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行ってきました

シンデレラの世界展

日比谷図書館で開催されている「シンデレラの世界展」へ、先々週出かけてきた。こじんまりとした展示で少々拍子抜けした。仕事帰りに立ち寄ったのでなければ、時間の無駄だと思ったに違いない。

それぞれの時代(ジャズエイジ、大恐慌時代、第二次大戦など)ごとに出版された絵本、資料が展示されていたのであるが、説明がいかにもお粗末。チャップブックやトイブックの映像も流されていたのであるが、それについても一言も説明がなされていなかった。せめて、「葉限」やペロー、グリムについての基本的な記述はなされるべきだったのにと思う。

古いものはともかく、現代のシンデレラ絵本についてはおもしろいものもあるのに、展示そのものが1960年代で終わっているのは残念であった。また、美術史的な視点、絵画的な視点にも欠けていた。
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中学生のための絵本

昨日は一日中、中学生の「読みきかせ」にふさわしい絵本のブックリストを作っていた。中学生のための「読みきかせ」は基本的に「朗読」「語り」にしたいと考えているのだが、最近では、かなり長い絵本も出版されていて、小学校高学年か中学生でないと読んでもらえないようなものも多く、そのようなものを中心に選んだ。

とりあえず和書を30数冊、洋書を10冊程度リストアップしたが、和書、洋書とも倍ぐらいまでにはもってゆきたい。学校で与えられた時間は10分なので、長い物語などは「概要紹介」「朗読」という手順を踏んでの「読みきかせ」ということになるだろう。また、短い「ブックトーク」も必要だ。そうなると、将来的には、こちらの技、つまり技術的な技ばかりでなく、それ以外のスキル習得も視野に入れなくてはならないだろう。

子どもが大きくなるとママたちは、仕事(パート)を探しはじめる。中学生の読みきかせボランティアをするよりも、これから膨大にかかる教育費の一部でも稼ぎたいという気持ちは理解できる。また、主たる家事の従事者が、自分のボランティアのスキルアップためにお金を使うことはまずしないだろう。現在の状況を考えると、なかなかにたいへんなことであると感じている。

五味太郎。『みんながおしえてくれました』。(Ⅱ)

学校は「生きてゆくための本質的なこと」は教えず、「いろいろこまかいこと」しか教えない存在なのかという議論はともかく、五味にとっては「学校はそういう存在だった」ということであろう。これは、彼の様々な著作から了解できることである。「五味は学校を呪詛している」というのは私が敬愛するS氏の言葉であるが、この絵本は、「学校を呪詛すること」をエネルギーの源泉として作られている絵本でもある、と言っても言い過ぎではないだろう。

どうやら『みんながおしえてくれました』(1979)、『大人問題』(1996)、『むかしのこども』(1997)は同じライン上にあったのね。今振り返ってわかったことなんだけれどさ。思想とまでは言えないけれど、なにかもう揺るぎない理想論みたいなものがぼくのなかにあるみたいだね。(中略)『みんながおしえてくれました』はぼくの絵本作業のなかで初めて発言するという気持ちで書いた絵本なんだと思うな。そのころはあまり意識してはいなかったけれどさ。(中略)そして遅ればせながらぼくの中に世の中一般の「子どもの本」という存在のあいまいさや、教育システムの不合理みたいなものをあらためて考えてみる気がでてきたような気がするな。(中略)いま『みんながおしえてくれました』をあらためて読んでみると、うん、充分に描けているじゃないか、と思う。(『絵本をつくる』、ブロンズ新社。2005年。p73~p74)

『みんながおしえてくれました』は、初版が1979年(1983年初版となっているものもある)で、79年には『さる るるる』『ことばのあいうえお』をはじめとして、全部で20点の絵本が出版されている。これ以後、出版点数は爆発的に増えている。五味太郎の絵本作家としての出発点が、1973年の『みち』(福音館書店/絶版)であり、1978年までの彼の作品の出版点数がすべてあわせて17点であることを考慮すると、この『みんながおしえてくれました』は、五味太郎のキャリアの中のごく初期(の最後)に描かれたものであると判断できる。さらに、上記のように、ずいぶん後になって彼自身が「充分に描けている」と評価しているが、同じようなテーマを持つ『正しい暮らし方読本』(福音館書店/1993年)と比べると、アプローチの手法やユーモアの使い方に関して洗練度に違いがあると感じるのは私だけであろうか。

また、彼の根底にあると思われる「じょうぶな頭とかしこい体(言われたことの意味をたしかめ、決められたことの内容を考え、必要があれば問題をとき、自分のために楽しい仕事をさがし出し、やるときはやるし、さぼりたいときはすぐさぼる)」というテーゼは、残念ながら現行の学校教育の中では実現し得ない。とすると、この作品を「学校へいって先生から学び、なにより友達がたくさんいるのが一番ですね(「絵本ナビ:みんなのこえ」から)と読んでしまうのは、大いなる誤読であると言わざるを得ない。

最終場面の「なにしろ/ともだちがたくさん/おりますから/どうみても/りっぱなひとになるわけです」では、主人公の女の子は隣の子に髪の毛をひっぱられているし、友だちは、てんでに好きなことをやっている。この絵に、「どうみてもりっぱなひとになる」というテクストかぶさると、「りっぱなひと」という言葉が浮遊してゆく。その言葉と絵との遊離は、「りっぱなひと」という概念を無化し、無意味化してしまうだろう。だから、少なからずの受講生が混乱し、「よく解らなかった」と感じ、「何とか書評をひねりあげた」という感想がでてきたのだと推測できる。しかし、それが五味の狙いだったのではないのだろうか。

「絵本ナビ:みんなのこえ」には「最終ページにいくにつれてだんだん内容の意味がわからなくなってきます。読み終えても『一体この絵本は何が言いたいんだろう??』と未だに疑問です」という声もあったが、「★★は☆☆におしえてもらいました」というくり返しに、心地よく揺さぶられながら、その揺さぶりに身を任せて後半部分を読んでゆくと、心と身体が頭から分離してゆく違和感がある。それが、「??」の理由ではないか。違和感に敏感でない読み手は、力技で「学校へいって先生から学び、なにより友達がたくさんいるのが一番ですね」「ともに教えあうことのすばらしさがあります」と読んでしまうのかもしれない。

もちろん読者には「誤読の権利」がある。誰がどう読もうと批判されるべきではない。しかし、それが許されるのは、「素人の読者」であるという限定括弧付きである。教師や図書館員をはじめとする子どもの読書に関わる人は、自分を鍛えて、できうる限り誤読を避けるべきだというのが私の持論である。それが、子どもに対する責任なのだ。

ある受講生から「家族の不在に不気味さを感じた」という意見が出されたが、誤読を承知で、家族を描かなかった五味の意図を探りつつ、この意見に対して私自身の読みを展開するとするならば、私はこう考えたい。この作品は、子どもの周りにいて、子どもを支えるおとなは、ある時には「歩き方を教えるネコ」になり、ある時には「おなかの冷えない昼寝の仕方を教えるワニ」なり、また、ある時には「土の上の出来事や土の中の秘密を教えるアリ」にならなければいけないと伝えているのではないかと。したがって、実は、この作品は、前半では理想のおとな像を語っていると読んでみたい。いささか、強引かもしれないが、いかがであろうか。

絵本であろうと物語であろうと、おとなの小説であろうと、やはり、文学批評はおしなべて、理性的に論理的に読者を新しい「読みのステージ」に導くものであるべきだ。そのために、その場にいるものは、自分を鍛えるしかないのである。


五味太郎。『みんながおしえてくれました』、絵本館。(Ⅰ)

複数の書評や紹介文から疑問を持ちはじめてほぼ1年、満を持して、『みんながおしえてくれました』(五味太郎/絵本館)を授業で取りあげた。授業のテーマを「書評とはどのような行為か」「児童図書館員としての作品評価の姿勢」とし、事前に受講生から提出してもらった200字~300字の書評をじっくり検討しながら、作品を読み解こうという試みである。

授業の場では、ごく基本的な日本語表現についての疑問から、自分の読みをどのように言語化するのかというかなり高度で実践的な問題にいたるまで多くの課題が出てきたが、結果として、受講者全員が書評について基本的な問題意識を共有することができた、充実した授業であったと思う。

書評とは、①作品に対する自分の評価を言語化したものである。②評価をするためには、まず、自分の「読み」を検討し、提示すること。③作品を「読む」とは、自分と作品との向きあい方を問われることである。つまり、作品を通して、自分自身の世界観や価値観を再点検する機会であること。④「読み」は多様であるが、とりわけ、子どもの本のための書評では、「誤読」を避けるために最大限の努力をし、自分を鍛える必要があること。深く読む努力を惜しむ人は、子どもに関わるべきでない。ここを前提に、一つ一つの書評を検討した。

結論からいうと、『みんながおしえてくれました』は強烈な学校批判を含んでいる作品といえる。ところが、ネット上で見かけた「カストマーレビュー」や「おすすめ評」では、「周りから何かを見て学ぶ事、 色々な事に興味を持つ事、何でも良く考える事、積極的に人に聞く事、周りの人や生き物のありがたみ(中略)が、ごく自然に、シンプルに、ポジティブに描かれています」というようなごく表層的なコメントがほとんどで、前半(見開き15画面のうち4分の3をしめる12場面)と後半(見開き3場面)の連続性と非連続性を読みきれていないための誤読、後半部分のテクスト「それにそもそもわたしはかんがえるひとでもあるし」から始まり、「ほかにいろいろこまかいことはこのひとたちがおしえてくださいますし」「どうみてもりっぱんなひとになるわけです」のサーカズムの響きを理解できなくて、後半部分も前半の繋がりから「みんなに助けられていることの大切さを伝える」絵本であると読んでしまった評者も少なからずいた。

しかし、後半にはいると前半の「★★は☆☆がおしえてくれました」という包みこむような柔らかい調子が影を潜め、テクストは、一変して皮肉な調子で語られる。ここは、「字面」だけではよんではいけないところだ。字面だけを追うと誤読をしてしまうだろう。声に出して読んでみるとよい。前半の調子と違うことが体感されるだろう。

第1場面の「あるきかたはねこがおしえてくれました」から第12場面の「うたのことはことりにおしえてもらいました」まで、ひとつひとつの行動をそれが得意の動物たちに教えてもらうというテクストと絵の流れから、主人公の少女のよろこびがゆったりと伝わってくる。後半の3場面は、「自分の部屋で考える主人公」「学校」「友だち」の場面と続き、慌ただしく収束に向かっているとさえ感じる。とりわけ学校の場面では、校舎を背景に3人の先生が主人公の少女を待ちかまえて、「ほかにいろいろこまかいことは/このひとたちがおしえてくださいますし」と語られていて、絵もテクストも意図されたおざなり感がある。つまり、ここで五味は「学校では生きてゆくための本質的なことは教えない。こまかいことしか教えない」というメッセージを発信しているのだ、と読めないだろうか。(この項続く)

「あかちゃんのぎゅうにゅう」その後

E=ラーニング大学の学生が、先日筒井頼子さんの講演会に出かけた折、例の「あかちゃんのぎゅうにゅう」の件について、勇気を振り絞って質問してくれたらしい。先日、彼女からその顛末の報告を受けた。

どうやら、筒井さんの意図では、牛乳が飲めるぐらいのあかちゃん(筒井さんの次女)を想定して作ったとうのがそのお答えだったそうだ。けれども、林さんのイラストレーションでは、小さい子どもを一生懸命育てている様子が丁寧に描かれ、お母さんの大変さがより伝わりやすいと考えてそのままにしたというお話だった。筒井さんは、とても誠実に答えてくれたようです。

なるほど、やはり微妙な齟齬はあったのだと納得しました。お話作りの核には、「(ご自分の)長女の背中を押してやりたい気持ち」があったのだそうです。私が直接伺った訳ではないのだが、あのエントリにはいくつかコメントもつき、気になっている人もいるかも知れないと思い、報告させていただきました。

いま、私のなかにある問題の一つに、「誤読の責任」というものがある。テクストであれ絵であれ「誤読」を避けることは困難である。いやむしろ、「誤読の自由」という言葉すらあるわけで、だからどうなんだということになってしまいそうだが、初歩的な「文学テクスト」を誤読した上に、子どもとわかちあう状況があったとしたらということを考えている。


トマトは「月」か?

先日、ローレン・チャイルドの『ぜったいたべないからね』を小学3年生とわかちあったことは前回のブログで紹介したが、それ以来気になることがあり、とうとう原書(もちろんPB)を「ぽちっ」と購入してしまった。そして、いろいろ考えた。

日本で「赤いトマト」を何かにたとえるとしたら、おそらく「太陽」が上位に上がってくるのではないだろうか。トマトは「日の丸」の赤である。だから、先日読みきかせに入ったクラスでの男の子は「まんげつぶちゅっと」とトマトが結びつかなかったのかもしれない。そして、その子どもの疑問がきっかけになって、私も自分が無意識に抱えていた疑問が明らかにされたように感じた。トマトのエネルギーにみちた「赤」とトマトの収穫時である(最近では冬でも手に入るトマトではあるが)夏のぎらぎら燃えさかる太陽との連想は、私にとっては分かちがたい。

しかし、当然といえば当然なのだが、原書でも「まんげつぶちゅっと」は”moonsquirters”となっている。ちなみに”squirt”とは「ほとばしる、噴出する」という意味がある。だから、この”moonsquirters”から「月をつぶして中身をぶちゅっと出した」ことを連想させる「まんげつぶちゅっと」という日本語訳が生まれるのは誤りとはいえない。しかも、ローラが三日月に座っている絵もある。確かに自然界では「赤い月」も観察されるが、日本語の感覚でいえば、この月はある種のまがまがしさを連想させ、「トマト」と「月」は日本の文化では結びつきにくいのではないかと思う。

そういえば、かつて東京芸術劇場で「世界の子どもの絵画展」というようなものを見たことがある。コンサート会場が開くまでのごく短い時間だったが、その時、夫が思いついて「子どもたちが描く太陽の色」ばかりを観察した。太陽を「赤く描く」文化と「黄色に描く」文化があることを目の当たりに経験したことを思いだした。

「太陽を黄色で描く文化に属する」ローレン・チャイルドにとっては、トマトの「赤」からは「太陽」は連想されなかったということであろう。しかしこれはまぁ私の推測であるが、あながち間違ってもいないだろう。なるほど。となると、今度は「どう訳すか」ということになるのだけれど、前述したように、ローラが三日月に座って”And she said, "Yes , of course, moonsquirters are my favorite" ”というのだから、そこは変えるわけにはいかなかっただろう。翻訳者(木坂涼さん。敬愛するアーサー・ビナードさんのお連れあいだ)の苦労がしのばれる。

それよりも、原書を読んだために翻訳が気になる箇所がでてきた。それは、「くもぐちゃらん」という名づけについてである。原書では ”.....this is cloud fluff from the pointest peak of Mount Fuji.” となっている。ええっ! ここに富士山への言及があることに驚いた。画面は、北斎が描くようなすきっとした三角形の岩山(これは絶対富士山ではない)にローラが座っている。私だったら「これはね、ふじさんの『ふわふわ雲』だよ」としてみたいところだ。”fluff”という軽い空気感を含蓄する言葉と「ぐちゃらん」という水分を含んで粘度を持った重量感をイメージさせる言葉を結びつけたことには違和感を持つ。しかし、その源は「マッシュトポテト」であるだけに難しいところだ。「マッシュトポテト」だったら「ぐちゃらん」もありだ。ところで、このページの文字のレイアウトは、細身の山と類似形を持っている三角形を成しているが、日本語のレイアウトはあまりすきっとはしていない、というかできなかったのか。

「おにいちゃ、んー」ぼくはきたなっておもったね。/いもうとが「んー」って/ぼくのことのばしてよぶときは、なにかがあるんだ。

上の部分は、I Will Never NOT EVER Eat a Tomato にはない部分である。原文にない箇所を挿入するのには理由があるのだろう。おそらくこの「チャーリーとローラ」が登場するシリーズ絵本のどこかに、このような表現があるのかもしれないが、私には確認できていない。I Am NOR Sleepy and I WILL NOT Go to Bed の最後のあたりで「らしい場面」を見つけたが、どうだろうか。これは次の課題。

3年生の「読み聞かせ」

「うう、暑い!」と心のなかで罵りながら、日陰を選んで歩いてほぼ10分、小学校に到着した。教室はザワザワしていて、椅子も机もまだ下げられていない。若い男性教師が「机を下げて」と声を張り上げていたが、業を煮やして手伝い始めた。この時点で教室に入り、「よみきかせ」の準備をした。

先生にごあいさつし、「このクラスは元気がよいですね(やかましい)」と伺うと、「元気がいい(やかましい)けれど、お話は大好きです」とのこと。確かに、絵本を取りだすと、ざわついていた教室が次第に静まり、読みはじめると、ピーンとした緊張感がただよい、絵本に集中しているのが解った。

1冊目は、『みんなおなじでもみんなちがう』(福音館書店)。画面は小さいけれど、次々に現れるさまざまな個体のすがたに目を見張る子どもたちが活き活きしていて子どもらしい。「さくらんぼ」のところで、「この種類は何か知ってる?」とたずねたところ、意味が伝わりにくかったらしく、とんちんかんな問答があった。最後のモミジの場面では「落ち葉!」と大きな声をあげた男の子がいたが、なるほどそうとも言える。葉っぱは色づいて落ちてくるのだから。

始まりが少し遅かったため、2冊目は『ぜったいたべないからね』(フレーベル館)を読む。「えだみかん」「あめだまみどり」をすぎると、次は何が出てくるのだろうと期待感を持っているのがよく解った。内容的に3年生にはやさしいかも知れないが、「おにいちゃん」の視点で、読者にむかって直に語りかけてくる姿勢はなかなか効果的であるように思う。この「妹の嫌いなものをどうして食べさせたか」という事の次第を告白する文体は、読者を共犯者へと引っ張り込むのである。

「くもぐちゃらん」「まんげつぶちゅっと」という言葉に「?」という子もいて、「満月がぶちゅっとなるのよ」とこちらが言うと納得したようだったが、日本人には「満月は赤い」という感覚はないので、この表現はわかりにくかったのだろう。むしろ「おひさまぶちゅっと」「たいようぶっちゅと」って感じだ。意識の深いところでは、私自身もそう思っていたに違いないのだが、こうして、声に出して読み、子どもたちとわかちあうことで、隠れていた意識や疑問が引きずり出されてくる。

「次はもっと楽しい本を持ってくるね」といって教室をあとにしたが、最近は読み聞かせの回数が減った分だけ、同じクラスに2回入る事が困難になり、ごくごく初歩の信頼関係をとり結ぶことも不可能で、選書にも大きな影響が出ていると痛感する。

隣のクラスのボランティアさんが、「夏休みにはみなさんたくさん本を読んでくださいね」という言葉で「読み書かせ」を締めくくっているのが聞こえたが、そんなこと言っていいのかとチラりと感じた。そういうのは教師の役目。私たちは「物語のよろここび」を伝えるための存在だ。

私は自分の教えている学生には、結構しつこく(たぶん)、お勧め図書リストを作成の上、「本を読んで!」というが、何もなしに、ただ、ただ「本を読んで!」という発言には疑問を持つ。そういうメッセージを伝えたいという気持ちはわかるが、ボランティアの発言としては無責任ではないか。その前にやるべき事があるのではないかと思う。

本当は『きつねにょうぼう』(長谷川摂子再話/片山健)を読みたかったのだが、直前のリハーサルで観客の夫に、「少し練習が足りない。噛んだところがある」とのダメを受け(夫の前では緊張する!)、断念した。歌も作ったのに…(涙)。絵も暗めで見にくい場面もあったしね。

1年生とわかちあい

今年度初めてとなる「読み聞かせ」(わかちあい)に出かけた。前年度3年生を担任なさっていた先生が1年生の担任になったので、そのクラスに伺った。この先生は、前年度担当のクラスでは、暇を見つけてはたくさんの絵本や物語を子どもたちとわかちあっていたという事を聞いていたので、是非ともうかがいたいと思ったからだ。

『さかさことばでうんどうかい』(月刊子どものとも)は、「あー、ほんとだ」「すごいね」などという声ももれたが、少し難しかったかな。集団わかちあいに使うためには、字だけを大きく読みやすく書きだして、子どもたちにも解るように少し工夫が必要であるように思われた。「『ああああ』は、同じだから簡単だね」というかわいらしい声も聞かれた。この絵本に関しては、先生がしきりに感心していた。

文字をたどりながら、すこしおしゃべりをまじえての「読み」だったので、思ったより時間がかかった。そこで、もう1冊は、短く楽しめる『うえきばちです』を選んだ(ほかにも用意していたのだが)。最後に、子どもたちから「もう1回」の声がたくさんあがったので、リクエストにこたえてもう1回読んだ。同じ絵本を繰りかえしてわかちあうのは、初めての経験であった。2回目は最後のオチの部分を、子どもたちがいまかいまかと待ち構えているのがよく解った。楽しみたい、楽しむために準備をしているぞという気迫が伝わって来た。

結末は解っているのにそれを楽しみたい、確認したいというのは子ども独特の楽しみ方だろうと思う。こういう経験を積んで、「ハッピーエンディング」や「よろこびの体験」を積みかさねてゆくのだろう。こういう子どもたちとわかちあうからこそ、私も同じ絵本を何度も楽しめるのだと実感した。ありがとう。

今回の選書は、ある方のHPで知った「1年生の定番」を使おうと当初は考えていた。しかし、件の本をユーストで購入し、検討してみたところ、私にはその絵本の価値が見いだせず、なぜそれを「定番」にするのかまったく理解できなかったので外すことにした。絵本や物語の評価や選定にはもちろんそれぞれ個性があってよいのだが、残念ながらその絵本は、私の「ベスト・オブ・ベスト」に入るどころか、むしろ絵本としての評価は低いものだった。さて、その絵本を読んでもらった子どもたちはどう読んだのだろうか?

『はじめてのおつかい』考:おつかいの裏に見える物語

絵本『はじめてのおつかい』でずっとずっと気になっていることがある。それは、みーちゃんが買った牛乳は誰のためのものかという点についてである。もちろんテクストには「あかちゃんのぎゅうにゅうがほしいんだけど、ままちょっといそがしいの。ひとりでかってこられる?」(p3)とあるから、赤ちゃんのためである事は明らかなのだが、それでも気になるのである。

まず、赤ちゃんが牛乳を飲めるほど成長しているかという点である。牛乳は乳児には飲ませないらしい。牛乳を乳児に与えるのは一歳過ぎ頃からだと聞いている。

見開きで描かれた第一場面では、赤ちゃんが泣きわめき、ガス台にはやかんと鍋がかかり沸騰している。「まま」が赤ちゃんの方からあたふたと台所に向かいながら、「みーちゃん」に牛乳を買ってきてと頼んでいる様子がうかがえる。赤ちゃんは、この見開きの場面と最後の二場面と裏表紙でしか判断できないが(心配して外で待っているママにだかれた赤ちゃん、家に戻るため後ろ向きになったママにだかれた赤ちゃん、ママにミルクを飲ませてもらってる赤ちゃん)、12ヶ月を超えているようには見えない。せいぜい10ヶ月といったところか。したがって、みーちゃんが買ってきたものは本当に「あかちゃんのぎゅうにゅう」だったのかが気になる問題として浮上してくるのである。

私は、みーちゃんが買ってきたのは、「ママがみーちゃんのおやつにつくるホットケーキのための牛乳」であったと読みたい。

台所のワゴンには、赤ちゃんの哺乳瓶とともに、卵を割り込んだ小麦粉のようなものがボールに入っている。その隣にはコップに半分ほど入った牛乳らしきものも見える。実は、私はこの絵本を初めて読んだときからこの場面を「ホットケーキの種をつくる牛乳が足りない」状況であると読んでいたのである。そのため、絵本についての本や学生のレポートの中で「裏表紙には、みーちゃんが赤ちゃんの牛乳をおすそわけにあずかっている場面が描かれている」というような「読み」にずっと違和感を持ってきたのである。確かに、テクストには「あかちゃんのぎゅうにゅう」とあるが…。

そのうえ、ママの胸もたっぷりと豊かで、いかにも授乳中ですという感じがする。どこかその辺に粉ミルクの缶でも見えると私の読みは補強されるのであるが、それはない。ただし、母乳で育つ子どもににだって、ミルク以外のものを飲むために哺乳瓶は必要であるから、粉ミルク缶が見えないからといってもそれは決定的ではない。

この絵本はかなり評価が高く、「子どもの冒険物語」としても位置づけられている(2003年国際子ども図書館展示「未知の世界へ」参照)。また、人気テレビ番組(日テレ)「はじめてのおつかい」にもアイデアを与えたのだと聞いたこともある。1977年に「子どものとも傑作集」としてハードカヴァーで出版されてからすでに30年以上経過し、いわば、古典の殿堂入りを果たしたすぐれた絵本であることは間違いないだろう。しかし、よくよく検討してみると、子どもの生活をリアルに描いた絵本の生命線ともいうべきその「リアリズム」にほころびが見えてこないだろうか? 

「はじめてのおつかい」は子どもにとっての最初の冒険である。その経験はとても貴重で、子ども自身の心にも深く刻みつけられることであろう。その最初の体験である「おつかい」の中身が「自分の牛乳」より、誰か他の人のためのものである方が達成感が違う。その点では「あかちゃんのぎゅうにゅう」である方がふさわしい。しかし、である。

ああ、林さんと筒井さんのお二方に伺ってみたい。「あの赤ちゃんは月齢何ヶ月ぐらいを想定してお描きになりましたか?」「テクストの赤ちゃんはいくつに想定なさいましたか?」と。

日頃、赤ちゃんばかりにかまけてしまい、さびしい思いをさせてしまっているみーちゃん(みーちゃんはどうやら一人で絵を描いていた様子)を喜ばせようと、ママはホットケーキを作ることにしたのではないかと思う。みーちゃんの「はじめてのおつかい」の背後には、母の「お詫び」の物語が読める。

絵本の研究が進み、絵本の絵の解釈コードをたくさんの人が手に入れる事ができるようになった。そのため、ことによったら「よい絵本」とされている作品の読み直しが求められる状況も出てくるに違いない。解釈コードをだけを頼りに絵本を読むのではなく、生活者としての視線も忘れずに今年も絵本を楽しんでいきたい。

授業で読んだ本覚え書き

「英米児童文学」の授業は、「児童」って、何歳の人をさす? 「子ども」と「児童」はどう違うの? 「児童文学」の「児童」、「子どもの文学」の「子ども」はどういう意味を持っているの? という問いかけから授業をはじめた。そして、『だくちるだくちる』を紹介して、「子どもの文学」の始まりついて少し語った。

3ゼミでは、『北の魔女ロウヒ』を読んで、伝承文学(とくに神話)の誕生や特徴についてごく一般的な話をした。『北の魔女ロウヒ』は、厳密には神話とはいえないだろうが、「神」についての「話」であることは確かである。

アドバイザーとして久々登場の韓国のりこちゃんにも『北の魔女ロウヒ』と『ありがたいこってす』を聞いてもらった。『ありがたいこってす』はちょっと「?」だったような。「おち」を理解するのはまだ難しいのだろうか。

ところで、渡辺茂男さんの日本語は声に出しにくいと思っていたら(『エルマー』とか『せかい1おいしいスープ』)、『せかい1おいしいスープ』が訳者を変えて、岩波書店から出版されたことを知る。『エルマー』も何とかした方がいいのではないかと思う。私が渡辺茂男訳を使うときは、必ず原文にあたって、読みにくいところ、流れが悪いところは直している。

合宿勉強会

一泊二日で絵本の勉強会をした。勉強の合間のおしゃべりにも満開の桜に負けないほどに花が咲いたが、内容的にはまずまず充実した勉強会であったと思う。主宰者の思いこみかしら?

お題は2つ。ブルーナの『うさこちゃんときゃらめる』について、「絵本の様式とテーマ」「4歳児と小学校低学年が分かち合えるもの」「子どもの<よろこび>と絵本」「絵本と読み聞かせ」という点をめぐって議論が展開された。話し合いの中で話題に出た絵本は、『かようびのよる』、『セクター7』、『ラストリゾート』、『ちびくろさんぼ』(ドビアス作)、『おおきなかぶ』(佐藤忠良作)、『だるまさんの』、『よしおくんがぎゅうにゅうをこぼしてしまったおはなし』、『まよなかのだいどころ』などなど(順不同)。

もう一つは、赤木かん子(さん)の講演録につっこみを入れつつ、児童図書館員の役割を考えようというもの。2007年に板橋区の図書館で開催された「調べ学習の子どもたちに答える図書館スタッフのための研修」で行われた講演をおこした冊子を使った。しかし、これがとてもひどいもので、編集のイロハを知らない素人でさえやらないだろうというミスがとても多く露出している冊子であった。誤字、脱字、誤った句読法の初歩的ミスの多さだけでも商品価値などないに等しいが(なんと600円!!)、内容も、書式同様つっこみどころ満載で、なぜ、このようなものが販売されるのか、いや、なぜ、かん子ばかりがもてはやされるのかがますます不思議に思えるものであった。

考え方の違い(子どもには、(おとながすすめる)よい本ではなく好きな本を読ませればよい)や日本語表現力の不適切さ、未熟さは、とりあえず不問に付すとして、原稿そのものを講演を聴いていない人にも解るように手を入れる必要もあったろうし、データや裏づけをする必要のある記述もあった。また、これは彼女の特徴であるとも思うのだが、裏づけもなく一方的に断定するという姿勢に関しては、疑問を感じざるを得ない。

例えば、小学生に「最終的に、これはもう絶対、無理。小学生で数字を使わせるのは絶対無理」(p8)といって、小学校低学年でNDCを導入することを否定しているが、そんなことはない。私がはじめて朝暘第一小学校の図書館活用教育を見学したとき、小学校2年生の授業で子どもたちが先生の質問に、「その本は4の「生きもの」にある(4類の自然科学に分類されている)」と自然に答えていたのである。NDCを小学校でいったん身につけてしまえば、どの図書館に行っても使える。これは、情報収集のはじめの一歩。

いっぽうで、子どもは「写真的記憶力の持ち主」(p15)であるから、文字は読めないが「アートは分かるんです」(p15)といい、したがってアディダスとナイキの区別がつくと書いている(おっしゃっている)。ならば数字だって記憶できるはずなのだが…。数字だって「アート」的要素はあるのにと思うのだが。なぜ、NDCを目の敵にするのだろう。かん子シールの宣伝? わからん。

「調べ学習」についても、「ノーハウ」は語っているが(というより事典の使い方とテーマのたてかたのごく初歩的な方法)、「調べ学習」の意義、学校図書館の役割についてきちんと理解しているとは思われない記述がそこここにある。「学び」の本質や学校教育についての本質的な部分が理解できていないのではないかと疑問を持つ。

現在、公共図書館は、管理委託、指定管理者制度等で困難な状況をむかえているが、それについても、「民営化」(p23)という言葉を使っている。しかし、これは大きな誤りである。公共図書館の抱えている問題を「民営化」といわれて、何も反論しない図書館関係者が聞いている講演って一体どんなものだったのか? 想像するだにこわい。

次回は6月末頃を予定している。



いもとようこの『おおきなかぶ』のこと

E=ラーニング大学の授業で、受講生の一人が、いもとようこの『おおきなかぶ』(金の星社/2007年)の最後は、「カブで味噌汁を作る」とチャットを入れてきた。びっくりした私は、早速、件の絵本を注文して確かめた。「味噌汁」は間違い。「かぶのスープ」であった。

これについて発言した受講生は、絵本を一度でも読んでいなかったのか? 確かめずして、人から聞いたまま「味噌汁」とおっしゃったのであろうか。それとも、「スープ」が頭の中で「味噌汁」に変換されてしまったのだろうか。いずれにしても、情報を伝える事の怖さをを感じた。

転んでもただでは起き(たく)ない私は、いもと版の『おおきなかぶ』を実際に手にすることで、いくつかの発見をした。まず、カブを抜く方向が佐藤忠良の福音館版、田島征三のミキハウス版とは逆であること。この、カブを抜く方向はとても重要であると思われるのだが、いもとさんはそこまで考えたのだろうかという疑問をもった。

また、佐藤忠良描くロシアのお百姓さんの手は、いかにも働き者のお百姓さんらしく、がっしりと無骨な手をして、力いっぱいカブの葉っぱの茎を持ってひっぱっている。しかし、いもと版のおじいさんの手は、彼女独特のやさしい色合いで描かれており、茎をしっかり握ってひっぱっているというよりも、ふんわりと添えているようにしか見えない。田島征三のおじいさんも茎をしっかり握っている。

色感といい、表現といいいもと版の『おおきなかぶ』は、昔話絵本として問題があるのではないだろうか。しかし、この絵本がお母さんたちに人気があるのだそうだ。これも件の学生情報であるから、うのみにして良いのやら悪いのやら…。

「おばけ」と「かいじゅう」

E=ラーニング大学で久しぶりのオフ会があった。「資料組織法演習」と「児童サービス論」の合同で半期に一度開いている。強烈な雨女か雨男(誰だ!)がいるらしく、またもや雨の中の開催となった。

ふだんは全国各地に散らばっている学生が集合するのだから、自己紹介をして近況報告や雑談をするだけでも楽しいのだが、さらに何かお楽しみをということで、今回は1冊の絵本をトピックにあげた。というのも、ある学生(公共図書館の司書)が3年がかりで、『いるいるおばけがすんでいる』(以下『おばけ』と表記)を手に入れたという情報を仕入れたからだ。

『おばけ』は、子どもの本に関わっている人で、この本の存在を知らない人は「もぐりである」と断定してもよいほどの絵本とされる『かいじゅうたちのいるところ』(以下、『かいじゅうたち』と表記)の別バージョンである。私自身もその存在は知っていたのであるが、実際に実物を目にしたことがなかった本である。というわけで、『おばけ』と『かいじゅうたち』の読み比べをしてみようということになった(した?)のである。ついでといってはなんだが、それならば、英語の原文も読んで、絵本を解釈してみようと、言い出しっぺの私がしゃしゃり出ていったのだった。

事前に『かいじゅうたち』を読んでくること、可能ならば持参することとの告知をしてあったので、会場に来たそれぞれが、手元に絵本を置きながら、じっくりと観察、鑑賞することができた。また、なかなか手に入らない『おばけ』の方も図書館から借りてきてくれた参加者もいた。さすが図書館学の学徒である。

さて、66年出版(原書は63年)の『おばけ』は、当時の子どもの本の出版事情、受容状況、日本の経済状態などを反映したものであることが、訳文からも、絵本に付録として添えられていた冊子(マザーズブック)からも把握できた。『マザーズブック』には、原文と原文の忠実な訳、日本語訳を作るにあたっての編集委員会の見解、丁寧な解説があって、じっくり読むと興味は尽きないのであるが、やはり気になるところは、「wild things」が「おばけ」と訳されている点と、「おとな目線」の訳文であろう。

『マザーズブック』の「親のための原文研究」の章には、「おばけ」と訳した根拠として、以下のような記述がある。

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Wild には、野生の、野育ちの、乱暴な、手におえないなどの意味がふくまれています。本文では、それらの意味から、さらに、幼い方々にもなじめることばとして「おばけ」と訳しました。ただし、日本的な「おばけ」よりずっと野性味のあるものとして受け取らせてください。したがって、本書のタイトルも本文の一節をとり、「いるいるおばけがすんでいる」と、原文からはなれて訳しています。
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翻訳者(『おばけ』版は翻訳者として個人の名前が挙がっておらず、翻訳編集委員会が翻訳の責にあたったと推測される)の意図は理解できるものの、あの絵を「おばけ」とされると違和感を禁じ得ない。また、訳文全体からも、この編集委員会が、作品の核となっている「子どもの心の世界」をきちんと理解していたのだろうかと疑問を持ったが、「孤独な子どもの脳裏に浮かびあがる幻想を重要なテーマにしている」との見解も示されている。解釈が日本語訳に反映できなかった不幸な例だったのだろうか。66年にいったん翻訳されたものが、75年に別の出版社から訳し直されるというのはどのような事情があったのだろうか。考えれば考えるほど気になるところが出てくる。

75年版で「wild things」を「かいじゅう」とした経緯については、訳者の神宮輝夫先生にお伺いしたいところであるが、これも時代背景が大きく影響していることを発表者から示唆された。男の子にとっては、「かいじゅう」といえば、「ウルトラマン」と分かちがたく結びついているらしい。「ウルトラマン」の放映が始まったのが1966年、その後「ウルトラマン」は幾度となく再放送されていたそうだ。そのウルトラマンが戦う相手は、「怪獣」であったいう。古くからあった「怪獣」という言葉を、「凶暴なものと不可解なものと畏怖すべきものを併せもった存在に定義しなおした」(碧岡烏兎)時代と文化が浮かびあがってくる。

子育て中の親にとって、時に子どもは「かいじゅう」として立ちはだかる存在であるが、ことによったら絵本『かいじゅうたち』が、その名づけに一役買ったのかもしれない。『かいじゅうたちのいるところ』によって、私たちが子どもの「かいじゅう性」に気づき、その意味を与えられたことは大きい。

ところで、66年版の監修委員には、三島由紀夫やハル・ライシャワーの名前が挙がっているのも興味深い。

1年生と絵本を楽しむ

先週より1年生に「読み聞かせ」に入っている。やはり、1年生の反応は素直で楽しく、こちらもうれしくなる。春には「どうかな」と躊躇していた『うえきばちです』を、朝暘一小、三小での反応を見て、こちらでも解禁した。

子どもたちの盛りあがりが読み手にも心地よい。『うえきばちです』、「ついでにペロリ」(お話)と楽しんだあと、男の子から「もっとこわいの!」とリクエストされてしまった。「ついでにペロリ」で「ついでにおまえも食ってやる!」と、子どもを一人ずつ指さしたのがきいたらしい。

「もっとこわいの」は、『三びきのやぎのがらがらどん』かなとも思ったけれど、あまり興奮させてしまって収拾がつかなくなっても困るしと考えて、最後の締めには『しりとりのだいすきな王さま』で終わった。

クラス担任は、小柄な年配の先生で、子どもたちの中に入って一緒に楽しんで下さった。男の子がひとり、うしろによせた机の影に引っこんでいたが、お話が進むにつれて、少しずつにじり寄ってきたことがうれしかった。

「読み聞かせ」再開!

先月末に小学校が始まり、昨日は、久しぶりに「読み聞かせ」に出かけた。今回は、最後の最後まで選書で悩んだ。導入に『これがほんとの大きさ!』(スティーブ・ジェンキンズ/評論社)を使いたいと思っていたのであるが、これはとてもインパクトがある絵本だし、盛りあがって、時間がかかりそうなので、後回しにすることにして、『どうぶつさいばんライオンのしごと』(竹田津 実・あべ 弘士/偕成社)を読んだ。

じつは、この『どうぶつさいばん…』は、『これがほんとの大きさ!』と抱き合わせで読んだらいいなと考えていたのである。芸がないけれど、「動物つながり」で。しかし、ページによって、字が白抜きで、読みにくいのである。一度、授業で紹介したときに、とても読みにくくて困ったことがあった。ならば練習すればいいだろうに、うまくいかなかった絵本に再挑戦するのは、かなり決意がいる。というわけで、直前まで、ぐずぐず悩んでいたのであった。

あれこれ思いうかべるのだが、どうしても決定打に欠け、やはり、『どうぶつさいばんライオンのしごと』でゆくことにし、出かける直前に、数回、声に出して読み、読みにくいところは、「テキストを頭に入れた」。

教室(6年生)にゆくと、子どもたちも先生も床に座って、すでに体制が整っていてので、そのまま、あいさつをして、まず、『どうぶつさいばん…』を読みはじめた。教室はしんとして、子どもたちがじっと物語を受けとめているのが感じられた。いろいろな思いが心に渦巻いているような表情だった。とくに、男の子たちの真剣な目つきが印象的であった。

草原の動物たちの暮らしやヌーの主張、ライオンへの弁護など、あまりにも自分たちの日常的な発想から違っているので、物語を受けとめることで精一杯だったような感じも受けた。こんな時は、感想を聞いてほしくないなぁと、読み終わったが、案の定、先生は「日直さん、ひと言感想をいってください」とおっしゃった。

『どうぶつさいばんライオンのしごと』のような作品に対しては、自分の思いを言語化することは難しいだろうに。思わず、「言葉ではうまく表現できません」という感想でもいいよと、口を出してしまった。

時間もいっぱいいっぱいだったので、『これがほんとの大きさ!』は、「イカの目」「クマ」「トラ」を見せて、おしまいにした。ところで、『どうぶつさいばんライオンのしごと』は、対象年齢が「5,6歳より」となっていたが、これってどうなんだろう? 私には、高学年向きの作品に思えるのだが。

昔話絵本を展示する

E=ラーニング大学の学園祭の一環で、私物の昔話絵本の一部を公開、展示することになった。いろいろな授業で見せたり読んだりしているもののうち、「赤ずきん」「白雪姫」「シンデレラ」絵本を選んだ(選書は我が家で行い、そのあとは当然のように宴会、花火見学となった)。和書、洋書ほぼ半分ずつで、全部で29冊の絵本を大学図書館の一コーナーで公開する。展示としては少ないし、好きで集めたり、必要に迫られて購入したものなので、これといったポリシーはないが、一つにまとめてみると、なかなか見応えがある(かな)?

昨日は、展示する絵本の書誌をつくるために、ノートpcを持って学校に出かけ、一日作業をしてきた。絵本の展示ということで、目録をつくることになったのだ。目録は、論文などの書誌事項の記述と似ているところもあるが、それより厳格で、かなり緻密さが要求される作業だった。最近では、図書館でも目録を採らなくなっているので、学生さんにはよい勉強だったことだろう。

目録には、文の作者を筆頭に持ってくるのが普通なのだが、今回は絵本であるということを考慮し、画家の名前を筆頭に持ってきた。そして、短いけれど、それぞれの書誌事項のあとに、絵本について短い「売り言葉」を加えた。

今年の学園祭は盛りだくさんで、オフ会と合同の企画では、私は、「オズボーンコレクション」に関するミニレクチャーを担当し、朝暘第一小学校の見学の前日には、鶴岡から、山形大学の校舎を借りて、ネットで配信する座談会を行う。ゲストは、元朝暘一小の学校司書の五十嵐絹子さんである。

学園祭は一般にも開放されている企画もあるので、是非参加して、図書館では、絵本の展示を見ていただきたい。

「もう一回読んで!」

先日の読み聞かせは3年生のクラスに入ったのだが、いつも通り『うえきばちです』を最初にわかちあった。子どもたちの反応もよく、読み終わったとたん、「もう一回読んで!」と男の子から声がかかった。初めての経験だったので、うれしかった。「もう一回」読みたいのは山々なんだが、時間もないので、残念ながら彼の希望は叶えられなかった。

そして、次には『これはのみのぴこ』を取り出した。子どもたちののりもよく、「これはのみのぴこのすんでるねのこのごえもんのしっぽふんずけたあきらくんのまんがよんでるおかあさん」あたりがら、笑い声も聞こえ、読み手の私もとてもきもちがよかった。最後のページでは、邪道なのかもしれないが「すごく早く読むから、応援してね」といったら、数人の子どもから「がんばれ!」と声がかかった。あまりのスピードの速さに子どもたちはあっけにとられてしまったようで、「シーン」となり、「何であんな早く読めるんだろう」というつぶやきも漏れた。うーん。これは、私の「早口パフォーマンス」になってしまったかと、少々反省している次第である。

最後に『せかい一おいしいスープ』を読んだ。少しい長いだろうなとどこかで意識していたのか、読み方が早かったような気もしたが、子どもたちは最後までよくきいいてくれた。

最近は少々要領が解ってきて、時間通りにピタリとはじめるのではなく、少し早めに行って、「やすべいじじい」などみんなのそろうのを待ちながら雰囲気を盛りあげて、導入に『うえきばちです』をよんでいる。そのあと、教室の雰囲気を見ながら、必ず少し長めの「物語」を読むことにしている。そのうちに、15分ぐらいの作品を「耳から」楽しめるようになればいいなぁと考えている。

ディズニー絵本

春学期の授業も峠を越えて、半分消化するところまでいたった。すると、もう試験(レポート)の内容を考えなくてはいけない。ゼミ、基礎演習は通年科目なので、春学期は「英米児童文学」だけとなる。一昨年までは、「いちばん読みたい絵本をいちばん読みたい人とわかちあった体験記」が春学期のレポートであった。なかなかおもしろいものが出てきていたのであるが、ここ数年、学生の文章力が落ちて、100人ものレポートを読み、評価することが苦痛になってきた(今年は大幅に受講生が減った。最近の英文科学生は「英語学」を好み、文学は敬遠される傾向にあるからだろうか)。

そこで、昨年から課題の選択肢を増やして、「仕事が嫌にならない工夫」をしている。「わかちあいの体験記」の他に、「昔話の分析、解釈」、「創作」を加えた。「創作」は、オールズバーグの『ハリス・バーディックの謎』をヒントを作品をつくるというものである。この授業は楽勝科目ではないけれど、かといってハードルは高くしたくはないのである。

とりあえず、試験にはこんなことを考えているのだがと話して学生の意向を聞いた。一つの課題に集中するというよりは、うまい具合にばらけてくれたので、今年もこれでいこうかなと思っている。ところが、「絵本のわかちあい体験記」で準備をしたいと言ってきた学生が、「ディズニー絵本」を選びたいと書いてきた。

うーん。彼らは、「絵本といえばディズニー」の世代なのか。これは何とかしなくっちゃ。数年前、「ディズニー版白雪姫」をはじめとする、ディズニー・プロダクションによる昔話のアニメーション化について、授業で批判的に扱ったことがあるが、もう一度やっておかなくては、彼らはとんでもない絵本を選んでくるかもしれない。そのときも、「先生のいうことは解るが、でもディズニー好きです」「先生はディズニー嫌いなのですね」(そういう問題じゃないって!)なんていう感想もでてきたが、最近はどうなっているのだろう。

ディズニーの「偽プー」(わしこ語)のグッズをもって、本物プーも読んだことのない自称「プー好き」学生も多いし、この辺でもう一度、「ディズニーの功罪」をやっておくべきであるなと感じている。

『歯いしゃのチュー先生』を読み合う

学校行事のために、2回ほどお休みだった「読み聞かせ」ボランティアに久しぶりに出かけた。今回の担当は5年生である。入る学年やクラスがいつも違うと、同じ絵本を使い回すことができるという利点はあるが、子どもたちとじっくりつきあうことができないのが残念だ。長期的ビジョンを持っての計画が立てづらいのである。

さて、昨日は教室に行くと、まだ準備ができていなかったので(なんとこのクラスは「読み聞かせ」が終わると田植えをするので着がえをしていて遅くなったようだ)、子どもたちといっしょに机を運ぶことからはじめた。机を運んでいると男の子が「誰のお母さん?」と訊ねてきた。「読み聞かせボランティア」は、ほとんど子どもの保護者が携わっているから興味をもったのだろう。

私は、まさかそんなことを訊かれるとは思いもよらず、一瞬返事に困ってしまい、結局、「誰のお母さんでもないのよ。私の顔見て!お母さんのわりには年とってると思わない?」などととんでもなくお馬鹿なことを口走ってしまったのである。その子はびっくりしただろうなと、後からちょっと反省した。夫にその話をしたら、「誰のおばあさん?」って訊かれなくて良かったねといわれた。それはとても失礼。

後に「田植え」を控えていた子どもたちは、テンションが上がっているせいか、けっこう楽しんでくれたようだ。『歯いしゃのチュー先生』を取り出すと、「読んだことある」とか「歯医者さんにあった」(お世話になっている敷地内の歯医者さんにこの絵本をさしあげたのは私であるが、そこで読んだのかな)とかいう声があがったが、みんなじっと聴きいってくれた。なかには、口をあんぐり開けたまま「ぽかん」という感じでお話に聞き入っている男の子がいた。みんながそろうまで「やすべいじじい」で遊び、導入には『うえきばちです』を読んだ。

声に出して絵本を読むとき

E=ラーニング大学での授業(メディアスクーリングと呼ばれるpcを使って配信する授業。もちろんリアル学生も受講できる)後の反省会(軽く飲みながらの食事+おしゃべり)の時、私が何回か『うえきばちです』を子どもたちに読んでいる事を知っている受講生のひとりから、「どうよんだらいいのか」という質問が出た。

もちろん、どんなものでもテクスト通り読まなくてはいけないのは原則である。しかし、場合によっては、若干修正を加えたほうが、とくに多人数での「読み聞かせ」の場合には、さらに効果をあげることもある。おそらく多くの方は、ご自身のお子さん(とくに小さいお子さん)に絵本を読んいる時、「テクストにない語りかけ」を無意識でやっているころだろうと思われる。言葉の獲得期の初期段階にある子どもたちには、テクスト通りに語るだけでは、わからない事もある。そのため、場合によっては「同じ言葉のくりかえし」が必要なこともあるだろう。一対一で読みあっているときは、読み手は直感的に子どもの様子を理解できるし、すぐ対応できる。また、著作権的にも著者に敬意を払うという意味においても、個人の場合は問題にされることはないだろう。

しかし、「公の場」で読む場合には、やはり考慮が必要であろう。したがって、画一化して、「テキスト通り読まなくても良い」とはいえないところが難しい。一作、一作検討すべきである。とはいえ、私のいままでの経験から、比較的幼い子ども向けの絵本(とくに画家がことばをつけている場合)では、テクストを修正したり読み方を工夫したほうが、よりその絵本の「よろこび」の度合いが増加し、絵本の世界が深く共有できるという印象を持っている。

例えば、『うえきばちです』では、「め」「は」「はな」などの同音異義語の面白さが中心になるので、とくにテキスト通り読むより、「くり返し」を使って「読み方」を工夫したほうが楽しめるだろう。私は、たいてい次のように読む。

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まいにちみずをやっていたら、「芽?」がでました。(ポーズ) 「目」が出ました。(納得) 「葉?」が出ました。(ポーズ) 「歯」がでました。(納得)

そして「みみ、みみ、みみーっと」「け、け、け、けけけけけ/けけけけけけけけけ、けっ、けっ」の部分を二回読む。

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この読み方は、子どもたちと絵本をわかちあっているときに、直観して、反射的に出てきたものである。このような「場」こそ、絵本をわかちあうときの醍醐味ともいえるものであって、「け、け、け」とくり返しながら、ゆっくり子どもたちの表情をうかがうと、彼らはほんとうにいい顔をして絵本の世界に入りこんでいることがわかる。

ここに紹介したのは私の読み方であって、みなさんがそれぞれのときに、「場」を作りだせばよいのだと思う。著者に敬意を払いつつ、このレベルでの「読み」は許容範囲ではないかと思うが、何よりも大事にしなくてはいけないのは、子どもたちに「絵本のよろこび」を伝えることであるという意識であろう。

いま、私が、それぞれに論理的に説明できる理由をもって意識的にテクスト通りに読まない作品は、『てじな』、『しりとりのだいすきなおうさま』、『ありがたいこってす』(常体から敬体に)、『バスラの図書館員』(明らかな誤訳を直して)などである。「感覚的に受けつけない」だけでは、読み方を変えるべきではないと思うし、もし、「迷い」「不安」があるならばテクスト通り読むべきであると思う。「公の場」では細心の注意を払った上での読み手の深い学びの結果としての「読み聞かせ」であってほしい。

ところで、反省会では当然のことながら、「あれ」は一滴も口にしてませんので。

『子どもへのまなざし』評

先日話題にした、『子どもへのまなざし』について、HNぱたぽんさんから以下のようなコメントを頂きました。大切なエッセンスをおっしゃっているので、ここでご紹介したいと思います。

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『子どもへのまなざし』も『続子どもへのまなざし』も子育て中の親の必読書です。子どもとよい関係が築きにくい親には絵本が一番だと思います。膝の上に座らせてただ心をこめて読んであげるだけでよいのですから。質の高い絵本は美しい日本語をきちんと子どもにつたえてくれますし、子どもは親の愛情を自ずと感じ取ることができるのですから。そして幼い子に大切な「安心する」ことも。この時期に「心の安定」が形成されることはとても重要なことだと思います。一緒に絵本を楽しんでいるうちに子どもの感情の動きも少しずつ感じ取ることができるようになります。ほんとに絵本は大きな力を持っています。
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このご意見を読んでいると、先日のエントリに『子どもへのまなざし』を引きあいに出したのは、ちょっとまずかったなという気がしています。佐々木正美氏は、「子どもを忌避する」時代的な心性について述べているのではなく、子どもについて書いているわけですから。

佐々木氏の主張や「思い」は本質的でとても共感できるとはいうものも、「子どもを忌避する時代」には、彼の言葉は残念ながら伝わりにくいのではないかとも一方では思われるのです。彼の言葉を伝えて、実現してゆくためには何をすべきなのでしょう。やはり、地道に、子どもと本(絵本)に関わることのすばらしさを伝えてゆくことなのだろうと改めて思っています。

異界で食べ物を口にすること

以前この日記に、『めっきらもっきらどおんどん』(長谷川摂子作/ふりやなな画)のかんた君が、異界に行って「よもつへぐい」をしたのに、こちら側の世界に帰って来られたことに関して、物語のルールに反するのではと疑問を呈したことがある。もちろん、帰ってこられなきゃ困るのだけれど。

ところが、絵本を見ていて一つ気になることをみつけた。かんた君と3びきの物の怪(もんもんびゃっこ、しっかかもっかか、おたからまんちん)は、たしかに「おもちのなるきを みつけて たべた」のであるが、そのお餅の色がそれぞれ違う。かんた君は白いお餅、もんもんびゃっこ、しっかかもっかか、おたからまんちんはピンクのお餅を食べるのである。

そうか、ここでひとひねりあったのか。このことをE-ラーニング大学のコミュニティで話題にしたところ、おもしろい意見が出てきた。ピンク色は「桃」に通じるから、ピンクのお餅を食べた3びきは、桃から連想して「不老不死」を獲得している存在、つまり明らかに異界の存在なのではないか、そして、かんた君の食べたお餅は、「白」がら連想して、「純潔」「けがれなさ」に通じ、たとえ異界に行ったとしても、その「気」には侵されないのではないかという意見である。「桃」への連想はおもしろいと思うが、餅は「紅白」なんではないかしらとも思うのである。どうなんだろう?

また、餅のなる木は、「繭玉」みたいだといううコメントもあったが、たしかにそんな感じがする。ところで『めっきらもっきらどおんどん』は読めば読むほど、和製『かいじゅうたちのいるところ』だなぁ。

ちいさなかがくのとも『おでこにピツッ』

三宮麻由子さんの『おでこにピツッ』がステキだ。風の向きが変り、男の子の「おでこにピツッ」と雨粒があたって降りはじめたにわか雨(夕立かな?)がやむまで、その間の雨の音を絵本にしたものである。雨がやんだあとにできた水たまりには雀が遊び、空には夕焼けが広がって、雨のあとの「におい」まで感じられる。この絵本は、2006年6月に「ちいさなかがくのとも」の一冊として出版されている。絵は斉藤俊行さん。

降りはじめは、「おでこにピツッ/じめんにツプッ/ふみいしにチピッ/やつでのはっぱにパツッ」だったのが、激しくなると「おでこにピツルピツル/じめんにチタツツチタツツ/ふみいしにキツンツツンキツンツツン/やつでのはっぱにパラツツパラツツパツパツパラツツ」と変わってゆく。私は、やつでの音にやられてしまった。すごい。そうそう、ほんとにそんな感じで雨って降るよねと、とても共感したのである。

オノマトペというのは、ある種の決まり文句だからこそ、たくさんの人に理解してもらうことができる。「ワンワン」「ニャーニャー」、雨だったら「しとしと」「ザーザー」である。でも、こういったオノマトペは、すぐ手垢にまみれ新鮮さを失ってしまう。しかし、凡人には、日本語の音韻をこえた「音」を、日本語の音韻に移し替えるなんてことは至難の業である(芸人がやっているのは声帯模写であろう。これもすごいと思うけどね)。

その点で、三宮さんの感覚には脱帽だ。言葉を遊びにしてしまわないで、さまざまな雨の音を誠実に捉えようという真摯な姿勢も感じる。また、絵を描いた斉藤さんも、彼女の言語表現をきちんと受けとめて、次のように書いている。

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三宮さんの表現する音は、その表現自体は独創的でありながら、とても普遍的な本来の音の姿を捉えているのだと思います。ありふれた加工などは施されてはいません。僕にはそれがまるで、ひとつひとつ透明度も反射率もちがう、「音の原石」のように感じられます。(「折り込み付録」より)
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納得。まさにその通り!

男の子が雨傘の天井に手を当てて雨を感じている時の「プトゥプトゥプトゥプトゥ/プトゥン/プトゥプトゥ」という音の表現は、これはもう、「秀逸」という言葉でも表現しきれないほどステキだ。傘を通して伝わってくる雨の重ささえ感じるのである。

うーん。私は、この絵本をどう読もうか? じっくり時間をかけて、表現の方法を考えたい。

この二人での絵本には、最近出版された『かぜフーホッホ』(「ちいさなかがくのとも」。2007年11月号)もあるが、私は『おでこにピツッ』に山盛りの☆をさしあげたい。ハードカバーにして、たくさんの子どもたちに渡してあげたい絵本だ。

この絵本を紹介してくれたK子さんに感謝!!

絵本マラソン

秋学期、第1回目授業(「英米児童文学」)恒例の「絵本マラソン」で学生に紹介した絵本を記録しておく。「お話会」や「授業」で使用する絵本や物語の「著作権」について、関係者のお話を聞いたり、学習したりしていると、「絵本マラソン」のような授業が有効なのか、あるいは、著作権の侵害には当たらないのかと、今までは考えずにいた事が気になって仕方がない。また、翻訳権は、「誤訳を含めての権利」であることを今さらながらに認識し、困った事がふえつつある今日この頃。

●川端誠『うえきばちです』。BL出版。
●イブ・タイタス文/ポール・ガルドン絵『ねずみのとうさんアナトール』。童話館出版。
●竹津実作/あべ弘士絵『どうぶつさいばんライオンのしごと』。偕成社。
●アンドレア・ユーレン作『メアリー・スミス』。光村教育図書。
●トミー・デ・パオラさく『神の道化師』。ほるぷ出版。

さすがに、腕が疲れた。最近、目が悪くなってきて、めがねを使い始めたのであるが、慣れないせいか、うまく使いこなせない。で、めがねをかけたり、外したりするのだが、活字の色や大きさによっては、よく見えない事があり、思わぬ間違いをすることがある、という事がわかった。困る。

『The Funny Little Woman』を読む

The Funny Little Womanは、日本の昔話(「魔法のしゃもじ」系のお話)に題材をとったハーン(小泉八雲)の再話をもとにして作られた絵本である。

表紙は、巨大な灯籠のような建物に「笑うおばさんが」立っているのだが、このおばさんよく見ると、頭に「かんざし」をさしている。しかし、このかんざし、どう見ても「箸」にしか見えないのである。また、お地蔵さん、鬼、家の描き方など、「異界」が表現されていることを前提にしても、日本人の私たちからしたら、違和感を持たないわけにはいかない。この絵本は、1973年度のコルデコット賞を受賞し、現在でも入手できる。また、アマゾンJPからは、かなり大きな画像も見られる。

先日、この絵本を異文化表象の例として、受講者のみなさんにお見せした。自国の文化が、よそでどう描かれているのかを知り、当該文化に属する私たちがどう感じるかによって、異文化表象をどう捉えるか、考えるのかのとっかかりにしたかったからだ。

つまり、『シナの五にんきょうだい』や『ちびくろさんぼ』について、当該文化に属している人の気持ちを、私たちがThe Funny Little Womanに触れることで、「擬似体験」できるのではないかと考えたからだ(『ちびくろさんぼ』については、アフリカ系の人びとの気持ち)。体験は無理だとしても、相手の立場に立って、相手の気持ちを「想像」することはできる。絵本を見た受講生のなかからは、驚きだけでなく、不快感を表明した者もいた。「こんなふうに日本が表象されるのは嫌だ」「日本を正しく表現していない」などなど。

「着物の着方がだらしがない」「家には扉がなく小屋みたい」などの絵画的な表象だけでなく、主人公が”Tee-he-he-he”と笑うのも、私はなんだか嫌だった。

しかし、日本文化に属さない人にとっては、「小さい頃楽しく読んだ本がまだ手に入ってうれしい」「笑いで、困難な状況をのりきってゆく物語がすばらしい」「絵がかわいい(cute)」「アジア文化へのよい導入になる」「神秘的な要素がある」などの感想を持つのである(amazonのカスタマー・レビューから。14あるレビューのなかで日本文化を正確に表現していないと書いていたのは一人だけであった)。

ここまでくれば、あるべき一つの回答がみえてこないだろうか? 

ところで、私はこの物語を「笑いで困難をのりきる」話であるとは読めていなかった。「そういう話なのか」と理解したのは、カスタマー・レビューを読んだからだ。私は、絵本に描かれている一つ一つがひっかかり、物語を楽しむどころか、「読む」ことさえできなかったのである。ここに示唆されていることも大きく大切な問題である。

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