性を疑う。『シュナの旅』の作者として、駿の名前をクレジットに入れたのはなぜだろう。最近、『シュナの旅』は駿が<ゲド戦記>にインスピレーションをもらって作ったと宣伝されているが、あれは明らかにチベットの昔話である。

一つだけよかったことは、映画の出来のあまりのひどさのために、私の<ゲド戦記>の世界がまったく侵略されずに、いや、なお生き生きと残っていることである。

空の場面や水の場面は、さすがに美しかった。

人形物語を読む

このところずっと人形物語を読んでいる(再読もあり)。読みながら、私はずっと自分に「なぜ人形物語に魅力を感じるのか?」「なぜ人形に魅かれるのか?」と問いかけていた。これは、まさに人形が「ヒトガタ」であり、私はどうやらその人形が「魂をもつこと」を望み、信じているのではないかと考えるようになった。

『アナベル・ドールの冒険』(アン・マーティン ローラ・ゴドウィン/偕成社)もおもしろかった。100年前つくられた人形の家に住む、陶製の人形の一家の物語。人形や人形の家の所有者は成長し、代替わりしてゆくが、人形たちは生まれたときそのままである。アナベルは、ある時、45年前(!)行方不明になったサラおばさんの消息が気になり、探し出そうと決意する。おりしもそのころ、新しい人形の家がプレゼントとして持ちこまれ、アナベル一家には「お隣さん」ができることになった。新しい人形たちは、新しい時代に作られたせいか、その素材や家の家具調度やら何もかもがアナベルたちとは違っている。アナベルと友だちになるティファニーの一家はなんとプラスティックの大量生産からなる人形なのだ。したがって、彼らが魂を獲得する秘技のような方法も、大量生産的で神秘性も薄れている。

アナベルとティファニーが二人で出かけるサラおばさん探索が物語の後半部分の山になってくるのであるが、サラおばさんを含めアナベルもティファニーもアリエッティの正統な継嗣であることが確認できる。すると、小人と人形はどうこがどう同じで、どう違うのかしら、、、。

作品を読み進めるうちに、人形や無生物が魂をもつことにいかに作家が興味を持っているかがわかり、興味をそそられた。ここをもう少し考えてみよう。

授業<ゲド戦記>

今日から最後の授業まで(あと3回)、章ごとに担当者を決めて発表形式を取る。何とか3章までは読みきって(英語です)、物語が進みだし、面白くなってきたところだ。今日の担当者である二組の学生たちは、レジュメもよくできたいたし、プレゼンの方法もなかなかよかった。「発表」のスタイルを取ると、聴き手のモティベーションが低くなることがあるが、授業終了後には、レポートを出すことになっていて、「明日は我が身」だからみな熱心だ。残念なことに、議論ができるまでには至っていない。

終了後、男子学生が二人でやって来た。この授業は5限ということもあって、終わるとみなそそくさと帰ってゆくので、こういうことはめずらしい。一人はすでに作品を読み終わっていたので(日本語です)、話すことが、的を射ていて鋭い。「ドラゴンボール」のXXと比較したのにはとまどったが(しーらない!)、「影を放つこと」「影とは何か」について、よく考え読みこんでいることがわかり、うれし。読書は苦手だといっていたが、この『影との戦い』を、がんばって読んだことは褒めてやりたい(と、書きつつ、忸怩たるものもある)。この作品には、読ませる力があるということだろう。せっかく英文科に来たのだから、うんとたくさん読んで欲しい。

岩波書店の愛蔵版<ゲド戦記>には、「小学校6年生以上」と対象年齢が書かれていたが、小学校6年生で<ゲド戦記>を読める子どもがどのくらいいるのだろうか、と考えてしまった。英語もそれなりに難しい。一回目の出来がよかったので、来週以降にプレゼンする人たちには、よい意味でプレッシャーがかかったことだろう。うふっ。

『Children of Greenknow』再読

Children of Greenknowを再読。以前には、気づかなかったことがたくさんあったのにびっくりしている。トーリーが「まぼろしの子どもたち」に出会うまでが何と丁寧に描写されているのかということに、今さらながらにおどろいた。つまり、ボストンのファンタジーづくりの過程をじっくり辿ることができたともいえるのだ。

グリーンノウの館で起こる不思議なできごとは、<アミニズム><五感><物語ること>がキーワードになっている。ボストンは、「モノ」が命を持ちはじめてゆく過程を、<五感>の一つ一つがどのように反応するのかを細かく描写してゆくことで説明している。まず、目覚めさせられるのは<聴覚>だ。それは「気配」として現れ、「音」になってゆく。そして<触覚>。「まぼろしの子どもたち」が目に見えるようになるまでのトーリーの苛立ちが、痛いほど伝わってくるのは、この描き方のためだろう。しかし、彼らを目にしたからといって、ほんとうに「見えた」とも保証されてもいない。オールドノウ夫人やトーリーの幻想かもしれないと読ませるのである。

<ファンタジー>とは目に見えるようにすること、という意味であるが、トーリーがみたものを<幻想>として曖昧にしておきたがっているようにも見えるボストンは、その描写においては、<ファンタジー>を拒否しているようだ。しかし、この作品で、目に見えない「モノ」が「見える」ようになる過程を丹念に追い求めている手法を考えると、<ファンタジー>の王道を歩いているようにも思える。

トーリーの水先案内人ともいえるオールドノウ夫人は、グリーンノウの館に住みつく守護神のような存在で、この館に住みつく子どもたちは座敷童子でもある。

プルマン

『黄金の羅針盤』『神秘の短剣』と読みつづける。日本語版のライラは、私が思っていたより子どもっぽくてがさつ。うーーん。
最後の巻を英語で読もうか、日本語にしようか迷っている。時間の節約のために、日本語で読みすすめようか。文庫本も手に入れたばかりだし。

必要あってDaffy and the Devilを入手し、読む。これはコーンウォール版「ルンペルシュテルツヒェン」。

ラヴェル卿が裸になってしまって終わるところが、何とも曰くいいがたし。子どもたちはよろこぶのかしら。マーゴット・ツェマックの暖かく味わいのある水彩画がいい。

魔女たちのうかれ騒ぎに飛びだしてゆくラヴェル卿は、こぶとりじいさんが、鬼たちの踊りに我慢しきれなくなって参加する場面を思いださせる。

『黄金の羅針盤』

連休明けの授業で『黄金の羅針盤』(新潮文庫)The Northern LightまたはThe Golden Compassをよんで読書会(?)をやることにした。出版されたばかりのころ、原書で読んでいたが、今回は日本語で読み進む。うーーん。気になる翻訳。

<体を起こすと両脚を折っておしりの下に入れ>(新潮文庫p13)この部分は<正座して>ではいけないのだろうか? 正座という概念は西洋にはないが、日本語で読む人にとっては<正座>で充分通じる。翻訳でひっかかり、なかなか進まない。

ケンブリッジでプルマン氏にに会ったのもずいぶん前のことになってしまった。

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