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<ゲド戦記>『影との戦い』を読む。

秋学期の「英米児童文学」のメイン・テーマの一つは、4回かけて『影との戦い』を読むことにある。この4回はゼミのような授業展開となっている。学生は1章ごとにワークシートへの書きこみが要求され、そのワークシートをもとにして、作品を読みこんでいこうというのである。一回につきほぼ70ページ(2、3章分の準備が必要となる)分が課題となる。まずは作品を読み、あらすじを整理するところから出発する。文学専攻の学生だからといって、何人かの例外を除いては読書を日常的にしていないのが現状だ。だからこそ、こんな風な授業をすることにもなるのであるが…。

私は<ゲド戦記>に関しては、4巻までは英語で読んでいて、きちんと日本語訳を読んだのは今回が初めてである。第1巻の中心的な流れはゲドが影をおびきよせ、その影をめぐるゲドの「戦い」のさまざまなこと(と曖昧な言い方をしたのは、ネタバレになってしまいそうだから)が語られる。気になったのは、日本語におけるゲドの造形である。彼が影をおびきよせたのは、もちろん彼の傲慢さであることは明白である。しかし、英語版と日本語版のゲドの印象があまりにも違うのである。

Standing there with rage in his heart, looking after Jasper, Ged swore to himself to outdo his rival, and not in some mere illutionmatch but in atest of power. He woould prove himself, and humiliate Jasper. He would not let the fellow stand there looking down at him, graceful, disdainful, hateful.

ここでは、ゲドのJasper =ヒスイに対する怒りからはじまり、ついには彼を打ち負かそうと決意する重要な場面である。ゲドのヒスイに対する怒り、コンプレックス、嫌悪の情が描かれているが、文体は間接話法が使われ冷静で客観的な印象を受ける。間接話法で書かれていることにより、読者とゲドとには距離が生まれている。読者が共感できるような書き方ではなく、説明されて「そういうことか」と了解すべきことのように書かれていると私は感じた。

間接話法は「他の話法に比べて活気に乏しく、重苦しい文体になる」と『英語文体論』の著者池田拓朗は指摘している。つまり、伝達者(=筆者)の言葉によって再構成されているため客観性が生まれ、ここではむしろゲドの生々しく激しい感情は幾分抑えられているように思われる。じつは、日本語訳は次のようになっている。

ヒスイを見送るゲドの全身は怒りに煮えたぎった。(いつか、絶対、あいつをやっつけてやる。それも目くらましの術なんかでなく、本当の力の試し合いで!)(どれだけ力があるか見せつけて、あいつに恥をかかせてやるんだ。あんなやつに見下されてたまるか。なんだい、あの憎たらしい、お上品なまねは。ふん、お高くとまっていやがって!)

原文の英語では三人称で語られ、心情の表出については伝達者が媒介している間接話法が使われている部分が、日本語では、心情を表す丸括弧を使って、あたかもその場でゲドが発したかのような臨場感を持った「ゲド自身の言葉」で伝えられている。ゲドの腹立ち、苛立ち、嫌悪感がひしと伝わってくる。読者の感情移入をさそうような文章だ。ことによったら、ゲドの子どもっぽさすら感じてしまう。訳者の思惑はどこにあったのだろうか? 

ゲドが影を召喚する場面は3カ所ある。1回目は、領主の娘に唆されて、オギオン(日本語訳ではオジオン)の書物を無断で手に取り死者の魂を呼び出そうとしている場面、2回目、3回目はヒスイが絡んでくる。ゲドとヒスイは初対面の時から馬が合わなかった。彼らは「ライバル」と言うより、お互いがお互いの「鏡」のような存在に思われる。生まれや育った環境こそ違え、二人は自分の力を過信し、他人に認めさせたがっているのだ。ゲドはヒスイの力を、また、ヒスイはゲドの力を受け容れることができないでいる。若気の至りで、若者特有の傲慢さで。ゲドの傲慢さが影を呼び出してしまったという読みは真実であり、正しい読みであることは間違いないところであるが、しかし、ゲド固有の傲慢さ、慢心のみだけから生み出されてしまったとすることには異論を持つ。

この日本語訳は人が持ちうるであろう「影の感情」をゲドだけの特別な感情と読ませることに導いてゆくのではないかと感じさせるものであった。
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金子みすゞ

春学期15回の授業もようやく終わりを迎えつつある。「英米児童文学」最後の授業は、学生のパフォーマンスと課題の提出である。それに先だって、「文字を声にするワークショップ」と絡めて「詩」についての授業をした。まえもって、「わたしの好きな詩」を書き、その理由を説明するリスポンス・シート(学生はリアペと呼んでいる。リアクション・ペーパーのこと)を出してもらっていた。驚いたのが、三割近くの学生が「金子みすゞ」の詩を挙げていたことだ。曰く「小学校の時に授業で扱って感動した」ということである。彼らは小学生以来感動する詩には全く出会わなかったのか? あるいは、小学校以来詩を読んでこなかったのか? と思わせるような出来事であった。

教育出版の『ひろがる言葉:小学国語5下』には、矢崎節夫氏による「みすゞさがしの旅:みんなちがって、みんないい」が教材として収録され、「大漁」と「わたしと小鳥すずと」の二編が紹介されているが、ほかの教科書でも何らかの形で扱われているに違いない。

「みんなちがって、みんないい」とは、「わたしと小鳥とすずと」の最後の連に置かれた言葉である。私にはどうもこの言葉だけが一人歩きしているように感じられて仕方がない。画一的で没個性的な教育への批判を受けて、個性重視的な教育方針にハンドルを切り替えたことのひとつの象徴的な教材選択だったのだろうか? それにしても、欺瞞的なにおいがしないでもないが。

しかし、この詩は本当に「一人一人がちがうからこそ大切で、すてきなのだと」(矢崎節夫の文章から)言っているのだろうか? 私はそうは思えない。ここにはみすゞの悲しいまでの孤独感が見える。それは、比べるもの同志が異質であるからそう感じるのだと思う。「すずと、小鳥とそれからわたし」という言質には、人間の他者を受け容れないという閉ざされた心性がある。それは絵本『みんなちがう、でもみんなおなじ』と読み比べてみるといっそう際立つのだと思うが、「わたし」であって「わたしたち」ではないのだ。「わたし」に共感してくれる「あなた」という同質他者は存在していない。「みんな」のなかに「すず」と「小鳥」は含まれるが「あなた」はいない。そこに圧倒的一人を感じるのである。

みすゞを否定するわけではないが、いくつかの詩を読んでいると、気づいたことがある。もともと、「童謡」を意識しているため、音数を揃えることが大切だったのだろう、「お空」「お星」といった「お付き言葉」が使われていることである。こうなると、詩は一気に幼児性を帯びてしまう。歌で唄うならばあまり気にならない「お付き言葉」(「お星さまキラキラ、金銀すなご」は素直に唄える)も、読んだり、声に出したりするとまた別の感覚が生まれる。また、教えている教師はこの詩をどう読み、何を教えているのかも疑問に思った。

子ども時代の「教育」を素直に信じて、批評精神をなくして欲しくないと痛切に感じる出来事であった。ところで、「私の好きな詩」には、もちろん英文科の学生らしくシェイクスピアのソネットを挙げていた学生も複数いたことを追記しておく。

授業でパフォーマンス

「英米児童文学」秋学期は、「物語のあり方」を考えるために、作品分析、翻訳、物語作りを三つの柱に据えて授業を構築してきた。最後は、学生のパフォーマンス(持ち時間7分)で終了。

翻訳を選んだ学生たちの作品もすばらしかったが、The Mysteries of Harris Burdick をつかった「物語作り」のパフォーマンスは、感動的といってもよいできであった。一つの物語を作り上げるために、想像力、構成力、論理性、言語力、経験値等を十二分に使ったことがよくわかる作品ばかりで、教師冥利に尽きる。

しかし、この形態が今回成功したからといって、次の成功が約束されているわけではないところが、人と人がぶつかり合う授業の難しさであり、おもしろさなのだろう。また、少人数(20名)だからこそできたものでもある。

ブックトーク

昨日はリアル授業のほかに24日の休日授業分を収録したため疲れた。収録内容は、ブックトークの実践「ブックトーク:さそわれて庭へ」である。一昨年、庄内のA小学校の6年生に向けた授業で行ったものが核になっている。最初の部分が、カミカミで、できれば取り直したいぐらいの出来である事が悔やまれる。とくに昨日は体調のせいもあったろうが、ライブ配信の授業でも滑舌が悪かった。申し訳ない。

ライブ配信の内容は、前回の「昔話の話法の特質」を受けて、「子どもにとっての残酷性の意味」を長谷川摂子さんのエッセイ「昔話と子どもの内なる自然」を軸に、お話しした。長谷川さんは数年前に逝かれてしまったが、惜しい人を亡くしてしまったと改めて感じた。彼女の著作をもう一度読み直そう。

学園祭とオフ会

e=ラーニング大学の学園祭とオフ会に参加した。午前中の学園祭行事では、司書として様々な場所で活躍している4人の卒業生の座談会がなされた。アルバイトから始めながらもキャリアアップを重ね、いまではK市の図書館長として働くSさんは、私の最初の頃の学生でもある。久しぶりのうれしい再会であった。そのほかに、地球科学を大学院で修め、サイエンス・ライブラリアンを目指して国会図書館で働く男性、M市の教育委員会に所属している学校図書館アドヴァイザー、そして、首都圏の学校図書館で司書として勤務している方が参加なさった。

話題は、おもにに二つ。いま、ようやく認知されつつある学校司書の仕事について現場からの発言が興味深かった。学校司書がまず取り組まなければならないのは、教師との連携であるということが強調された。学校図書館は公共図書館とは違って、教育機関の中に存在する図書館であるために、公共図書館での方法が有効ではないことがままあることだ。これは、このブログでも話題にした事もあるが、学校図書館は授業の支援と子どもの学習力を高めるために存在すべき機関であることを認識しなくてはならない。もちろん「読書支援」も重要な課題ではあるが、それだけではいけないということ。つまり、学校図書館は「読書支援」と「学習・教育支援」の両輪で活動しなくてはいけないのである。この理解が進んでいないことが大きな問題であると思う。横浜市でも、全公立小・中学校に学校司書を配置するというプロジェクトが進んでいるが、学校司書の意義がどこまで浸透しているか、教員たちの図書館活用教育に取り組むための意識改革が進んでいるのか、そのあたりについては未知数だと、じっさいに、ボランティア活動に従事していて実感することだ。残念なことに司書教諭(兼任、図書係と呼称されることもある)自身が、図書館を活用する教育への理解ができていないこともある。

そして、もう一つは、図書館の様々な運営形態についての問題である。最近では、指定管理者制度をはじめいくつかの運営形態が存在し、公共図書館がすべて「行政」にゆだねられている訳ではない。大切なのは運営形態ではなく、利用者により質の高いサービスを提供するために何をなすべきかを考えることが重要なのである。じっさい、公立運営と指定管理者制度で運営される図書館が共存しているところでは、指定管理者制度で運営されてる図書館の方が利用者からの評判がよいという結果が出ているところもある。利用者に阿る必要はないが(利用者様とか患者様といわれると、むしろ不快に感じるのは私だけか?)、図書館の果たすべき役割の原則にそった運営をしてほしいと思う。

オフ会の後は、恒例の中華街での夕食である。東横線が和光市や飯能市とつながって以来、最近はいついってもひどい混雑で、人が少なくゆったりしていた中華街が懐かしい。接客はいまいちと言うか、いま七つだけれど、味と値段はおすすめの★華楼もさらに接客のレベルも味(それぞれの料理の個性がなくなって、どれを食べても同じような味)も落ちていたのはがっかりであった。その後、山下公園からシーバスに乗って横浜駅に帰ってきた。シーバスからの横浜港の夜景はステキだった。大観覧車や下から見上げるインターコンチネンタルホテルにはうっとりし、圧倒された。ここで写真をと公開したいのだが、スマホの機能をもってしても実物の美しさからほど遠い写真ならば、じっさいに出かけることをおすすめする。

落第点をつける

教師にとって落第点(不可とかD)をつけるのは、つらい。つらいというより、傷つくといっていい。不可になって当然という場合だって、何かできなかったのかと悩むこともある。

授業に出席していて、レポートが出てこない場合などハラハラしてしまう。連絡がつかないことも多いから、何とかしてこちらからコンタクトをとろうとする。今回の場合は、なかなか連絡がつかず、連絡がついたところで、学生の態度はあいまいだった。「出すのか出せないのか」の意思表示もなかった。それでもと、最後通牒を出して、タイムリミットぎりぎりのところでようやく出てきた。ほっとしたが、やはりわたしにはつらい出来事だった。

締め切りの数日前に、やる気なし、誠意なし満々のレポートが出てきた。これを目にしただけで、わたしは傷つき、失望し、さらに怒った。まったく授業を聞いていた形跡の見えないレポート。普通だったら、有無をいわせず落第点をつけるところである。しかし、当該学生のいい加減さに対しても非常に憤慨していたので、そのことを伝えるとともに、特例として「再提出」を認める旨を伝えた。謝罪も詫びも言い訳もなく期日前に出てきたレポートは、前作と同様の出来であった。

わたしの思いが、本人の心に届かなかったのかとがっかりする。どういう思いでレポートを提出したのか、見えてこない。高を括っているのかとしか思えないのだが、そう判断してよいのかとさらに悩んだ。ようやくの思いで決断した。

×××××! と叫びたい。

大学生の趣味

新学期が始まった。去年は1年生のサブゼミ(基礎演習)を担当しなかったので、新入生を担当するのは1年ぶりである。1回目は、ガイダンスをしてから自己紹介をしてもらうのが恒例で、出身地、大学で学びたいこと、趣味などを話してもらう。最近は男子学生が多いし、教員志望というのも増えている。

今年、気になったのは「趣味は音楽を聴くことです」というものである。その音楽はたいていの場合「洋楽」もしくは「Jポップ」だ。あまり「趣味は音楽」が続いたので、「どうやって聴くの? ヘッドフォンをつけて? 部屋中音を響かせて? コンサートに行く?」とたずねた。ほとんどの学生がヘッドフォンを通して音楽を楽しんでいるらしい。また、何かしながら音楽を聴く、という学生もいた。しかし、そういうのが「趣味は音楽」といえるのか、少々違和感を持った。実際に「ライブ」「コンサート」に出かけるのは、経済的な事情もあるのだろうが、ほとんどいなかった。

私は読書をしているときには音楽はダメだ。集中できない。「音」に気をとられて、気がつくとオーケストラ(あるいはピアノ)とうたっている。クラシック音楽は好きだ。だからといって私は「趣味は音楽鑑賞」とは言わないし、言えない。「趣味」とはもっと自己を没入させるものではないのかと思うからだ。

なかには、「趣味は音楽」といっておけば無難だからと考えての発言であったのかもしれない。だから、きちんと自己表現してくれる学生は、キラリと光っているのである。しかし、「本を読むのが好き」と発言した学生はごくごく少数であった。

映画『ホビットの冒険』

4ゼミの学生と映画『ホビットの冒険』を見た。上映時間の関係で、授業時間を使うことになり、一同うち揃って品川のシネコンに出かけた。ことさら3Dを望んだわけではないのだが、これも時間の関係でそういうことになってしまった。

3Dは初めてで、さすがに迫力があったが、字幕が飛び出して見えていて、読みづらかった。内容は、原作通りに作れとはいわないが、3部作にするつもりなのか、原作をかなりひっぱっていたし、『指輪物語』と同じように戦いの場面が多く、私は好きではない。映画では寝ることなどないのに、ときどき意識を失っていた。

映画としては、細かな部分におもしろさを感じた。例えば、様々なレベルの英語が使い分けられていたこと。ビルボはアメリカン・イングリッシュ、オーケンシールドやエルフはブリティッシュ・イングリッシュ(BBCスタンダード?)、トロルたちは、ロンドン・コックニー風の英語をしゃべっていた(ようだ)。ガンダルフがボソボソしゃべるときには、まったく何を言っているのかわからなくて、字幕を頼るほかはなかったが、いったん字幕を読んでしまうと、英語と日本語では発想が違うので、英語を追えなくなってしまうこともあった。

また、物語の冒頭部分で、ビルボが "Good morning" だけで多様な意味を感情にのせて表現している場面が面白かった。序盤にドワーフたちがうたう歌や、最後に流れたバラッド風の唄がとても良かった。

女子学生を16人も引率(?)していると、一人一人が皆と足並みを揃えたいのか、すぐに行動に移せず、結局、ぐずぐずすることになるのが困った。集団で行動するとき、多くの女子は他人の思惑を気にしていて、自分で決定できず、横並びを好む傾向にあることが顕著になる。めんどくさいなぁ。

社会復帰

昨日から秋学期が始まり、<ドサまわりのフリーター>である私もおかげさまで社会復帰を果たした。「社会復帰ができるだろうか」と口にしたところ、「スイッチを入れるのは授業の始まる直前で大丈夫」というJ子アドバイスはあったが、やはり緊張するものだ。教師だって「登校拒否」になる。

授業資料をつくるために少し早めに車で出かけ、空き時間を見つけて、近くのデパートで「しょっつる」「ヒマラヤの塩」などを買い求めた。帰りも快適な走行で、横横道路では、搬送中の救急車を追い越して返って来た(私だけじゃないけどね)。

昨日のアクセス数がいつになく増加している。嫌な予感。

99%終了?

2011年度の仕事も大詰めをむかえ、成績処理もほぼ完了した。すべて完了とゆかないのは、某大学の学生の最終課題に関して再提出を課しているからだ。これは、いろいろ考えた末の苦渋の決断であるが、遠足大学でも、遅れて提出してきた学生のレポートに不備があり(内容、書式ともに)再提出させたことでもあるしと、決断した。

努力だけではレポートの評価はできないが、いっぽうで、その努力に報いたいというのも本音である。授業に参加し、誠実に課題をこなした学生を落としたくない。心は千々に乱れる。やり過ぎ? 公平性に欠ける? など自問自答の結果である。なかで、またまた、課題とまったく違うレポートを提出してきた学生もいた。はじめは、間違いかと他の教員に問い合わせたが、どうやら、確信犯らしい。こんな学生に遭遇すると冷水を浴びせられたように身体中が竦み、傷つく。

さて、レポートの課題である「ブックトークの原稿」を読んでいて、ひさびさに「読みたい気持ち」にさせられた。すぐれた「ブックトーク」は、すでに知っている本でも、知らない本でも、教師という立場を一瞬忘れさせ、観客にさせてしまうことがある。で、その気になって、当該書籍をポチリと購入し、失敗だったこともあるが、米澤穂信の『氷菓』(<古典部>シリーズ、角川文庫)は正解! もとは、角川スニーカー文庫で出されたというから、対象はYAであろう。

日常のちょっとした綻びに目をすえ、謎を解くミステリーであるから、わたし好みではある。この作品は「情報をどう構築するか」「情報をどう読み解くか」という視点からも読める。「…自分でわかっているのと他人にわからせるのとは話が別だ。自分の認識を、概念ベースから言語ベースにまで精錬しないと伝達はできない」(p178)などという表現がそこかしこにでてくる。こんな日本語もわたしの好みである。うーん。続編をポチリとしようか。ここでも思いは乱れる。

3ゼミのレポートはすべて添削し、全員が4ゼミに持ち上がるので新学期に返却する用意もできた。遠足大学でも、最終レポート添削希望の9名にはすでにメール便で返却済みである。あと少し。

怒!

遠足大学の授業が終わった。やれやれ。というわけで、昨日は恒例の最後のレポートを集めて、リュックに入れて帰って来た(車で行くと交通費すら出ないので、今回は寒くても=20分並んで座り、重くても=肩が凝るほど大量の本を持って、片道3時間以上かけて電車で通勤した)。しかも昨日は、途中でハートつきメールで夫から依頼を受けた特大グレープフルーツ4つが加わっていたのである(加わったものと云えばグレープフルーツのほかに、途中で買った文庫本一冊、単行本一冊、足形ホッカイロ6枚!)。

前回、お題「絵本のわかちあいの体験」とはまったく関係のないレポートを、確信犯で出した学生がいた。添削をして返却されるとは思っていなかったのだろう。「親ともわかちあえないし、そういう友人もいない」「卒論の口頭発表の準備で忙しいからたのめなかった」と返却されて後に、ぐずぐず言ってきた。お題は最初の授業で発表しているにもかかわらずだ。彼女が受けている授業の先生は、「出すだけでレポートを通す」のだろうか? そういえば、専任の教師に「教師(大学)は権力者だ」と云われたことがある。なめられているんじゃないの、大学。

昨日は、「提出日を間違えていました」とどう見ても言い訳の言い訳にしか思えない学生がいた。何回も念を押しているのに、「お★えの耳は節穴か!」といいたい気持ちをこらえて、データで提出するようにメアドを教えた。

今朝になって、メールを開いてみると、なんと件の学生以外に、もうひとり別の学生が「遅れてすみません」とレポートを提出していた。はぁ? あなたには教えていませんけど、わたしのメアド! というわけで、ふたりの学生に「誰から聞いたのか」「誰かに教えたのか」メールを送信した。「ことと場合によっては受理できない」という一言も加えて。これは、権力ですか? G先生! 常識問題だと思うが。

遠足大学以外の大学ではこんな不愉快な思いをしたことがないのだけれど、どういう訳なのだろう。朝から、怒・怒・怒と怒っている。書かなきゃおさまらない気持ち。すると、また、例の人たちがこのエントリを読んで、「あらまた下品なこと書いてるわ」「人の悪口書いてるわ」と目配せしあうのだろう。その様子が目に浮かぶ。読んでくれなくてもよいのに。

夫のハートつきメールは、それはもう盛大に…。要保存です。

Books for the Third-year Seminar

Yesterday I spent almost half a day searching books concerning wizards and witches which, I think, must be helpful for the term paper of the third year seminar sudents. At first I put the word "witch" on the network of Amazon, and there appeared over 2400 entries.

Sorting out books on the screen for the purpose, I was really amazed the numbers of the stories dealing with wiches, or books pulished under titles of "witches" or "witch craft". There are numerous books written in Japanese as well as in English. Through the searching I have no doubt convinced thet we are likely to love witches better than wizards. It is very interesting and I think it is worth trying to investigate this phenomenon.

Of course I myself love witches very much. Especially I have been affected by ogresses which make their entrance into Japanese folktales like "An Ogress and a Cowherd" "Three Charms". Actually you should rather call them "yamanba" in Japanese. Why? I know why I love them. I very much sympathize with them deeply, because they are in solitude and exist on the periphrey.

車で出講

遠足大学では、今年から「車で出講」すると、その分は交通費が払われなくなった。また、車通勤カードを交付(入構が楽になる)してもらうと、車で通勤しなくても交通費はまったく支払われない。経費節減や事務処理の煩雑さや国の土地の使い方の問題などいろいろあるのだろうが、その官僚的なやり方が不愉快である。

何もわざわざ好きこのんで車で出講するのではない。長距離ドライブの緊張感をはじめとして車出講はデメリットの方が多い。高速道路を使うから、交通費をもらっていたとしても大赤字である。しかし、学生に見せたい絵本や資料があるからこそ、いままでは必要なときには車を使ってきた。また、秋学期は港区にある大学とのダブルヘッダーになるし、勢い荷物が多くなる。でも、今学期はなんとか資料を厳選して車出講はやめようと固く誓った。

あまりに不愉快なので、「いろいろなデメリットがある車出講をあえてするのは、学生のためですが、このようなシステムを作るというのは、大学としても授業の質を落としてもよいとの見解をもっていると認識させていただきます」と言ってきた。事務職員は「いえそんなわけでは…」と言いかけたが、事実、私の場合はそういうことになるのだ。遠足大学は今年度限り。残念ながら、お金を払ってでも授業をしたい大学や学生ではない。国立大学の教職員の中には、すぐれた人もいらっしゃるのだろうが、ときどき、とてつもなく官僚的な人がいる。

非常勤講師をちまちまいじめるのはやめて、もっと別のところで経費節減してください! 国立C大学の附属小学校での既得予算を獲得するための「ずるずる海外出張」の話などいろいろ聞いてるぞ!

というわけで、遠足大学の1日目、午前7時に家を出て、金沢文庫駅で連結車両を20分ぐらい待って、品川まで座り、その後、東京駅から中央線を経由し(始発だから座れる)、大学までは徒歩で通勤したが(途中、朝食休憩、トイレ休憩)、3時間強の道のりであった。1コマ90分に往復6時間はあまりにもペイしない仕事である。

その後、港区の大学に移動し(途中で昼食)、授業後は学生と居酒屋で少々飲みながらおしゃべりしてきたので、帰宅は最終のウイング号。長い1日であった。しかし、日本の企業戦士(古っ!)は、毎日がこんな具合なのだろうね。

再会!

秋学期が始まり、ようやく1サイクル授業が終わった。ほとんどの科目がゼミ系統の通年科目なので、久しぶりに学生たちと再会することになった。ゼミをはじめ通年科目を受講をしている学生には、夏休みの課題(指定図書から8冊+『大学生の論文執筆法』を読んで、うち4冊のレポートを書くというきつい課題)を出していたので、それを集めつつ休暇中の出来事などを情報交換した。ほとんどの学生(確信犯で欠席した生徒がごく少数いたが)がきちんと提出してくれたことには感動した。とくに、1年生と3年生。中には、「一生で一番たくさん本を読んだ」といった悲しい学生もいたが、本を読んでくれなきゃ困るし、課題をクリアする中で、「学び」や「読書」ついて少しでも考えることになったらよしとしよう。

3年生は、全員出席し、全員レポートを提出してくれた。彼らの夏休みはさまざまだったけれど、しっかり遊んだりバイトをする中で、かなりの学生が東北(宮城、岩手)へボランティアに出かけていてくれたことがわかり、胸がいっぱいになった。「みなさんのことを尊敬します」と話したが、ほんとうにステキな学生たちだ。ありがとう。

人の話を聞くこと

案外、人って自分の立場からしか、あるいは、自分の持っている器からしか他人の話が聞けていないなと感じる事がたびたびある。これは、講義や読書だけに限らず、ごく日常の事もあてはまる。

このことで、私はたびたび夫ともめることがある。夫は「すでに言った」と主張するのに、私は「えっ? 今はじめて聞く」と問い直すことがあるのだ。他人の話がすっぽり抜けてしまうのは、我ながら情けないと思うが、逆に、教師という立場から同じ事に遭遇すると、「他人の話をちゃんと聞けよ!」といういらだちに変わる。

レポートは合格するまで(水準点に達するまで)書き直しを要請されると何度も伝えているはずなのに、「再提出の締め切りはいつですか?」と(あなたのレポートの出来如何ですと言いたいところだが)、しつこく問うてくる受講生がいた。「推敲すること」を「字数を削ること」と同義であると理解していた輩もいた。こんな時、いわゆる学生さんならば、こちらも気やすく、「日本語もっと勉強しようね」と済ますことができるのに、某大学の受講生はなまじ社会人としてのプライドがあるだけに、対応は難しい。

如何に傷つけることなくこちらの思い(もちろんその中には「ちゃんと聴けよ」といういらだちや、忙しいのはあなただけではないというウンザリ感もこめて)伝えることに腐心する。よって、対応はどうすれば「変化球」を効果的に投げられるかにかかってくる。これが、直球人間の私には難しいことである。変化球を投げたつもりで、暴投してしまうことも起こりうる。問うてくる本人が「自分が正しいオーラ」を出しまくっていることも多いので、「気づき」が生まれない事もある。

また、練って、練って準備し考えぬいた授業を「あんな授業でいいならば、誰でも先生ができる。あの先生は『この絵本いいよねぇ』としか言わない」と、アンケートに答えてきた現役の遠足大学学生がいた。以来、深く傷つき、もう二度と再びあの大学には行きたくないという淵を彷徨い続けている。

私がもっとも避けたいと思い嫌悪する授業を当の本人がやったと断罪されたのだからたまらない。しかも匿名で。こちらに関しては、受けとめる本人の感受性や能力や性格に問題があるとは解っていても、心は納得しない。

図書館活用教育@大学

大学生と図書館は切っても切れない関係だったのはいつのことだったろうと悩んでしまうぐらい最近の学生は本を読まない。私のゼミ生で大学図書館も公共図書館もヘヴィ・ユーザーであると推測できる学生は少数派である(3割ぐらい)。

昨年度は、文芸書、新書等をあわせた50冊ほどの「お勧めリスト」をつくり、夏休みの課題として「ブックレポート」を課した。今年も「読書課題」を夏休みの宿題として出す事を考えているが、それも、通年の科目であるからできるのだ。

また、今年のゼミは「リタレチャー・サークル」方式をとっているので、必然的に図書館を活用せざるを得ない。とっかかりになる情報は「ウィキ」でも仕方がないが、「ウィキ」のみの情報だけだと当然のことながら、私からの愛あるきついつっこみが入る。また、「図書館(員)を育てるのはあなたたち」であるとも強調する。「どういう資料を見たらいいのか」「どう探せばよいのか」を教えてくれるのは図書館員の仕事であると言ったら、「知らなかった」とびっくりしていた。

先日は、某大学で「せめて2000円ぐらいは本代に使って!」という話をしたが、例外はあるものの、偏差値と読書力って正比例している。日本文学専攻の学生は、英文専攻(文学も含む)の学生と比べると読書量が多いようだ。しかし、全く本を読まない学生もかなりいる。

生協の本屋さんの本が少ないこと少ないこと、自分の学生時代と比べてびっくりする。広さも十分の一ぐらいではなかろうか。あの頃は、お洒落はしなくとも本は買うという学生がたくさんいたように思う。かくいう私もその一人だったのだが。

本・本・本

授業準備の読書は「魔法使い・魔女の物語」を終え、いまは「伝承文学と子ども」をテーマにした文献を読んでいる。70年代の文献であるが、「神話・伝説をどのように子どもに手わたすか」という視点から書かれたもので、図書館学系の授業にも「子どもの文学」の授業にも有益な文献である。ブックリストも充実しているのだが、当然のことであるが新しいところがないのが残念である。

趣味の読書は、図書館から借りた東野圭吾(『新参者』『流星の絆』)などを終え、北村薫の「紫円シリーズ」を再読中である。『新参者』はちらりと見たテレビに誘われたものなのだが、なんと、最後の数話を見逃してしまい、犯人がわからずじまいだった。以来、気になっていたのだが、先日ブックモービルの棚で見つけた! リクエストには数百人待っているのに、なぜだろうと訝りながらも「ラッキー」な遭遇であった。

ところで、映像はやはり「見せること」にこだわり、言葉は、行間で「読ませる」ことができるので、映像で強調されている部分が、原作では意外にもあっさりとしか表現されていないことに気づいた。なるほど。

開講延期

早稲田大学が地震の影響を受けて、5月6日を新年度の開講日とすることに決定したらしい。私が関係している大学では決定も告知もされていないようだが、おそらく早稲田の決定を受けて右へならえをするのではないだろうか。

一週間順延でキプリング読書会を開催した。少しずつ、少しずつ日常生活が戻ってきている事を実感する。しかし、被災地ではようやく物資が届き始めたばかりで、ライフラインも確保できていない場所も多いときくと、心が痛む。



「語りの世界を楽しむ」授業

遠足大学では語り手たちの会所属のS・Tさんをお迎えして、恒例の語りの授業となった。S・Tさんを授業にお迎えすると、授業の方もゴールが見えてくる。やれやれ。

今年はとくに、「学生が楽しめるお話」をお願いした。メインは「新釈落窪物語」である。阿漕と北の方の二人の視点から、落窪姫を薬典の介と結びつけようとする北の方の策略をがなんとか逃れ、右近の少将と結ばれるというエピソードが語られた。扇を使って二人の女性を語りわける技もさることながら、声の調子やトーンにいたるまで若い阿漕と中年のしたたかな北の方がうまく語りわけられ、ストーリーラインも解りやすく楽しんで聞いた。

学生の中には「若い人の役をするときはとても若い人に見えたし、殿様や北の方の役をする時は、気のせいかもしれないが顔のしわが増えたように見えて、百面相で全然飽きなくて、Sさんの顔ばっかり見てしまいました。年齢不詳で魔女なんじゃないかと思ってしまいました」なんて感想もあった。顔の表情だけでなく、お話もしっかり楽しんでくれたと思うけど…。なんと、その後学生が三人揃って、質問ついでにSさんに直接年齢を聞いていたらしい。とても失礼。

<本日のプログラム>
はじめに
デ・ラ・メア「深く澄んだ目が二つ」
「もも売り殿さま」
「新釈落窪物語」
<インターミッション>
「あとかくしの雪」
さいごに
わしこ「語りびとの詩」

インターミッションでは、韓国のりこママと二人で、ペープサート「いちもくさん」(『ひらがなだいぼうけん』)を演じた。これも学生に楽しんでもらえたようだ。

翌金曜日は、ボランティア先の小学校で「いちもくさん」を一年生に聞いてもらった。物語の冒頭「本というのはひらきっぱなしにしておくと、もじがよなかにおしゃべりをしたり、とびだしたりするのです」というくだりで、女の子が感に堪えないように、「しらなかった」と思わずつぶやいたところが、とてもかわいらしかった。子どもたちの反応は、笑い声が聞こえたり、思わずつぶやきがもれたりして活き活きとストレートで、学生とは大きく違うことを改めて実感した。

Sさんの語りに声を出して笑ったのは、ひょっとして私と韓国のりこママだけだったかもしれない(顔の表情は緩んでいたらしいけれど)。ある学生は「笑いを噛み殺して聞いていた」とリスポンスシートに書いてきた。笑ってよ!

ゼミのシラバス

来年度ゼミのシラバスの原稿依頼がきている。何をしようか、いくつか候補はあるもののまだ決めかねている。4年生ゼミは、The Lord of The Rings かなぁ。全部はとうてい無理だができるだけ読みたいものだ。いったん物語に入りこんでしまえば、日本語よりも英語の方が読みやすく楽かもしれない。

3年生は、サトクリフ再話による『アーサー王伝説』か、それとも、別の人の再話を読もうか。『アーサー王伝説』の講読は、過去2度経験している。サトクリフの再話は、内容的にも英語難度からも教材としてすぐれているのだが…。それともまったく発想を変えて、別の作家の作品を読もうか…。

授業の覚え書き

Suddenly
●『3びきのかわいいおおかみ』
●『ハンダのびっくりプレゼント』
●『エルマーのぼうけん』から<持ち物のくだり>
●「ふしぎなオルガン」

授業の覚え書き

授業で教材として使った絵本

Rosie's Walk
Hug
Suddenly

Suddenlyは、分担して訳文を作成後、それぞれ発表した。来週は、この訳文を検討しながら「絵本のことば」について考える。

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某大学の平成19年度の給与の支払いについて、一科目分未払いではないかと、2年ほど前から問い合わせをしていたが、埒があかず、先日学校に行ったときに、学長が事務局にいたので、もう一度「あの件はまだ解決していません」と、まわりの事務局員にも聞こえるようにお話しさせていただいた(普通に話しただけのことであるが)。学長にはすでに報告済であり状況は把握されていたので、まだ解決していないことに驚きながらも、すぐに「何とかするように」と事務局次長に問題を委ねてくださった。

その返事が昨日届いた。学則では、同一科目を学期中に2回教える時には、2回目は半額になるという計算であるとの規則を提示して、私の場合もその規則を適用し、同一科目も3回目の授業には支払わないと通知してきたのである(3回目ならば4分の1ではないの?)。ということは、3回目(1単位科目なので全7回の講義。同じ科目だが、授業の内容はもちろん同じではない)は「ただ働き」ということになるらしい。学則は、同一科目を3回教えるというきわめてまれな事項を想定していなかったために、このようなことになったと推測できるが、「?」は消えない。

「学則」を錦の御旗に払わないのは結構だ(でも、常識的に考えておかしい)。私も、学則ならば納得するが、前回の問い合わせの時にも、「3回目の給与」であると明言しているにも関わらず、明解な説明と対応がなされなかったことには、事務局の経理だけでなく学校そのものへの不信感がつのる。また、ここまで放置されていた問題であるならば、きちんと書類を添付した上で説明すべきであろう。

本来の「敵」に向けて、「やめてやる!」と啖呵をきりたいところだが、それもできず、代わりに夫に向かって啖呵をきってしまったので、近頃まれに見る大きな夫婦げんかが勃発してしまった。事務の力に劣る○○な大学に関わってしまうと家庭は荒む。金はいらん!! 平和を返せ!!

来期の英語

市内にあるのに通勤時間がめっぽう長い大学で、語学(英語)の選択必修の授業を2コマ担当している。これが毎年何をやるかで苦労の種である。1つは、「リーディング&ライティング」で、来年度は受講生が外国文学専攻ということなので、サトクリフ再話による『オディッセイア』を講読することにした。アラン・リーの絵に助けてもらって、何とか完読をめざしたいが、どうだろうか。

もう1つが日本文学専攻学生のための「リスニング&ライティング」である。これが、なかなか決まらなかった。結局、映画「千と千尋の神隠し」の英語版(Spirited Away)のディクテイションをして、さらに、英文の発想や構造と日本語のそれとの比較という点も視野に入れることにした。というわけで、参考文献として『「千と千尋の神隠し」の言葉と謎』(佐々木隆/国書刊行会)を読んでいる。著者は、丁寧に映像(だけではないと思うけど)を読み取り、分析しているのでたいへん面白く、興味深い。

映像リテラシーをほとんど持っていないと自認している私にとっては、「どこを見るか」という示唆だけでもありがたい。けれど、映像だけでは心もとないので、アニメ漫画版も入手した。アニメ漫画版を丁寧に見ていると、今さらながら、宮崎駿(というかスタジオジブリか)のすごさが実感される。英語の授業から脱線しないようにしなくては…。

語りの授業

昨日の遠足大学では、語り手のSTさんをお迎えして、お話をたっぷり語っていただいた。ほとんどの学生が語りを聴くのは初めての経験であり、その初めての大切な経験にSTさんの語りを聴いてもらうことができてよかった。通常の受講生に加えて、学生のもぐり2名、卒業生2名、おとなのもぐり2名とうれしい顔ぶれの聴き手たちであった。

☆デ・ラ・メア「深く澄んだ眼が二つ」
★「リンドウォルム王子」:スウェーデンの昔話
☆谷川俊太郎「かっぱ」
★「静かな水」:ラフィク・シャミ作
☆わらべうた「せんぞうやまんぞう」
★「狼のまゆげ」:土地言葉による日本の昔話
☆わしこ「語りびとの詩」

語りの手便宜(水分補給と休憩)と聴き手の切り替えのために「幕間のお遊び」を入れたのだが、おとなの聴き手Aさんには「お話にひたっていたかった」と評判が悪かった。しかし、長いお話を聴くことに慣れていない学生に対しては効果的だったということがリスポンスシートを読んで確認できた。

おとなBさんが「語り」に関する本質的な質問をしてくださったので、「語り」が「覚える」ことではないときちんと理解してもらえて良かった。彼らは質問を心に持っているのに、恥ずかしいからか、なかなか皆の前では出してくれないのが残念だ。

おまけに「せつぶーん」を語っていただいて、満たされた気持ちで授業を終えることができた。STさんありがとうございました。

さぁ、遠足大学もあと1回を残すのみとなった。最終回は「物語体験」についての授業。その後、埼玉の図書館の講座、山形県余目の小学校での講座が控えているので、しばらくは気が抜けない。

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